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2019年12月12日19:53

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逆説の日本史の楽しみかた。井沢説への反論

井沢元彦氏は週間ポスト誌上で『逆説の日本史』を連載しています。
従来の歴史観とは異なる視点は、歴史ファンを楽しませてくれています。
まだ読んだ経験が無い方に、私は一読をお勧めします。

私が書こうとしている事は、その井沢説への疑問です。
井沢説では、穢れの思想は農耕民族の考え方であり、記紀に禊の記述がある事から、天皇家の紀元は弥生時代だとしている事です。
井沢氏は、日本史の中に怨霊に対する恐れを取り入れたりして、従来の史観に一石を投じてきました。
私は、それを非常に高く評価して愛読しています。
そして、だからこそ、縄文時代という物が残るだけの時代を井沢氏に改めて考えて欲しいと思ったのです。


弥生時代に先行する縄文時代は、約1万年もの期間がありました。
その長い期間であの素晴らしい縄文土器を生み出し、後期から晩期とされる時代になると、農耕生活もしていた可能性もあるそうです。
一説では、縄文集落に定住していた訳ではなく、外国との交易をしていたとも言われています。
当時の平均寿命は40歳程度だと思われますから、現在の成人年齢に達した人達は定住して、30歳台になったら、外に出る人が多かったという事なのでしょう。
長野県の尖石遺跡から出土する石鏃が、朝鮮半島から見付かったという事実もあり、今年2019年には、台湾から船出した当時の技術で製作した舟が、沖縄に無事に到着しましたから、交易していた可能性は高いと思われます。

この交易が出来る能力は、単なる狩猟民族の発想だとは思えないのです。
かって縄文時代は、少ない人達が簡単な住居を営み、狩猟をしながら仮の定住をしていたと考えられていました。
獲物になる動物の数で、住居を変えていたという事です。

私達が学校で教えられた縄文時代とは、こんな物でした。
しかし、縄文時代中期とされる青森県の三内丸山遺跡で、数百人規模の縄文時代の集落が発見され、その遺跡の調査から、勾玉や動物の骨の他にも、沿岸漁業では捕れない大型のマグロ等の骨も見付かっています。
ここから、遠洋漁業に近い技術が、縄文時代中期には存在していたと言えるでしょう。

私は、縄文時代という長い時の流れの中で、狩猟民族と農耕民族の混在した思考を育てたと考えています。
縄文時代とは、世界最古に近い土器文明です。
他に数ヶ所の古い土器遺跡が発見されていますが、それは大陸の中であり、そこに居た人達がどうなったのかはハッキリ判りません。

縄文時代とは、平均して働いていた時間が3時間程度だという研究結果があります。
その3時間以外の余暇と言える時間が生んだのが、火炎土器や遮光器土偶などの素晴らしい土器でした。
その時間の中で、芸術的な思考と共に、現在に繋がる宗教観も熟成したのだと、私は考えています。
ヨーロッパでしたか、数万頭もの獲物を崖から落として捕獲した遺跡がありました。
多分それは、大陸だから出来た事だったのでしょう。
しかし、大量過ぎる獲物は、その捕獲をした人達を驚かせたと思われますし、食べ切れずに残された動物の遺骸が集まった遺跡でした。
縄文の日本には、そんな事例はありません。
縄文人達は、日本が島国である事を認識していて、獲物を過剰に獲る事は避けていたようです。
そして縄文人は、獲物をしっかりと捨てずに食用にしていたと考えられます。
穢れの思想とは、そんな日常から生まれたと私は思うのです。
どんなに保存に気を付けていても、必ず時が経てば腐敗していきます。
腐敗の途中で形が崩れ、蛆が涌く事もあったでしょう。
また、その前の状態であっても、腐敗した食べ物を食べて食あたりで死ぬ人も居たと思います。
それが度重なる事で、その姿の変化〓見た目の汚さから穢れとして忌避するようになったのだと、私は考えます。
食べる事がその獲物への感謝だと、私達は教えられた記憶があるはずです。
それは縄文から伝わる心ではないでしょうか?
縄文人達は島国だからこそ貪欲を戒め、最小限度の獲物を感謝して食べました。
食べ物を残す事、腐敗させて汚なくする事とは、捨ててしまう訳ですから、感謝とは異なります。
捨てずに食べる努力から、獲物が食べられない事を恨むという考え方が生まれたのだと思うのです。
勿論、生かしてくれる自然崇拝という、原始的とされる宗教観も、この穢れに結び付いたと思われます。
余談を入れますと、自然崇拝や多神教は原始的だと言われていますが、私は、一神教の神の存在が証明されない限りは、自然崇拝を含む多神教で良いと考えています。
この多神教世界には、宗教戦争は起こらないし、自然破壊の抑止力になるからです。
話を戻します。

この食べないと恨む。という考え方は、怨霊という考え方の直ぐ手前にいます。
そして、獲物でさえ恨むのですから人と人との関係では、恨まれない事が最も重視されたはずです。
縄文中期の数百人規模の集落は、社会性を持った営みが存在した証拠であり、人付き合いも求められていたはずなのです。
そこには、島国という限られた空間も影響したでしょう。
怨霊という言葉は無かったとしても、恨んだまま死ぬ人間は出さない。出してはいけないと考えられていたと思われます。
そして、汚なくなった獲物を食べて死ぬ人も見ている訳ですから、汚い食べ物は穢れであり、綺麗な食べ物では無いから汚い。と考えても不思議ではありません。
そこから、穢れた食べ物を食べたからその獲物の恨みで死んでしまう。という考え方が成立したのだと思うのです。
つまり、汚なくした段階で穢れが生まれるという事です。
それを避ける為には、しっかりと水で洗い、それから干して保存する事もしていた事でしょう。
水で時間を掛けて洗う事で、上の腐敗した部分を取り除いて、腐敗寸前の熟成した肉を食べた事もあったはずで、この経験が、後の禊に繋がったと私は考えます。

最初は島国だから食べ物を大切にする。
獲り過ぎない。
これが縄文人の信条だったのです。
そして長い思索の時が流れ、前記の食べられない獲物の恨みに繋がったのは、大自然に対する畏敬の念が生み出した宗教心からだったと私は考えます。
そこから日常生活に宗教心が入り込み、人間の死に対してもそう考え始めましたから、怨霊が成立した訳です。
水でしっかり洗って干した獲物は、長く食べる事が出来ましたから、水は腐敗を食い止める力があるという事になったのでしょう。
また、人間も動物も、植物でさへも水無しでは生きられない事も、その考え方に影響を与えたと思います。
そして溜まり水は腐ります。
そんな水を飲めば、体調を崩しますから、水は流れているのが良しとなり、同じ意味で泥水は駄目だとされたのだと考えられます。
そして綺麗にするには、洗えば良い訳ですから、禊という事になったのでしょう。
縄文中期には社会生活が存在したのですから、1万年という時間は、怨霊や穢れ・禊というしっかりとした概念ではなくても、それに繋がる思考には到達していた。そう私は考えます。
何故日本にこの概念が定着したのか?
それは島国という条件と、日本列島の位置が重要だったのでしょう。

極寒の世界で暮らすイヌイットの生活では、腐敗は起こらないですし、熱帯や亜熱帯の気候では、森林が迫る恐怖が先に立つと思われます。
イギリスも島国ですが条件が違います。
北海道より北ですから、縄文時代の生活をするのは厳しいはずです。
紀元前数世紀には、人が暮らせるようになったとは思いますが、縄文時代の始まりの頃には、そのような状況では無かったと思います。
ですから、日本列島だからこそ生まれる事が出来た思想だと言えるでしょう。

概念ではなくても下地はあった日本に、仏教が入って来ます。
御承知のように、仏教は殺生禁断の思想があります。
それに触れて、この下地が一気に怨霊になり、穢れになり禊になった。と私には思われるのです。
井沢氏の論拠として、大嘗祭の祝詞には、狩猟民族の影が無い事を挙げていました。
が、大和朝廷の祝詞を役職にする神祈官に中臣氏が決まったのは、飛鳥時代の頃だと思われますし、記紀の編纂は農耕生活が始まってから数百年も後の事ですから、すでに狩猟生活の記憶は薄くなっていたはずです。
仏教の殺生禁断の思想が入ってきた後でも、そして現在でも、神前には魚も供えられる事に、私は狩猟をしていた時代の名残を感じます。

弥生時代から大和朝廷の原型が始まったという井沢氏の意見に、私なりに反論をしてみました。

お楽しみ頂けたら幸いです。
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