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2021年09月15日10:49

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憲さん随筆アーカイブス アメフト選手とアイヒマン

フォト


※画像はくだんの投書

※この随筆は2018年5月30日に執筆したものに加筆訂正しました。

くどくて申し訳ないが、またまた、日大アメフト部の問題である。

参考

【日本大学フェニックス反則タックル問題】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%8F%8D%E5%89%87%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C

昨日の東京新聞夕刊に「指示従う苦悩分かって」という投書が掲載された。

52才と私と同年代の「産業カウンセラー」の男性からの投書である。

長いので私が「?」と思った部分を以下、抜粋する。

以下

「選手起用は監督の采配で決まります。試合に出たい選手は監督の言うことを聞かざるを得ません。

(中略)

一方宮川選手の会見を受けて『どんな状況でも自分で善悪を判断できる選手を育成しなければならない』とコメントした鈴木大地スポーツ庁長官。指導者と選手の立場を今もって理解していないことが分かり残念です。

(中略)

選手はあのような指示でも従わざるを得ないのです。この程度の知見ならば、鈴木長官はいつまでたっても政権のお飾りにすぎません。」

とあった。

みなさんはこの投書を読んでいかが感じただろうか?

私はこの投書は圧倒的に間違っていると思った。

鈴木長官が政権のお飾りかどうかや、彼の知見はどうでもいいが、彼が発言した「どんな状況でも自分で善悪を判断できる選手を育成」とは、もっといえば「どんな状況でも善悪を判断し、行動できる人間」に私たちはならなくてはならない。ということであろう。

そして、それは宮川選手の謝罪会見の核心部分なのだ。

参考

「アメフト日大選手の謝罪会見 内田監督とは真逆の『いさぎよさ』」
https://www.j-cast.com/2018/05/22329313.html?p=all

何はともあれ、あの謝罪会見をみて私たちが彼の謝罪が立派であると感じたのは、彼が正々堂々と名前と顔をさらし、そして、自分の行った罪深い悪質な反則プレーを監督の指示があったとは故、やってしまったことを率直に反省して謝罪したことにあるのだ。
この投書の著者もそれは認めている。

しかしそれを、「スポーツでは得てして監督の指示には逆らえない、だからこれは指導者の問題である。」という話にすり替えるのはまったくもってことの本質を見据えた議論とは言い難い。

では、極論で話をしてみようか。

「オウム真理教の幹部起用は麻原の采配で決まります。幹部になりたい信者は麻原の言うことを聞かざるを得ません。

しかし、地下鉄にサリンをまいた被告に『どんな状況でも自分で善悪を判断できなくてはならない』と死刑を求刑した検察官は信者と教祖の立場を理解していないです。

信者はあのような指示でも従わざるを得ないのです。この程度の知見の検察官や裁判官ならば、お飾りにすぎません。」

と、この人は言うのであろうか?

そして、あの大量殺人を起こした犯人を免罪するとでもいうのであろうか?

確かにオウム問題に関してはこういう主張もあることは知っている。

参考

「江川紹子氏、麻原元死刑囚と弟子の責任は『天と地ほど違う』『大きな衝撃を受けた』」
https://hochi.news/articles/20180727-OHT1T50002.html

宮川選手とオウムの死刑囚を同列に語るのは気が引けるが、私にとって問題としているのは、その罪を犯した当事者が、自分の頭で考えその罪に向き合い、自分で善悪の判断しなかったことを悔い改めるということではないのだろうか。

事実、オウム真理教のサリン実行犯であったが悔い改めて自供した林郁夫現受刑者は罪一等を免じられている。

罪の軽重ではない。罪を犯したあと、人として、自分自身で考えなかったことを悔い改めるかどうかなのだ。

この日大アメフト部の問題は私や私たち現代人に大きな哲学的問題を突き付けているのである。

奇しくも一昨日の東京新聞夕刊、文芸批評「大波小波」に「途絶えぬ『悪の凡庸さ』」という題でこう指摘があがっていた。

「悪の凡庸さ」という概念を打ち出したのは言わずと知れたユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレントである。

数年前、映画にもなって岩波ホールで上映された、今尚その著作を読まれている哲学者である。

参考

【ハンナ・アーレント】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88

【ハンナ・アーレント (映画)】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

彼女はその著書『エルサレムのアイヒマン』において、600万人ものユダヤ人を強制連行し、虐殺へと導いた輸送部門の責任者だったアイヒマンの裁判傍聴を通じて辿り着いた結論が「悪の凡庸さ」である。

参考

【アドルフ・アイヒマン】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3

【『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3

それは、どれほど大勢の人々の死に関わっていたとしても、アイヒマン自身は小心者の小役人でただただ命令に従うだけの凡庸な人物だったという事実である。

それは、自らの強い意志も深い思索もない「凡庸」さが大きな「悪」でありうることを述べている。

アーレントはこの事実に踏まえてなぜナチスのユダヤ人のホロコーストが起き、その政権がなぜ生み出されたのか、その要因を徹底的に分析した。

彼女はその著書『全体主義の起原』の中でナチスの登場を歴史の必然ではないと捉え、強調する。そして、再び全体主義が台頭しようとしたときに人々が抵抗できるよう、この著書を書いた。

参考

【『全体主義の起原』】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90

では、全体主義とは何か?

それは人間を「人間以下の何者か」に変形することを目指し、他の誰とも異なる個性をもつことや、自分で物事を考えたり、自発的に行為したりする能力は破壊の対象となった。

日大アメフト部においてもまさに同じような選手支配が監督やコーチにより行われていたと想像される。

アーレントはさらに、ドイツがナチスの全体主義的支配を招く大きな歴史的社会的要因をもつきつめていき、それは他人とのつながりを持たない一人一人がバラバラになって「アトム(原子)化」した状態の大衆は、あらかじめ信じる価値観や世界観を持たないがゆえ、ナチスがその大衆の性質に漬け込み独自の世界観を提示して全体主義支配を可能にしたと分析している。

この分析が今回の日大アメフト部が適用されるかは詳細な分析が必要であろう。

しかし、昨日の「大波小波」を著した「小市民」氏はこう指摘する。

「『悪の凡庸さ』はナチスだけにではなく、ユダヤにも、他のどこにでもある。上役や指導者の意向に諾々と従うあまり、越えてはならぬ一線を越えてしまう事例が今の日本でも相次いではいないか。」と。

これはまさにその通りであろう。

これは日大アメフト部しかり、森友問題の財務省官僚しかり。オウムしかり。そして歴史的にみたら日本軍の体質しかりである。

こう考えると今の日本で起きている現象は、ナチスのような最悪の全体主義を招き寄せる条件がかなり揃っていると言わざるを得まい。

そして、この「小市民」氏はこうまとめている。「そこに陥らないためには、まず先にこの書(『イスラエルのアイヒマン』)を読み、自らの『凡庸』さを知ることが必要だ。」と。

しかし、私はそうは思わない。私たちは自らの「『凡庸』さ」は十分知っている。

それを乗り越えて、自ら深い思索を経て強い意志を持ち、人としていかにあるべきか考え行動すべきではないだろうか。

今回の日大アメフト部の件はそれを私たちに突き付けており、そのヒントをアーレントは提示してくれているのではなかろうか。

まさに、ドイツ連邦第6代大統領ヴァイツゼッカーの言葉を借りるまでもなく・・・。

“過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる”のである。

参考

【リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%BC%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC

「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる──内田樹の凱風時事問答舘」
https://www.gqjapan.jp/culture/column/20150518/the-professor-speaks

これを私たちは肝に命ずるべきであろう。

哲学は学ぶだけではなく、使ってこそその真価を発揮するのである。

同じように・・・
新聞は読むだけでなく、随筆を書いてこそその真価を発揮するのである。

どーよっ?

どーなのよっ?

※以下、参考5月21日東京新聞、こちら特報部「ハンナ・アーレントなぜ人気」全文

こちら特報部 ハンナ・アーレントなぜ人気 続々と重版・・・哲学カフェや読書会も 現代の日本と不安シンクロ 「政治との関わり考え直したい」

 20世紀初頭のドイツに生まれたユダヤ人で、ナチス政権の迫害から米国に亡命した政治哲学者、ハンナ・アーレント(1906〜75)。ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を行ったナチス政権がなぜ生み出されたのか、その要因を徹底的に分析したことで知られる彼女の思想が今、改めて注目を浴びている。著作は年々売れ行きを伸ばし、読書会を開く動きも広がっている。なぜ人気なのか。その背景を探った。

 哲学の名著というと、大学の教材と相場が決まっており、一般向けにはなかなか売れない。だが、近年、アーレントの著作は特異な動きを見せている。

 哲学・思想系の名著を多数出版する「みすず書房」(文京区)は昨年八月、アーレントの二つの主著の訳語を見直し、読みやすくした新版を同時刊行した。ナチス政権の誕生がなぜ可能になったのかを分析した「全体主義の起原」と、ナチス親衛隊の中佐、アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴リポート「エルサレムのアイヒマン」だ。

 同社によると、刊行はいずれも一九七〇年前後。当初はさっぱり売れなかったという。守田省吾社長は「デリダやサイードなど、他の思想家の本は本人の没後、急激に人気がなくなる。だが、アーレントは時代がたつにつれ版を重ねている」と驚く。「新版は文字を大きくし、新たな研究成果を基に、より適切な訳語をあて、言葉遣いも現代風にした。ぜひ手にとってほしい」

 全体主義の基盤となった大衆社会の思想的系譜の解明に挑んだ「人間の条件」も状況は同じだ。出版元「筑摩書房」(台東区)の北村善洋さんは「哲学思想系の書籍の中では断トツの売れ行きで、増刷ペースも上がっている。研究者や学生だけでなく、一般の人も手に取っているのだろう」とみる。その一方、「アーレントの生きた時代の困難さと、現代人の生きにくさがシンクロしていることの表れかも」と不安視する。

 これら著作は、哲学カフェなどで盛んに題材として取り上げられているが、従来、哲学とは無縁だった人の中にも、著作から何かを得ようという機運が盛り上がっている。新潟市で主にサツマイモの栽培を手掛ける就労二年目の農家岡田篤志さん(37)もその一人だ。

 岡田さんは「政治は政治家に任せきりで、国民と政治との関わりは選挙の時だけ。その成れの果てが、現在の国会で行われている政治なのでは」と疑問を持った。そんな折、学生時代、アーレントに感銘を受けたことを思い出し、友人と読書会を始めた。「著作を通じて、選挙とはまた違った政治との関わり方を一緒に考えたかった」と語る。

 現代日本で、アーレントへの注目は何を意味するのか。著作の翻訳も手がけるフェリス女学院大の矢野久美子教授(思想史)は「ナチスの経験なくして、アーレントの思想はあり得ない」と指摘する。

 アーレントがドイツの大学で哲学や神学を学んだ後、一九三三年にヒトラーが首相に就任。反ユダヤ主義的な傾向が増したため、フランスに亡命した。三九年に第二次世界大戦が始まると、仏政府から「敵性外国人」として収容所に入れられたが、ドイツ軍のパリ侵攻による混乱に乗じ、命からがら米国に逃れた。

 矢野教授は「彼女はナチスを、歴史の必然的な流れの中での出来事ではないと強調する。人間がどうなるかは人間にかかっている。その認識に立ち、再び全体主義が台頭しようとした時に人々が抵抗できるよう、『全体主義の起原』を書いたのです」と語る。

アトム化した大衆の危うさ 全体主義を生む条件そろう ナチスと今の官僚そっくり バラバラになって原子化

 では、全体主義とはそもそも何か。

 アーレントによると、ナチスの全体主義支配は、人間を「人間以下の何者か」に変形することを目指した。従って、他の誰とも異なる個性を持つことや、自分で物事を考えたり、自発的に行為したりする能力は破壊の対象となった。つまり、エサを与える前にベルを鳴らし続けた末に、ベルを鳴らせば条件反射的に唾液を分泌するようになった「パブロフの犬」のように、ナチスは人間を、ある刺激に対して、全員が同一の反応をするような存在に作り変えようとしたのだという。

 アーレントはその全体主義的支配を招く大きな要因となったのは、ドイツの第一次大戦での敗戦後に顕著となった「階級社会の崩壊後に出現した大衆だった」と分析した。

 大衆とは、共通の利害を基盤にする組織、例えば地域の自治組織や労働組合、政党などに所属していない集団のこと。つまり、他人とのつながりを持たない人たちのことを指し、一人一人がバラバラになって「アトム(原子)化」した状態が大衆の特徴と捉えた。

 人権や道徳などは、自分以外の複数の人もそれを認めるからこそ、お互いにその価値を信じられるのに対し、アトム化した大衆は、あらかじめ信じる価値観や世界観も持たないという。とはいえ、そんな不安定な状態は堪え難く、何かしらの精神的なよりどころは求めてしまう。ナチスはこの大衆の性質につけ込み、独自の世界観を提示して全体主義支配を可能にした−とアーレントは思考した。

 東京工業大の國分功一郎教授(哲学)は「アーレントが立ち向かった大衆社会のアトム化が、もう一度、よりラジカルな形で出てきているのが今の日本の社会ではないか」と指摘し、こう続ける。

 「グローバリゼーションの進展で地域などの中間団体は衰退しつつある。帰属先を失い、バラバラになった個人、つまりアトム化した個人がネットの世界で本当かどうかも分からない情報の波にさらされている。アーレントは『大衆は何も信じていないが、何でもすぐに信じる』と言っているが、まさに今のフェイクニュースの時代を言い当てた言葉だ」

 それだけではない。國分教授は、アーレントが見抜いた「ナチスのエリートがたけていた能力」にも目を向ける。

 それは「あらゆる事実認定を意思表明に解消してしまう能力」という。例えば、ヒトラーが「ユダヤ人は劣等人種だ」と「事実認定」をするや否や、エリートたちはこれを「(ユダヤ人を)絶滅しなければならない」という「意思表明」と解し、認定に沿う形で現実を作り変えたのだという。

 この際、認定された「事実」が本当に事実かどうかは、エリートにとって問題にならない。

 國分教授は「森友問題の土地売却を巡る財務省エリートと同じ。安倍晋三首相が国会で『私や妻が関わっていたら国会議員をやめる』と述べると、『安倍首相や昭恵夫人はこの問題に関わっていない』との事実認定を、エリートは『なかったことにする』という意思表明と理解して文書を改ざんする。よく使われる『忖度(そんたく)』という言葉が感じさせるより、ずっとファナティック(狂信的)に安倍首相に入れ込んでいる」と指摘する。

 國分教授は今の世の中がすでに全体主義だとは思わないという。ただ、全体主義を招き寄せた条件はかなりそろっているとし、こう結論づける。「今の社会の危うさに多くの人が気が付いてはいる。だから、アーレントの問い掛けがそうした人たちの心を打つのではないか」

デスクメモ

 私たちが現政権に「危うさ」を感じているとすれば、今こそ、その正体を見抜く時だ。アーレントの本は確実な手がかりになる。そして見抜くことができたら、何をすべきか、何ができるのか、自分自身に問うてみたい。哲学は学ぶだけでなく、使ってこそ真価を発揮するのだから。
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