mixiユーザー(id:44024462)

2019年12月10日23:23

226 view

中村哲医師の死から考えたい事

アフガニスタンで亡くなった中村哲医師が帰国しました。
内戦と政情不安の中で、大統領が棺を運び、栄誉礼で送られての帰国でした。
心からこの偉大な功績のあった中村医師に、哀悼の気持ちを捧げます。

私は以前、外国人労働者受け入れのブログの中に、自己中心でなければ生きられない世界が存在し、それが何代も続く事で国民性に入り込んでしまったと書きました。
それが最悪の事態を招いたのかなと思います。

日本では外国からの干渉も少なく、禍根も水に流すという発想も生まれました。
貧しくても、近隣の協力で生きてきた歴史があります。
それでも『水争い』では他の村との間に死傷者を出す事もありました。
農耕民にとっての水とは、それほど重要な物なのです。
その水を与えてくれた中村医師は、アフガニスタンの農民に取っては大恩人であるのは間違いないのです。
それなのに何故でしょう。

水が通り、土地の価値が大きく上昇した事で、土地の所有を巡って争いが起きたという報道がありました。
これが日本人との違いかと思うのですが、土地争いの原因を作ったとして狙われていたそうなのです。
ですからボディーガードも付き添っていた。

アフガニスタンの人達が全てそう考えると言っている訳ではありません。
逆恨みに似たこの考え方は、どんな民族でもそう考える人間は居るのです。
ただ、その割合が問題なのだと思います。
殺害した人達は、もしかしたら追い込まれてしまい、視野が極端に狭くなっていたのかも知れません。
しかし、日本人なら逆恨みでもこの思考に行くかどうか?
私は、さきに上げた自己中心の考え方の中に、宗教観の違いが存在する気がします。
日本の宗教観は、縄文以来の自然信仰に、弥生の考えを強化する戒律を持った仏教が重なり、その後熟成して、神道と仏教が融合した宗教観になりました。
明治維新の後に、廃仏毀釈があり、そこから国家神道が始まりました。
明治後半から国家神道が従来の宗教観に重なり、敗戦の価値観の変化が浸透する事で、戦後の宗教観の漂流となって現在に至っています。
世代間で多少の違いはありますが、それでも長い歴史がかたち作った宗教観は残っていますから、どこかに人間は自然の前では小さいという意識はあります。
又、仏教が内面への意識付けをしている宗教ですから、自己の欲望に正直だとしても、そこには自省の観念も存在している訳です。
だから自己中心だとしても、殆んどの日本人は、冷酷非常とはいえ、例えそれがほんの僅かではあっても、フォローはします。
自己中な恋愛観で有名女優さんと別れた某元社長も、多分それなりの金銭は払っていると思いますが、自由恋愛の結果として払う金額としては多額なんだろうと、私は推察していますexclamation ×2
勿論例外は在るでしょうが、それが日本人の持つメンタリティーだと言えるでしょう。
一神教の人達とは、そこが微妙に変わるのだと思います。

一神教では、良心とは神に向けられる物であり、神の定めを外さない限り、極端な事を言えば何をしても良いという訳です。
一神教が成立したとされるチグリスユーフラテス文明の周辺には、遊牧民や狩猟民族が沢山居ましたから、農耕民も日本の農民よりも遊牧民に近い思考が残っていたと思うのです。
そして一神教の教えとは、元来の遊牧民的思考にあっていたからこそ、定着したのだと考えます。
奴隷に生ませた我が子でも、平気で奴隷として売買できたのも、この良心の向き方の問題が存在したからでしょう。
勿論、現在は人権が尊重されるようになりましたが、底流にはこの良心の向かう方向があるのだと思います。

イスラム教は細かい行動の規範がありますが、それに書かれていなければその人の良心は痛みません。
ローマカトリックでは、異教徒は人間では無いと規定していた事があります。
これが数々の異民族への虐殺の、正当化の根拠になり、その結果としてインカ帝国の滅亡なども起こりました。
ネイティブアメリカンとの対応にも、その片鱗が観てとれます。
食糧を与えてくれたり、住まわせてくれたネイティブアメリカンを、平気で騙して土地を奪いました。
これらは今日では立派?な犯罪ですが、アメリカという国はこうして成立しました。

アメリカの支配層と言われる人達は、プロテスタントに金融担当としてのユダヤ人が加わったと言われていますが、ローマカトリックは、教皇が時代を追認する教書などで認識を変えています。
現在では異教徒も尊重するようになりましたが、プロテスタントにはその指標は存在しませんから、ローマカトリックに比べると、微妙に異なるのかと思います。
ロシア正教とは微妙に違いますが、ローマカトリックよりは共にイスラム教寄りのように私は感じます。
多分、教皇という人間の存在の有り無しが、この違いを生んでいるのでしょう。

勿論、直接的に利害関係が無いアフガニスタンの人達は、中村医師を慕い、悲しむ事も半端ではありません。
ただ、これは神への良心の方向とは違う、人間としての情の部分なのです。

私は、アフガニスタンの人達を非難している訳ではありません。
根本的な思考の差を話ていますので、誤解の無いようにお願いします。

日本人のキリスト教徒は、ロシア正教でもローマカトリックでもプロテスタントでも、良心の方向が他の外国人とは違う気がしています。
勿論、良心の方向性としては当然のように神に向けられていますが、そこに自省という戒律を課しているように見えるのです。
確か旧約聖書には、約束の地に住んでいた人達を皆殺しにしたという話があったと記憶しています。
多分、異教徒は人間では無いというカトリックの判断は、この話から来ていると私は思うのです。
キリスト教徒なら、この旧約聖書も信じなければなりませんから、ヨーロッパで教会に行かない人達が増えたのも、私はこの話が原因なのかなと考えています。
教皇の現在の判断は(異教徒も人間でありその人権は尊重するべきだ。)旧約聖書との整合性はどうなのでしょう。
ヨーロッパの人達は、ナチスの蛮行は熟知しています。
私ならやはり、ヨーロッパの人達と同じ行動を取ると思うのです。
しかし日本人のキリスト教徒は、日本独特の感性がありますから、旧約聖書は無視する形なのではないでしょうか?

私達は、この根本的な思考の差を認識するべきだと思うのです。
違う部分は違うと認識する事が、世界と上手くお付き合いする基本だと思うのです。
これから沢山の外国人労働者がやって来ます。
身辺に外国人労働者が当たり前に居る状態になります。
その生活の為の施策も必要になるでしょう。
その時になって『こんな筈では無かった』と言わない為にも、違うという事をしっかり認識して対応する事が、中村医師の死を最も生かす事だと考えます。
中村医師という偉大な方の死が、私達に語りかけている事をしっかり受け止めましょう。
9 11

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する