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2022年01月14日13:56

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明日は軽井沢バス事故の7回忌。マスコミの裁判報道に物申す

明日15日は、軽井沢バス事故で亡くなった方の7回忌になります。心からご冥福をお祈り致します。

昨年の10月21日に、裁判が始まりましたが、マスコミは全て『軽井沢バス事故』の裁判だと書いています。が、これは少し違います。
起訴状の概略を報道で知る限りでは、『軽井沢バス事故の使用者責任問う』裁判としなければなりません。
それは起訴状の内容からも知れます。起訴状では、運転技量未熟で事故を起こした土屋運転手を、同僚(私です)の紹介で入社させた。その際に土屋運転手は、大型バスの運転は『慣れていない・自信が無い』と言っていたのだが、新任運転手は、20時間の研修・講習を義務付けた規定にも従わずに、いきなり実務に就かせて運転技量の確認を怠ったため、軽井沢バス事故が発生する事になった。運転技量未熟は土屋運転手の言葉から推測でき、義務である研修・講習を実行して確認していたならば、土屋運転手に運行はさせないわけであるから、その使用者責任は重い。という内容でした。
そして罪状認否では、高橋被告と荒井被告は、『事故は予測不可能であるから無罪』だと答えたわけです。

マスコミは全て、起訴状の内容に沿った報道をし、遺族の『無罪を主張するのは酷すぎる』という声を合わせ報道しました。が、これは面妖な報道ではないのでしょうか。
以下にその理由を書いてみましょう。

土屋は当然ながら大型二種の運転免許を所持しています。
運転自慢の方がこの免許を受験した場合、殆んどの方が実地の『鋭角』という課題で失敗するでしょう。
私の時代では、二種の合格点は一種より10点高く設定されていました。私は2回で取得しましたけども、南関東圏では5回6回は当たり前、という狭き門なのです。
国がお金を受け取ってお客様を乗せて良い。と認めたのが二種であり、相撲で例えるならば関取という事になります。その中でも大型ですから、幕内力士という事になるでしょう。
その幕内力士の『慣れていない・自信が無い』という言葉を、謂わば幕下以下の力士が判断して、技量未熟に結び付けているという形です。
皆さんは観光バス運転手にどんなイメージを持たれていますか?
観光バスがズラリと並ぶ観光地の駐車場で、サッとバックして駐車したり、慎重な運転手は1度前に出して、真ん中に真っ直ぐ駐車するというイメージではないでしょうか?
それを何回も何回もやり直した場合、皆さんも『何だこの運転手は下手だなぁ。大丈夫かな?』と思うはずです。
土屋の発言は、そんな可能性を正直に吐露したわけで、私達の共通認識としては、前を向いて走る事は、問題にはならない。という前提が存在するのです。
土屋は、小型(7米)に中型(9米)は運転していましたが大型(12米)は5年ほど運転していませんでした。
中型と大型は車幅は同じで長さだけが違います。そして重要な差は、後輪からの長さの違いなのです。約1米弱の違いがありますから、お尻の振り方がかなり違います。土屋は10年以上のキャリアがありますから、素直に危惧を口に出したわけです。それに対して、私も勝原も荒井被告も、それを判断して、最終的に担当車を大型にするか中型にするか、判断をしようという話をしていたのです。
この話の内容は、判断する前に大型を運転しても、事故の心配は無い。という共通認識が存在しているのです。
上記の、20時間の研修・講習には、厳密には当てはまらないかも知れませんが、私との2回の同乗で、土屋は約20時間は運転しています。そして私は問題無い・大丈夫だと勝原と荒井被告に報告しています。そして検察側の証人として出廷するだろう森嶋元運転手は、土屋とは1回だけ同乗した運転手で、私の運転技術論からは、上手い運転手ではありません(私の運転技術論をお読みになりたいなら、私の以前の記事をご覧下さい)

ここからは裁判にも絡む問題なのですが、この森嶋元運転手が、勝原の葬儀の時に、若手の運転手に、土屋にお金を貸した事と、運転技量に対しての不安を話たそうです。
お金を貸した件は、以前土屋の性格から否定すると書きましたし、運転技量に関しても否定して書きました。が、この若手運転手の調書は採用されて、森嶋元運転手の判断の補強材料とされています。
私は土屋を紹介した人間であり、森嶋元運転手よりも多く同乗し、謂わば重要参考人であります。ですから警察と検察で10回ほどの取り調べがあり、調書も作成されているのですが、私の調書は、全て裁判の参考資料からは消えているのです。
私の自宅に家宅捜査までし、押収品を持ち去ったにも関わらず、何故裁判では私は居ないとされているのか?
土屋と話をした事も無い若手運転手の調書は参考資料になり、重要参考人だったはずの私の調書は無いのか?答えは簡単です。私が土屋の技量を認めていて、事故原因が技量未熟では無い。と最初から主張し続けているから。です。

参考資料に私の調書はありませんから、被告の弁護士も私の調書を読む事が出来ず、方策が立っていないから、私にも出廷要請が無い。という事なのです。

私が題名に『軽井沢バス事故の裁判』ではなく『軽井沢バス事故の使用者責任を問う裁判』だとし、マスコミに物申すとした意味がお分かり頂けたでしょうか。
検察側は、事故原因は土屋運転手の技量未熟だとし、事故原因を真剣に究明する裁判ではなく、技量未熟な運転手を使用した使用者責任を追及する裁判にしているわけです。
私が出廷するかしないか、それが真の原因究明に繋がると主張したのも、このような裁判の現状を判断しているからなのです。

マスコミの記者の皆さんも、起訴状の内容の精査してみれば、事故原因の究明は含まないと理解出来たはずです。
その上で『軽井沢バス事故の裁判』と見出しを付ける。それは事故原因が検察の言う通りだと認めている。という事になります。池袋の暴走事故では、アクセルとブレーキを踏み間違えた。と認められ、パニックになった人間は、ブレーキペダルを目一杯踏む。それを間違えたから暴走したのだ。という判決が出ましたが、この軽井沢バス事故の運転技量未熟の理由は、土屋運転手が下り坂で加速する程度にしかブレーキを踏まなかったからだ。とされています。一般道の下り坂で、時速90キロ近くまで、加速する程度にブレーキを踏む。こんな恐ろしい事に耐え、強くブレーキを踏まないでいたとしたら、逆に人間離れした精神力であり、少し踏み込めばブレーキが効く状態をキープした技量を、未熟とは言えない。と、考える能力も無いのでしょうか?

私の調書を裁判の場に提出しない検察は、自己の主張の為に都合の悪い物は排除していますし、マスコミは事実を少し拡大して、恰も事故原因が究明される裁判であるかのような見出しを付ける。
これを昔の人は『壮大なる茶番劇』だと言ったのです。
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