mixiユーザー(id:4597260)

2017年07月04日21:58

2271 view

信念と〜寺田ヒロオと70年代少年漫画〜現実の挟間

〜やはり、漫画は面白くないと、、〜

漫画家、寺田ヒロオを知っていますか?
1950年代から60年代半ばまで、野球漫画を中心に活躍。
作風は明朗健全。
フォト

またかつて、新人時代の藤子不二雄や赤塚不二夫ら
と共に「トキワ荘」に住み「新漫画党」を結成、
彼らの兄貴分としての存在も大きい。
寺田がいなければ、その後「天才バカボン」も「ドラえもん」も
世に出なかったかも知れない。

私が少年雑誌を読み始めたのは、小学校3年の1965年頃だが、
当時、人気漫画家は、無論、手塚治虫、それに「鉄人28号」の横山光輝が
続き、白土三平、桑田二郎らが一流作家で、新進作家として藤子不二雄、
石森章太郎、赤塚不二夫、森田拳次らが注目されていた。

その中で、過去には人気作家だったのだろうが、もう時代遅れと感じた人もいる。
わちさんぺい、
フォト
益子かつみ、
フォト
そして寺田ヒロオだ。徐々にこういう昔の人気作家は消えて行った。
どの業界でも、人気の変動はあるが、私がそれを直接肌で感じたのは、
漫画の世界でだった。

寺田作品は、幼児期、少年サンデーにオトギ話の金太郎と桃太郎が
プロ野球で対戦する「スポーツマン金太郎」(中央画像)という
漫画(‘59年〜’63年)を載せていたのをオボロゲに記憶あり、
その後「くらやみ5段」を‘64年頃連載していたのを覚えているが、
なんか絵が古臭かった。それで一旦、サンデーや少年週刊誌の連載は止まった。

だから、私より年下の人は、寺田の漫画をリアルで読んでいない
と思っていたが、確かに、一般少年雑誌では消えたが、
学習誌の方で連載を続け、最後の連載が「カーブくんドロップくん」
(『小学二年生』‘71年4月号 - 72年3月号)とのこと。
1963年生まれの人まではむしろ、私より馴染みがあるのかも知れない。
まぁ彼の無害健全な漫画は、学習誌向けだった。

で、一旦、少年雑誌で消えた寺田が‘68年に突如、サンデーで復活。
「ノンキ先生まんがノート」わずか7週の短期連載。
https://blogs.yahoo.co.jp/okawasemc/28178010.html
これは、非常に風変わりなテーマだった。

寺田本人がモデルと思われるあまり売れていない漫画家ノンキ先生が、
若い頃の回想を通じ、漫画界に苦言を呈している。
「売れれば良いと思っている出版社」「新人を見下す大物作家」
「子供を馬鹿にして、遊ぶことばかり考えている売れっ子漫画家」
「今、流行っている劇画は嫌い」
そして「昔、良心な漫画雑誌があったが、流行遅れになって廃刊になった」と。
これは「漫画少年」(学童社)のことと後年気づく。
これらは少年雑誌で、最後に寺田が言いたかったことだろう。遺言と言っても良い。

その頃のサンデーは、園田光慶の「あかつきの戦闘隊」
フォト
など劇画が人気を集め、赤塚不二夫は、ナンセンスに拍車が掛かり、
こんなシーンがあった。
フォト

寺田が、少年雑誌から完全に身を引いた‘69年以降は、
ますます過激度がアップし、ジョージ秋山の「アシュラ」は
残酷シーンが問題になり神奈川県では掲載誌が発売禁止。
新興の少年ジャンプは特に酷かった!「ハレンチ学園」、「トイレット博士」、
そして日本人として、残酷だとばかりは言えないが「はだしのゲン」。
極めつけは日野日出志(画像をアップできないふらふら)。

赤塚不二夫は、絵も案が乱れていた。
もうこの時、アル中だったのではないかな?そうでなければ「手抜き」。
赤塚のアシスタントだった古谷三敏の残酷漫画「ダメおやじ」
藤子不二雄Aは「魔太郎」、つのだじろうもオカルト漫画「うしろの百太郎」、、、。

この70年代前半の漫画を見て育った方には悪いが、
私は、なんて暗くて殺伐として恐怖心だけを植え付けるのだろ?
と呆れていた。まさしく寺田が嫌っていた漫画だ。

中学〜高校生の私は、もうこの頃、少年雑誌を読む気になれなかった。
それで、サンコミックスや虫コミックスの単行本で
’60年代の「古き良き、かつ面白い漫画」を読んでいた。
私にとって、それは関谷ひさしの「ストップ!にいちゃん」であり、
山根赤鬼の「よたろうくん」であり、つのだじろうの「ブラック団」であった。
そんな中で、寺田は‘73年に筆を折り、「漫画少年」の記録作りに没頭したと言う。

寺田の名前がまた広まったのは、‘75年以降、藤子不二雄Aの
自伝的漫画「まんが道」で若かりし頃、上京し豊島区椎名町の
「トキワ荘」にF(藤本)と住み着いた時、同アパートにすでに
住んでいた寺田に大変世話になったというシーンだ。

特に、藤子の二人が上京2年目に富山に帰省した際、
気が緩み全く筆が進まず、連載の多くを落としてしまい、
各出版社から完全に干され、漫画家を辞めようとしたとき、
激しく彼らを叱咤し(右画像)、復帰させた。
フォト


また、赤塚不二夫も、トキワ荘に住んでいた新人時代、全く目が出ず、
やはり漫画家を辞めて喫茶店のボーイになろうと決意したが、
寺田に説得され思いとどまった。
部屋代が払えない赤塚にお金を貸すシーン。
フォト

「まんが道」は、その後、NHKでドラマ化(‘86年)や映画化(96年)された。
前者では、寺田役を 河島英五が演じていた。私も一回くらい見た記憶があるが、
寺田が若き日の石ノ森章太郎に、「俺の漫画はもう時代遅れだ」と
語っていたシーンを覚えている。
寺田と河島、ともに「時代遅れの不器用な男」そして「酒を飲みすぎて若死」
という共通点がある。
後者の映画「トキワ荘の青春』は、見ていないが、本木雅弘が寺田を演じたという。

70年代前半、弟分の赤塚や藤子、つのだが、前述した暗い漫画、手抜き漫画を
描いているのを見てどう感じたかな?
赤塚なんか、ノンキ先生が嘆いた「売れて来たら、遊ぶことばっかり考える漫画家」
そのものだ!雑誌の1ページにバカボンパパの顔を大きく描いた回があるが、
あれはフジオプロでスキーに行くため、早く仕事を終わらせようとして、
ブレーンの長谷邦夫が出したアイディアだと、後年、長谷自身が本に書いていた。

不思議に、70年代後半は、少年漫画がマトモになった。
藤子Aは、「まんが道」を、つのだじろうは、オカルトから脱却して、
漫画家も目指す少年「その他くん」そして将棋界を描いた「5五の龍」、
古谷の「ダメおやじ」はソフト路線になった。
そして赤塚は、少年雑誌から消えた。

寺田が、自分の信念を通すのは良いが、逆に暴力的な漫画を完全に否定した。
フォト

チャンバラや、銃を撃つシーンもダメなのか!?
その後の「ガンダム」はどうかな?3やはり難色を示しそう(^^:
位置情報ガンダムで一番「性格が良い」主人公といえば? 3位シロー・アマダ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=45&from=diary&id=46511

また寺田は「全く面識のない劇画作家に自分の描いた原稿を送り付け、
「こんな物を描いていては駄目だ。こういった物を描きなさい」と、
一方的に諭したり、自分が執筆している雑誌の編集長に、
そうした劇画作品の連載を打ち切るように進言した」という(WIKIより)。
後者のエピソードは「まんが道」にも描かれているが、
これはいくらなんでもやり過ぎだろ!?ふらふら

ふと思ったが、この「(チャンバラや、銃を撃つ)劇画調作品の連載を
打ち切るように進言した」雑誌とはどこだろ?
彼の連載漫画の記録から見て、’60年頃、「赤胴鈴之助」「ビリーパック」
「まぼろし探偵」が看板作品だった「少年画報」にも連載を持っていたが、
これらの作品を打ち切る様に言ったとしたら、!?そりゃ、編集長、怒るぞ!!あせあせ

寺田は漫画を食べ物に例え、「お菓子(粗悪な漫画)ばかり子供に
食べさせてはいけない。(栄養のある)果物も与えるべき」と言った。
確かにそうであるが、だが、食い物はやはり、美味しくないと食べないよ。

「少年画報」に載っていたビリーパックの復刻本も読んだが、
拳銃を撃ち、オドロオドロしい怪人も出てくるが、やはり面白い!
フォト

いくら自分で「良い漫画」「良い仕事」と信じても、
肝心の読者が読まなくては話にならない。
単なる〔独りよがり〕になってしまう。

「まんが道」で人間・寺田ヒロオの評価は上がったが、
寺田の漫画が再評価されたとは言い難い。
私も復刻本を読んだが、古き良きだが、面白い漫画ではない。
真面目、健全すぎる。絵に魅力がない。コマ割りが平坦。
そして可愛い女の子が描けない。
冒頭に挙げた’60年代半ばで時代遅れになったと書いた
わちさんぺいや、益子かつみも、魅力的な女子を描けた。
フォト

寺田は、漫画家より教師とか公務員に向いていたと思う。
美術担当、野球部の顧問、そして生活指導の教員。
生徒の面倒見は良いが、俗悪な漫画を持ち込むと凄い勢いで怒られそう(^^:。

寺田は、最後、酒浸りになって、‘92年に亡くなった(享年61)
(新潟出身で、野球をやっていて満61歳になったばかりで亡くなったって、
G・馬場と同じだ)

実は、私、10数年前に、デザイン関係の仕事をしている寺田の息子さん
と電話で話をしたことがある。声の調子、語り方が「まんが道」での
寺田のイメージそのままだった。







3
19 22

コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 22:26
    暗やみ五段、ソノシート持ってました!実写番は千葉真一が演じてましたね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 22:35
    一番上のバット振ってる絵は見たことあるような感じがしますが、寺田ヒロオは知りません。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 22:37
    > mixiユーザー 
    金蔵さんは、以前、mixiのトップ画像に
    「スポーツマン金太郎」の絵を使用していましたよね。
    私よりちょっと若いのに、よくこの漫画を知っているなぁ!
    と感心しました。
    本文に書いたように学習誌でこの漫画を1971年頃に読んだなら
    年齢的に合致はする。あるいは少年野球の原点を探るために
    後追いで読まれたのか、と思いました。

    さて、「くらやみ五段」ですが、千葉真一が主演でテレビ化
    されていたのはリアルタイムでは知りませんでした(^^:。
    近年、復刻本で原作を読みましたが、確かにストーリー的には
    読ませるものがありますが、、、暗い。考えてる顔
    むしろ、あの漫画は少年サンデーよりも少年マガジンの世界ですね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 22:38
    > 最後の連載が「カーブくんドロップくん」
    (『小学二年生』‘71年4月号 - 72年3月号)とのこと。
    1963年生まれの人まではむしろ、私より馴染みがあるのかも知れない。

     1963年生まれですが、『カーブくんドロップくん』はかすかに思い出してきました。しかし、作者が寺田ヒロオってのは…出てきませんでした(;´Д`)
     そう、この1971年は、僕も小学二年生、だったのですよ(^^)

     トキワ荘は、わが足立区からウォーキング途中に偶然跡地に碑があると知り、行きましたよ。目白通りからちと入った所です。椎名町駅近く、かつては豊島区椎名町だったんでしょうが、今は南長崎と言う町名です。
     御徒町も三河島も椎名町も、昔は町名だったけど、今は駅にその名を残すのみとなりましたね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 22:48
    私の中では寺田ヒロオは完全に歴史に埋もれていましたが、「まんが道」や「トキワ荘の青春」で改めて実像を知って、ちょいと切なくなりました(^_^;)。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 22:51
    寺田ヒロオは子供時代に読んでたはずなんですが、リアルタイムの記憶は消失してしまっています。

    たぶんあんまり面白くねえなと思ったのでしょう。

    今ではまんが道などのトキワ荘ものに出てくる人としてだけ知っているという感じです。

    後輩たちに健全明朗路線を説いたエピソードはそれらの作品で有名になってますが、僕はそういうのを見るにつけて、以前にマイミクさんに教えてもらった藤山一郎のエピソードを思い出します。

    「丘を越えて」や「青い山脈」を歌ったあの人なんですが。

    その藤山が78年ごろ「時間よ止まれ」をヒットさせていた矢沢永吉に痛烈なダメ出しをしたそうなんです。 曰く『譜面に忠実に歌わない、きちんとした発声で歌わないものは歌ではない』。

    自分の主義を人に押しつけようとしたのとそれが見当はずれだったというのがかぶります。^^ ;
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:09
    今回の日記、ほぼ全て蟹座さんに同意します。

    僕も寺田ヒロオは78年頃「まんが道」で初めて知りましたが、
    「スポーツマン金太郎」なんかは、その当時ギャグ漫画のパロディみたいな使われ方をしていた記憶があります。
    そのくらい画が古くて時代遅れだった。

    寺田はよく他の漫画家に「いい漫画を描かなきゃダメだ」と言ってたらしいですが、
    はたして「いい漫画」の基準とは何なのか。
    それを彼は自分の古い物差しでしか図れなかったし、
    自分の漫画家としての感性が止まってしまっているのを
    気づくことができなかったのだと思います。

    そうですね。寺田ヒロオは漫画家になるべきではなかったのかもしれません。
    電電公社の野球部に所属していたらしいですが、
    そういう会社で組合の委員長なんかをやっていたほうが似合っていたかもしれません。
    (あ、でもそれだと藤子不二雄や赤塚不二夫が世に出ることができなかったかもしれませんね。うーん^^;)
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:11
    私の学年だとやはり70年代前半の作品になります。残念ながら寺田さんの作品を読む機会はありませんでした。上記の中では赤塚とつのだの二人の印象が強かった。赤塚はひみつのアッコちゃん。男なのに本放送を見てました。原作は姉から借りて読みましたね。同世代の女子で知らない人はまずいない作品です。あんな夢のある少女話を描いたのが赤塚だと知り、多くのファンが愕然としました^^;;あのおっさんが!と。つのだは恐怖新聞・うしろの百太郎を全巻読みました。こわいものみたさでした。人面犬のゼロがなんとも怖かったです。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:13
    > mixiユーザー 
    「背番号0」ですか!?
    少年野球漫画の原点ですから、
    よく引用されるのかも知れませんね。

    まぁ昭和漫画に興味の薄い方は
    ご存知ないかと思いますが、(^^:
    こういう人もいたということで日記に書きました。

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:24
    > mixiユーザー 
    >カーブくんドロップくん』
    逆に私は、この漫画は知りませんでしたが、
    1971年頃の学習誌掲載漫画にしても、ベタな題名ですね(^^:
    その頃、全学年の学習誌に藤子F不二雄の「ドラえもん」が
    掲載されていたんですよね。

    「トキワ荘」跡地
    私は、特にそういう「聖地巡り」はしませんが、
    後楽園ホールがある水道橋には
    反対側に「少年画報社」がいまもあります。
    「まんが道」で、ふたりがまだ高校生の時「UTOPIA 最後の世界大戦」
    を少年画報社に持ち込むシーンがあります。
    駅を出たけれど、道が分からない、たまたま会った人気漫画家、
    福井英一の後を付けて同社にたどり着いた、
    そんなシーンを思いながら少年画報社の社屋を見ましたよ。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:29
    > mixiユーザー 
    まぁ寺田ヒロオも70年ごろには、過去の漫画家だったし、
    藤子不二雄Aの「まんが道」に描かれなかった
    埋没した人でしょうね。
    私も、この漫画で思い出したくらいです。
    でも、新人の藤子や赤塚に漫画界に
    留めさせた功績は大きいですよ。

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:31
    自分は1961年生まれなので、蟹座さんと似たような印象を持っています。寺田ヒロオ作品については。ただ、梶井純の「トキワ荘の時代―寺田ヒロオのまんが道 」という本を読むと、「ああ、そうだったのか」みたいなふうに思いました。その本によると、寺田ヒロオは「漫画家というよりは、頭の中が野球選手」で、「漫画も好きだったので、なんかたまたま漫画家になってしまった人」。寺田漫画を支持した少年達も、「戦後復興期の空前の野球ブームのとき、草野球に親しんだ少年達」で、「いわゆる漫画ファンというのとは違う」といった感じらしいのです。ようするに、最初から「トキワ荘の他の漫画家達」や手塚治虫とは種類が違う人。ですから、時代に合わせて、描く漫画を変えるとか器用な真似は、「ヒタムキなスポーツマンにはできない」。だから〜〜〜ああなった〜〜〜みたいな話でした。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:42
    スポーツマン金太郎だけは〜タイトルを覚えておりますが〜作家までは忘れてしまっている〜おじ3であります。
    同じくビリーパックの方はタイトルは良く覚えております。作家名を聞かれると〜まったく出て来ないですなぁ〜〜wwあせあせ
    蟹座さんの日記で〜寺田ヒロオの名が出るたびに〜ちょうどその時代の漫画は〜何故か!?おじ3の中では記憶が薄いものばかりみたいなんですよ〜〜・・・(´・ω・`)ショボーン
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月04日 23:47
    > mixiユーザー 
    私は、満足に漢字まで読めるようになった時は、
    寺田ヒロオは、もう消えかかっていたと思います。
    絵柄はハッキリ覚えていますが、古色蒼然としていたので
    興味はありませんでしたよ。

    >藤山が78年ごろ「時間よ止まれ」をヒットさせていた
    >矢沢永吉に痛烈なダメ出し
    そういうことがあったんですね。
    漫画界でも、戦後すぐ手塚治虫の「宝島」は、当時の大御所、
    島田 啓三から「邪道だ!」とダメ出しを食らい、また他の大御所(名前失念)
    からも「デッサンがなってない!」と酷評をくらっています。
    時代によって、尺度は変わりますね。
    と言っても、藤子不二雄、石森章太郎、さいとうたかをらを熱狂させた
    「宝島」それもオリジナル版、私が見てもそう傑作とも思えませんがね。
    やはりデッサンが狂っていますよ(^^:
    その時代の、その若者にしか分からないモノをありますね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 00:02
    > mixiユーザー 
    まぁ自分の尺度で「良い漫画」を決めてそれを描くのは良いでしょう。
    しかし、
    >全く面識のない劇画作家に自分の描いた原稿を送り付け、
    「こんな物を描いていては駄目だ。こういった物を描きなさい」と、
    一方的に諭したり、
    >自分が執筆している雑誌の編集長に、
    そうした劇画作品の連載を打ち切るように進言した」
    、、とんでもない人ですよ(^^:

    本文に引用した「ノンキ先生の漫画ノート」にもありますが、
    寺田が新人の時、ある驕った大物漫画家に、持論をぶつけ、怒らせてしまう。
    その大物は、出版社に「ノンキの漫画の掲載をやめろ!」「さもなければ
    俺が降りる」と脅迫したそうです。

    でも、結局、寺田も同じことをしたんですよ。
    「俺の気に入らない作品が載っている雑誌に描かない!」と。

    それと思うのは、寺田がそれほど目の敵にした1960年代前半の
    漫画だって、70年代前半の過激な作品に比べれば、
    ずっと大人しいですよ。
    寺田は無論、見る気もしなかったでしょう。
    縁もゆかりもない日野日出志は別として(苦笑)、
    そういう漫画を描いている中に
    かつて、物心ともに支えた弟分達がいることをどう思ったのかな?
    もう1970年頃、売れっ子になった彼らに意見できなくなって
    忸怩たるものが胸に充満していたと察します。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 00:23
    > mixiユーザー 
    >ひみつのアッコちゃん
    の原作は、小学校の時、女の子が読んでいる「月刊りぼん」
    に載っていましたが、「おそ松くん」に出てくる
    ヒロイン、トト子ちゃんと同じ絵柄じゃないか!?
    と思いましたよ。
    まぁ赤塚不二夫は売れっ子だから、そういうのはありました。
    「おそ松くん」のお母さんも「まかせて長太」のお母さんと
    同一人物だし。あせあせ

    つのだじろうは、60年代、少年サンデーで「ブラック団」
    とか「グリグリ」といった
    漫画を描いていました。同年代で同誌に連載を持っていた
    赤塚不二夫、藤子不二雄、石森章太郎に比べると、
    地味で人気は一歩も二歩も劣りましたが、私は好きでした。
    判官贔屓もあったけれど、むしろ実に良質で読後感が
    爽やかな漫画を描く人だな、と。
    それが70年代前半からオカルト漫画で有名になり、
    複雑な心境でした。考えてる顔
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 00:35
    > mixiユーザー 
    >漫画家というよりは、頭の中が野球選手
    なるほど。時々いますね。野球に限らず
    純粋、真っすぐなスポーツマン。(^^:

    「今の○○は邪道、俺が本道を示す」と言っているのは
    プロレスではカール・ゴッチ。
    最近でも、西村修がそんなことを主張しています。
    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170612-00010000-battlen-fight
    それも分からんことはないんですが、
    結局、客を会場まで呼んで、楽しませることが出来なければ
    プロレスラーではないんですね。

    >戦後復興期の空前の野球ブームのとき、草野球に親しんだ少年達
    確かに、凄いブームで「野球少年」という野球に特化した漫画雑誌が
    あったんですね。
    まぁそれに乗じた感はありますが、
    寺田ヒロオの漫画は、まず「クスッと」も笑えるコマがない。
    かと言って劇画のように手に汗握るシーンもありませんでした。

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 00:47
    > mixiユーザー 
    スポーツマン金太郎は
    60年代前半、なんだかんだで少年サンデーとしては、
    人気漫画のひとつで表紙を飾ったり、雑誌の最初の方に
    掲載されていて目立っていましたね。
    私も知らず知らずに頭にインプットされていました。

    >ビリーパックも
    少年画報の看板漫画の一つでしたが、
    私にとっては、幻の作品でしたよ。
    作者は河田光広という人ですが、結核で
    病床に伏したまま書き続けたが、1962年に亡くなりました。
    その後、アシスタントがそっくりな絵柄で連載を続けますが、
    人気が取り戻せず、「少年画報」も売り上げを落とし、
    少年雑誌NO1の座を「少年」に譲ったんですね。
    その頃、全盛の同誌を私が読み始めたと。

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 05:08
    その時代時代で、漫画の世界も変わっています。オリンピックが近づけばスポーツ漫画が流行ります。オカルト的な漫画はよく見ました。嫌いではないけれど、そればっかりもね。忍者漫画や戦争漫画が減ったのも時代に流れでした。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 07:38
    コムシンさん

    ども〜 勝手ながら、かつて教えていただいた藤山一郎のエピソードを引用させてもらいました。

    5年以上前にいただいたコメントなんですが、妙に記憶に残っていたのもので。 ^^;
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 08:39
    > mixiユーザー 
    いえいえ全然かまいません(笑)
    そうですね。寺田ヒロオと藤山一郎って似てるかもあせあせ
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年07月05日 21:10
    > mixiユーザー 
    70年代前半にオカルト漫画が流行ったのは、
    一つには、映画「エクソシスト」(73年7月)のヒットの
    影響もあると思います。
    その後の秋に「オイルショック」が起き、
    日本人の心に不安感が巻き起こり、
    それに乗じるように「うしろの百太郎」の連載が
    12月に始まったんですね。
    ただ、作者のつのだじろうは、その前から
    心霊には興味があって、かながね
    それをテーマにした漫画を描きたがっていたそうですが。
    私は、つのだ自身がオカルトを信じて、
    それを漫画に描くのも自由だとは思いますが、
    あの漫画は心霊の存在を実証するために
    「似非科学」を利用しています。
    それが、頂けませんね。
    オイルショックの後は、「ノストラダムスの大予言」、
    74年にはユリ・ゲラーの超能力ブームと、
    あの時こそ、世紀末状態でしたね。

mixiユーザー

ログインしてコメントを投稿する

<2017年07月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031