私は何回か戦争学を教える必要を書いてきましたが、その理由は、今の学校教育に欠けている考える力の育成です。
戦争を考えるという事は、幅広い知識を必要としますし、自分の考えを纏める必要もあります。
それと同時に、戦争を避ける事が出来たかを考えるのは、戦争ゲームの要素も含みますから、楽しく学べて効果的だと考えるからです。が、この場合には正解がありませんから、討論会形式にする事でコミュニケーション能力の向上にも繋がると思うからです。
今日は、その1つを提起したいと思います。
日露戦争で、日本は南満州鉄道を手に入れました。
その時に、井上馨が主導し、桂太郎首相とアメリカの鉄道王と言われたハリマンとの間で、共同経営の話が纏まりましたが、外務大臣小村寿太郎の反対で無かった事になりました。
当時の取り決めでは、鉄道を守る為に周囲20キロに兵力を展開出来たのです。
(清国はドイツやフランスやイギリスに鉄道施設権を駐屯権付きで売っていました。)
これが後に関東軍と言われる組織になり、満州事変を画策して満州国を樹立し、それから中国の反日感情の高まりから、支那事変(日中戦争)を経て大東亜戦争に繋がる事になりました。
アメリカと共同経営をするという事は、アメリカも同時に駐屯するという事ですから、日本とアメリカは、こと満州に限り同盟軍という事になるわけで、アメリカと戦う事は避けられた可能性は高い。と、されています。
当時のアメリカはフロンティアが西海岸に達し、新たなフロンティアを求めて、スペインと戦争し、フィリピンを獲得したりしていました。
ハワイからフィリピンへと進んで来て、出遅れた中国市場への進出を求めていたわけですから、日露戦争終結の手助けもその後の日本からの見返りを期待しての事だと、そう考える論者も多いのです。
ですから、共同経営は期待を持って受け止められ、破談になった後は、それまでの中国人排斥運動から、日本人排斥運動に変化したとも言われています。
では、この共同経営が実行されたとして、本当にアメリカとの戦争は避けられたのか?
その後はどう動いたのか?
第一次、第二次世界大戦は、ヨーロッパが火種ですから起こる。
そう考えて、幾つかの可能性を示してみます。
Aアメリカとは戦わずにすむ
Bアメリカとは何時か戦う
Cアメリカと組んで中国を分断国家にする
Dアメリカと組んで単独か複数かは別に、イギリス・フランス・ロシア(ソ連)・ドイツ他と戦う
E中国と組んでアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシア(ソ連)等と戦う
Fその他・例としては、日英同盟が継続していて、日英がアメリカと戦争する。が考えられます。
この設問の前提として、当時のアジア情勢を書いてみますと、明治維新の少し前に清帝国では太平天国の乱が起こっていて、この乱の最中にイギリスはビルマ(現ミャンマー)
フランスはベトナム(仏印と書かれる事が多い)をアロー戦争の結果として、清から宗主権を奪い植民地にしていました。インドとマレーシアは既にイギリスの植民地で、インドネシアはオランダの植民地。タイだけが独立国だったのです。
1900年には義和団の乱(北清事変。映画『北京の55日』はこれを描いています。)が起こりました。この時の日本軍の戦闘力と略奪をしない規律の正しさが、イギリスを日英同盟に向かわせたとされています。この時のロシア兵の規律は特に酷く、事変の後も国際的な合意を無視し、満州に兵力を駐屯させ続けました。これが日本に恐怖感を与えた為に、日露戦争になったのです。
清からは数千人が留学生として来日していて、北清事変の後は増加したそうですから、日本軍の強さや規律は、清国民からしても頼もしかったのだと思います。
ロシアは遼東半島を租借していて、朝鮮から(当時は大韓帝国)人か流れ込んでいました。日露戦争では、それらの人達が日本軍の軍夫として協力してくれました。この協力は朝鮮近代化を目的とした一進会の働きで、この時の流れが日韓併合に繋がります。
付記しますと、北清事変の結果として、日本を含む各国に清国内の駐屯権が与えられています。当時は帝国主義の全盛期ですから、戦争に負けた場合には何らかの権益と同時に駐屯権が付くのは当たり前で、これを現代の感覚で責めるのは公平さに欠けると考えます。
清が革命で倒れるのは1911年で、第一次世界大戦は1914年ですから、日露戦争は激動の時代の幕開けと考えられ、一方では、ボーア戦争での南アフリカの植民地化が寸前ですし、アメリカとスペインの戦争も有りましたから、動きの激しさが理解できます。
日露戦争の結果としては、ロシアが持っていた権益の全てが、日本に委譲され、これには清国はタッチできないという事が、当時の常識でした。
清国民の意識としては、日露戦争直後では、日本は嫌われてはいなかったのです。
日本人の意識が大国意識に変化したのも、この勝利からでしたが、反面では、東洋の平和の為に、清の近代化を応援するという心情も強かったのです。孫文が盛んに来日したのもこの頃です。
設問には、これらを含めて考えて頂きたいと思います。
長くなりすぎましたから、私の解答は別に載せます。
確かにその一面はありました。
が、地方政権が乱立し、支配者が変わる度に約束は反古にされたのも事実です。
駐屯権は存在しましたし、通州事件のような日本人虐殺もありました。そして日本と同盟していた南京政権と日本軍の支配地では、平和な日常が存在したのも事実です。駐屯権は今の在日米軍と同じですから、それを攻撃すれば戦いになるのは当然です。
地方軍閥政権に、多くの日本軍人が顧問になっているのも、内戦をコントロールしたいとの思いからでした。反日の原因は、満州の朝鮮系日本人への怒りが始まりです。それをソ連共産党の支持で煽ったからでもあります。中国の大衆と権力層の違いは、日本軍占領地の民衆の表情でわかります。当時の朝日グラフでお確かめください。明るい顔をしています。東南アジア諸国でも、日本人は解放者として期待されていましたね。
ベトナムの話は、私は捏造だと思います。
当時のベトナムは、仏印と呼ばれてい、日本は戦闘をしないで進駐しています。つまり、大戦中もフランスの植民地総督が存在したわけですから、日本の統治した地域ではありません。
これは大東亜会議の出席者を確認すれば判ります。
また、中国に関しては、当時は地方軍閥政権が正当政府だと主張し、内戦状態だったのです。
南京大虐殺と言われる話も、設置された南京安全区ではそんな話はありませんでした。朝日グラフの翌年正月の記事では、南京市内は人出も多く平和な様子です。中国軍は制服を脱いで民間人の服装でゲリラ戦を行いましたが、これは当時から現在まで戦闘法規違反とされる違法行為で、国民の安全を考えるなら、民間人の服装でのゲリラ戦等はしません。
その理由は、相手に民間人とゲリラ兵の区別がつかないから、民間人が間違えて殺されるからです。
私が戦争学の必要性を訴えるのは、このような基本的知識も無い議論をしているからでもあります。
ベトナムからの輸出量は
1940年47万トン
1941年59万トン
1942年97万トン
1943年100万トン
1944年50万トン
1945年4万5千トン
水田を潰して軍事物資であるジュ−ト(黄麻)、ヒマ(油性植物)を栽培させたとも。
このことについては議論は交錯していますが。
中国についても同様です。
戦争法規の問題については考えることは必要だとは思いますが、
41年12月8日までは戦時下ではありません。また、フランスは当時はナチスドイツの占領下にありましたから、日本に対して忖度したとは思います。また戦後になって、それでは不味いと異なったデータを出した可能性もあるわけです。
仏印に関しては、激しい戦闘の記録もありませんから、忖度を強要にすり替えた可能性もあるのです。
サイゴンには南方総軍の司令部があり、戦禍とは無縁でしたから、フランスは戦ったり強要された事にしたかったのだと思います。
ですから、私が知る限りでは、仏印の部隊はのんびりしていたと言っていました。勿論、ビルマやビアク島周辺や、フィリピンとは全然違うのです。
中国の戦後に言い出した南京大虐殺も、韓国の従軍慰安婦問題も、捏造が大部分ですから情報の発生源の確認は必要だと思います。
日本への米の輸出量の変化についての数字を見ると判ります。昭和19年の輸出量は前年の半分ですし、20年は前年の1割。これは敗色が濃くなって輸送船がほとんど沈められた結果です。この時期には朝鮮半島から大量の米を内地に運んでいます。ベトナムからの減った分を増やした感じの増えかたです。米の減産を指示する必然性がありません。その事実から捏造に近いと判ります。作物の転作は年単位で考える必要がありますが、陸軍は米の調達を最優先に考えていました。ただ、軍票という名前の紙幣で買い物をしていましたから、インフレにはなったと思いますし、それが敗戦で紙くずになりましたから、多大な迷惑は掛けています。