その客は入店時からオーラを放っていた。
(凄まじいもみあげだ)
生まれてから一度も手入れしたことないの?というくらい伸び放題。これに比肩できとしたらドイツ・ロマン派の音楽家くらいかなというレベル。
「田中君、三番のお客様お願いね」
「え?あ、はい」
(マジか?!)
なんとなく嫌な予感はしていたが、的中してしまった。あんなもみあげのお客さん、果たして俺に扱えるのか?いや、ビビッてちゃだめだ。ここは理容室。髪を切るのが生業。もみあげのことは置いといてまずはカットに集中だ。
「今日はどういった感じに?」
「んー、そうだねぇ。短めにやってもらおうか」
意外に普通のオーダーだ。細かい点について二三やり取りをして、カットの方向性は決まった。後は無心に切るのみ。
カットは順調に仕上がっていく。規格外のボリュームを持つもみあげに初めは戸惑ったが、もう大丈夫。何事も当たって砕けろだ。いい経験をした。そう思うことにしよう。
カットは――カットは順調に終わりそうだ。しかし油断していた。もみあげという現実から目を逸らすことに必死になり過ぎ、気が付けば崖っぷちに追い込まれてしまった。これから俺は、禁断の質問をしなければならない。心の中で声に出してみる。
(お客様、もみあげはいかがいたしましょうか?)
聞くのは簡単だ。しかし、どんな答えが返ってくるのか……想像できない。きっと、すごいこだわりがあるはずだ。果たして俺の技術でお客様のオーダに応えることができるのか?
いや待て!違うだろ?何をテンパっている。きっとお客様はこう言うに違いない。
(もみあげはそのままで)
うん、きっとそうだ。このもみあげ、きっと何か月、いや何年も手入れしていないはずだ。そうに違いない。このお客様に拘りがあるとすればそれは「手入れをしない」という拘りだ。
自然のまま、ありのままのもみあげ。時に自分の意思や信念を曲ざるを得ないこんな世の中で、せめてもみあげだけでも自由でいさせたい――そういうことですよね?お客さん。このもみあげは現代社会が抱えている深い闇に対するMy revolutionなんですよね?
いかんいかん。いくら心の中で問いかけていても一向に問題は解決しない。聞こう。答えはまぁ決まっている。「もみあげは切らなくていいよ」に違いない。
「お客様、もみあげはどうしましょうか?」
「んー、普通で」
…………嘘だろ。
普通?普通ってなんだ?このもみあげ自体が異常なのに、普通ってなんだ?ここからどう普通に持っていけばいいんだ?
まさか、普通の人と同じ長さにするという訳じゃないよな?それはたぶん世間一般の普通であって、この人の普通ではないのだろう。じゃあどうすればいい?ちょっと揃えるみたいな感じか?いやー駄目だ駄目だ、うかつに手を出したらこのジャングルから抜け出せなくなる。
普通……
普通ってなんなんだ。目が眩む。
世界が壊れる。もみあげ二つ、たった数グラムの質量しかない物体が、俺の中の何かを急速に破壊してゆく。
普通……普通……普通……
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「普通ってなんなんですかっ?!」
「うわっ、びっくりした。大丈夫?田名君」
「あ、先輩。え?あれ俺」
「突然倒れたから驚いたよ。本当に大丈夫か?どっか打ったりしてないか?」
「いや、平気です、あ、いけない!お客さんは?」
「大丈夫。俺がやっといたから」
「そうですか……すいませんでした」
「いや、全然構わないけど。ちゃんと飯食ってるか?貧血?え?メンタル的なやつか?」
「はい。まー、強いて言えばメンタル的なやつです。先輩、ひとつ聞いていいですか?」
「なんだ?」
「さっきのお客様ですが、もみあげってどうなりました?」
「どうなりましたって?いや、『普通にしてくれ』っていうから、普通にしといたよ。今日はもう上がりでいいからな。じゃ、俺戻るから」
先輩が去ってゆく後ろ姿に俺は小さく呟いた。
「普通って……何なんですか一体」
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