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2019年12月15日08:50

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皇室肯定のお願い

皇室否定派の言い分の1つとして、人間は平等だという理念・理由があります。
しかし、それは確かに理想的ではありますが、残念ながら机上の空論だと言わざるをえません。
何故なら、人間は絶対に平等では無いからです。
勿論、ありとあらゆる生物が平等ではありません。
人間なら、人種や肌色の違いに生まれた場所や国の違いから、親の経済力の違いに才能の違いもありますし、見た目の違いまで加えますと、その違いは、個性と言う言葉からはみ出すほど違います。
この違いは、人間の個人的資質ではどうにもならない部分が含まれていて、これは全ての生物に共通して存在する違いだと言えます。
その違いを承知した上で、民主主義がベターに近いシステム(現状では決してベストではありませんし、ベターですらないと私は考えています。しかし、評価はしてます)だと思います。
民主主義の1人1票という制度は、知者も愚者も同じですし、善人も悪人も同じです。
考えようによっては、真に不平等なシステムです。
しかし、人間の社会を考えた場合には、絶対条件としてこれしかありません。
理由は、誰が知者と愚者を判別するのか、善人と悪人を決めるのかという難問が生まれるからです。
これに法の元での平等等、基本的人権を確保する事が絶対条件という事になります。

三権分立は確かに理想的ではありますが、それは厳密には並立していません。
何故なら行政のトップが人事権を握っている限り、その行政のトップの意向に忖度する姿勢が生まれるからです。
法の執行でも同じです。
人間が世俗的な成功を望むかぎり、その成功の鍵である人事権を握る人間には、意識しない忖度をしている可能性があるからです。
法の執行者なら、法の解釈の違いを楯に忖度する事も可能だという事です。

また、アメリカの大統領選を見れば分かりますが、多額の費用が必要な選挙では、やはり大口の寄付者にも忖度が必要になります。
それを認識した場合に、現在の民主主義・選挙制度を、ベターに近いとしか私が評価しない理由も、お分かり頂けるのでは無いでしょうか?

又、世界中で王室や皇室に対する憧れが存在するのは、その存在が国民との間に、相互の敬愛の積み重ねの歴史があるからだと考えています。
その王室や皇室が、歴史的にも暴君の連続ではなかったという事も、大きな理由であると思われます。
それに加えて、生まれの違いという、人間の努力ではどうにもならない部分が相まっての憧れだと思うのです。
生物の全ては、生まれた瞬間から、様々な条件の違いを背負っている訳ですから、人間は真の意味では平等では無いのです。
ですから、人間は平等だという考えとは、机上の空論に近いと私には思えるのです。
ならば、その不平等の中に血筋や家柄の違いを加えたとして、どんな不都合があるのでしょうか?

日本の皇室は、長い時の流れの中で、日本人の祈りの中心に居ました。
江戸時代には天皇家の存在は知られていなかった。と考える方もいます。
しかし、江戸時代の識字率は当時世界一でしたし、知識層には、現在に伝わる古典も読まれていたはずです。
地方でも殿様の上に将軍様が居る事は周知の事実でした。

その将軍様とは別に、神社仏閣に対しても、朝廷からのお使いが通る例幣使街道もありますから、天朝様という権威の存在は広く認知されていたと思われます。
神社に正一位とか従二位とかの位がある事は、当時の人達は全て知っていました。
そして、その位を授けるのが天皇だった訳ですから、宗教関係の権威だと思われていた可能性はあります。

反対派や否定派の皆さんが危惧するのは、国家神道の起こした悲劇の再来だと思いますが、現在の象徴天皇は、憲法の規定により政治とは無縁の存在になっていますから、現行憲法下ではその恐れはありません。
また、現在の安倍内閣のように、巧妙な政治利用に対する不快感もあるのかもしれませんが、それは国民が意識する事で減らす事はできます。

何故世界中の人々の中に、王室や皇室に対する憧れや敬愛の心があるのでしょうか?
私は長い歴史と、特別な存在(生まれという不可抗力)が持つ安心感があるのだと思います。
英国王室から漏れだすメーガン妃とエリザベス女王の不仲説などは、王室がどのように国民の目に映るかを、エリザベス女王がいかに大切にしているかを表しています。
秋篠宮眞子様と小室さんとの結婚問題でも、皇室という立場の不自由さが判ります。
これが普通の家庭なら、お二人は既に結婚していたと思います。
その結婚が、多分厳しい生活を伴い、眞子様が捨てられる結果になったとしても、それは普通の日本人の不幸話の1つでしかありません。
言い方は悪いのですが、皇室に生まれた方には、不幸になる権利も無いのです。
王室や皇室には、その人間としての不自由さを耐えて、変わらぬ姿を国民に示す事を求められているのです。
それを承知での、私の皇室必要論だとご理解下さい。

日本の皇室でも、災害があれば被災地を訪問し、被災者を励ましています。
これは単に励ますだけではなく、報道される事で、被災者が見捨てられていないと思える安心感も与えているそうです。
これは王室や皇室だからの効果であり、被災者が素直に感謝する姿からも判ります。
首相や大統領では、先ず要望やらが先だって、こうはいきません。
努力では不可能な存在だからこそ、世界中の人達は憧れるし、単純に感謝もできるのだという事を、無視する事は出来ません。
時の権力者がどんなに頑張っても、お手盛り以外では、王様や皇帝にはなれません。
この限られた条件こそが大切な事であり、王室や皇室は一旦廃止したらもう復活は有り得ないのです。
ナポレオン家の例は、欧州の特別な身分制度と、ナポレオンの幻影が可能にした稀有な例でしょう。
しかし、それほど強烈なナポレオン王朝でも、三世の失敗の後は消えています。
世界の常識では、大敗北をした王朝は消えます。
これは外国との戦いだけではありません。
国内の戦いでも大敗した王朝は消えていきました。
中国の歴代王朝の歴史がそれを物語っています。
腐敗し、国民の支持を失って反乱が起こって滅びるの繰り返しでした。

その意味でも日本の皇室は、徹底的な敗戦を乗り越えて存続した稀有な王朝です。
その理由は、国家神道以前の記憶が存在したからだと私は思うのです。
国家神道は戦争に勝つ度に強化され、大東亜戦争時にはその絶頂にありました。
しかし、日清戦争の勝利から敗戦までは約50年。
僅か2世代強の時間だけなのですから、それ以前の穏やかな頃の皇室の記憶が、明らかに残っていたからでしょう。それに加えて、戦後の昭和天皇の各地への行啓が、元来の祈る天皇の民族的な記憶を呼び覚ましたのだと思います。
もうひとつ大きな理由は、戦争を開始する時に、明治天皇も大正天皇も昭和天皇も、常に平和を求めている気持ちを表面してきたからでしょう。
又、戦前には『天皇機関説』論争があり、天皇の憲法上の立ち位置も理解されていたとも考えられます。

私が考えるあの戦争の最も大きな理由として、日本国内だけでなく、アジア全域の人種差別に対する怒りもあったからだと思います。
アメリカの排日移民法は、その人種差別の激しさで、日本国民の怒りを掻き立てていたからです。
第一次世界大戦後、日本は講和会議の席で『人種差別の撤廃』を提案しました。
その提案を潰したのがアメリカでしたから、反米の気分は日本と国内に満ちていた訳です。
そして支那事変(現在では日中戦争。日華事変とも言いました)では、アメリカは義勇軍という名目で、空軍を派遣していましたから余計に腹を立てていたからでしょう。
何故、あのような無謀な戦争に突入したのか?
それは国民の中に人種差別への怒りが渦巻いていたからでしょう。
かって南アフリカでは人種隔離政策が行われていました。
その当時の事ですが、日本人は名誉白人だと喜んでいた人達もいたのです。
何故喜んでいたのか?
アメリカの人達差別の酷さだけでなく、戦前の上海の祖界などで、犬と中国人は入るべからずという、張り紙などを見た人達が多く居たからで、差別されない安堵と、差別できる喜びも存在したのでしょう。
しかし、喜びながら怒っていたのだと思います。
人種差別はそれほど酷く、世界中に蔓延していた訳です。

韓国や北朝鮮が、日本統治時代を捏造してまで批判し、日本政府が及び腰の対応だったのも、その理由の1つに『朝鮮併合時の詔書』の存在があると私は考えています。
そこには、日本国民と朝鮮国民は平等に扱うと書かれていました。
また平等という言葉が出てきましたが、当時の日本と朝鮮は生活レベルの違いや、教育レベルの違い、法体系の違いなどは非常に大きく、また、朝鮮には奴隷という身分制度までありましたから、それを平等に扱う事は、社会的な混乱が予想されました。
聖を象徴する天皇の詔書は、理想を具現化して平等をうたいあげ、俗の部分ではインフラを整備したり、法体系を変更したり、義務教育を実施したりしたのです。
しかし、この平等という言葉は、朝鮮人の『安重根による伊藤博文暗殺』の理由になってしまいました。
平等という言葉の魔力です。
平等だと宣言した限り、それを速やか実行しなければなりません。
先に述べたような理由は、即時実施を求める人々には届きません。
法を整備し、新たな身分制度に統一し、インフラを整備もして、同じように生活できるようにする事が、天皇としての願いである。その意を体して良く務めよと、あの詔書に加えていたら、少しは変わっていたかも知れません。

平等という言葉は、短絡的に捉えたら不満ばかりを生む言葉です。
不平等を認識し、その不平等を如何に減らすのかが、政府が最も考慮すべき事だと私は考えます。
新自由主義者の言説は、出発時の不平等を無視した暴論だと私は考えますが、それを認めない平等論者には、全てが自己責任だという事に、どう反論するのでしょう。

平等論から皇室廃止を考えている方達には、もう一度平等という言葉の意味を考えて頂きたいと私は思います。

王室や皇室とは、その国家の理想を体現する存在でもあります。
憧れでもあり、ある一面では癒しでもあります。
そして一度廃止したら、復活は有り得ません。
日本の皇室は、長く祈る存在としての歴史を持ち、神仏に平穏を祈る庶民の代理でもあります。
人権が存在しないで、不自由に耐え、国民に対応している方々です。
皇室自らが自壊作用を起こすまで、平等論からの皇室打倒はお待ち頂きたい。と、私はお願い致します。


附記・秋篠宮家に強い風当たりがありますが、私は宮様は憲法を強く意識なされていると敬服しています。
皇室としていかに憲法と向き合うのか。それを常にお考えだと感じています。
それから、税金で――という話を直ぐにする事にも、私は違和感があるのです。
戦後に、皇室は財産の殆んどを失いました。
そして年次予算という形で生活を強いられています。
この形では、普通の家庭のように貯金などは出来ないと思います。
財産を供出した段階で、国民は税金で支えるという意志表示をしたのが現行憲法です。
税金が税金がと余りにも言い過ぎる気もしています。
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