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2020年03月26日00:14

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軽井沢バス事故、パニックだったなら起きなかった。他

過日、軽井沢バス事故の件で立川地検に出向きました。
内容は対した事はなく、検事さんが移動になる為、調書の言葉の整合性を確認する事でした。
この女性検事さんとは、無駄話もするようになり、その内容を少し書いてみます。
最初は女性らしさも見られずに、枯れ木のような印象だった彼女ですが、回数を重ねる毎に、女性らしさも増してきたのは、人間関係に無駄話も必要だという事でしょう。

話の内容の中で、やはり事故関連のやり取りからの話になる事が多かったのですが、先ず私達が簡単に言う『下手』という言葉の中身です。
私達観光バス運転手が言う意味は、お客様が安心安全快適にが基準になっていて、それに合致しない部分を示す言葉です。
少なくとも、大型二種免許を持っている訳ですから、普通の運転者とはレベルが違う段階の評価なのです。
これは彼女は理解してくれましたが、私が完全だと思えない話としては、ブレーキの使用に関しての話です。
勿論、彼女の検事としての立場も在りますから、完全に納得したとは言えないのかも知れません。
その内容を、少し形を変えて書いてみます。

私達は、減速したり停止すり場合には、必ずフットブレーキを使用します。
これは意識しないで実行するレベルなはずです。
減速しよう(停止しよう)と考えた時に、運転に慣れない頃には⇒脳が判断⇒ブレーキを踏めと命じる⇒ブレーキを踏む。と、なっていた筈です。
しかし免許を取る頃には、考えたら踏んでいる。と、こうなっていた筈なのです。
ですから、ブレーキがキツイだの甘いだのと言われて、踏みかたを直す事も出来ていた訳です。
これが一旦脳に行ってからでしたら、常に遅いと言われていた筈です。

少なくとも、反射的にブレーキを踏めない人は、免許を取れない。そう私は確信しています。

危険を察知した場合に、急ブレーキを踏む確率は、単純にハンドルだけで対応するよりも、数百倍も多いと思うのです(ブレーキとハンドルを併用する場合は除きます。)

あのバス事故では、最終的には時速96キロに達していたとされています。
私の感覚としては、あの下り坂全体で、時速が85キロ以上になりますと、常に曲がり切れる自信は在りません。
95キロなら運任せという事になるでしょう。
規模の大小はあると思いますが、無傷で曲がりきる自信は無い。という事です。
私はこの事を、自転車に乗った80才のおばあちゃんでも間違いなくブレーキを使う。という言い方をしてきました。が、パニックになっていたから事故になってのだ。と、反論されるのが常でした。
しかし、パニックになっていたら、ブレーキは強く踏みますから事故にはならない筈なのです。
また反論がありそうですが、お待ち下さい。
このパニックなら事故にならない事を証明する判例は、山ほどあるのです。
それは……

ブレーキの踏み間違いによる暴走事故です。
ブレーキとアクセルを踏み間違えた人達は、完全にパニックになっています。
減速や停止をするつもりで、本人はブレーキを踏んだのですが、減速も停止もしないから当たり前です。
いや、逆に加速している訳ですから、減速や停止をしようとしてもっと踏みます。
しかし、減速も停止もしないでまだ加速します。
何とか停めたい、減速したいからもっと踏みます。
まだ加速します。
踏みます。
加速します。
踏みます。

………

本人はブレーキを踏んでいるつもりですから、必死に強く踏む訳です。

踏み間違いの事故で、かなり先まで走ってしまっている理由は、ブレーキだと信じてアクセルを強く踏んでいるからです。
殆んどの事故で、暴走した車が走り過ぎた後に、何かにつけてぶつかって止まっているのも、この推察を裏付けています。
パニックとはこのように、動作としては単純で、他の可能性は考えられない状態を言う訳です。
踏み間違い事故の場合には、本人は踏み間違いの可能性は全く考えられない状態だという事です。

パニックだったら事故にはならなかった。と、主張するのがおわかりでしょうか?
本当にパニックになっていたら、土屋は強くブレーキを踏んでいるはずだからです。

これは今回検察に行き、検事さんとの簡単なやり取りの中で、もっと良い説明はないだろうか?と考えた結果です。

パニックになったら、ドライバーは必ずブレーキを踏むのです。
そして、パニックにならなくても、あの速度と下り坂ならば、どんな人間でもブレーキは必ず踏むのです。

整理します。
私達車の運転者は、減速や停止の必要性を感じた場合、ブレーキを踏むのが当たり前になっている事。
だからパニックになれば余計にブレーキを踏む事。
その証拠は、ブレーキの踏み間違え事故である事。

パニックになっていて、尚且つブレーキ痕が無いという事は、ブレーキに何等かのアクシデントが有ったという事になる訳です。
踏み間違いによる暴走事故の事例は、この説明の傍証ではありますが、立派な証拠だと考えています。

検事さんとのやり取りの中で『私のブログ記事は読んだ事がある。様々な事柄を分析する仕事が本来の仕事ではないかと思う。』という、お世辞を頂きました。
その時に、私は本来が受動的な思考タイプで、問題点が見付かってから考えるのです。と答えました。

この記事も、検事さんとの会話から生まれました。
気にしている事があると、それに関連した事を、なんらかのきっかけから考え始めるのです。
あちらから、こちらから、知識を総動員して考え、結論が出ない時には、知識の中のグレーゾーンに入れて置く訳です。
そこに関連する事柄が触れると、問題点がグレーゾーンから出てきます。
そこである程度納得できた場所に、こうした形になる訳です。
私が、今回もですが、何回も同じ内容を書いている場合には、結果が出ていないか、またはそれだけ気掛かりだという事になる訳です。

それも併せてご了承下さい。

今の気掛かりは、勿論コロナウィルスの事も在りますが、日本の未来です。
古き良き日本とは、私には戦前の日本ではありません。

日露戦争に勝つ以前の日本なのです。
世界に認められる国家になる為に、懸命に努力し、謙虚でもあった日本です。
金だけが物を言う日本では無く、自分の仕事に誇りを持って生活していた日本です。
貧しくても助け合いながら暮らしていた日本です。
お節介かも知れません。
が、本当に他人の心配をする事ができた日本です。
頑固オヤジ達に叱られながら伸び伸び遊んだ、子供時代には、そんな日本がまだ少し残っていました。
貧しくてもどこか明るい日本です。
その日本の源は、江戸時代という事になるでしょう。

その江戸時代の基本的な原理は忠です。
中国や朝鮮半島では孝。
この違いを考える事こそが、民族意識の違いを理解すると考えています。

コロナウィルス禍で、都市の閉鎖の議論がなされていますが、私はそれを見据えて提言をしてきました。
このような場合では、戦争の原理が有効になります。
それは戦力を集中して敵に当たるという事と、拙速は無策より良し。という事です。

無策とは罪なのです。
それは改めて御承知おき下さい。
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