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2018年09月25日09:32

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母と弟と私。行き方と死に方と

母は85歳の7月18日。
弟は61歳の7月4日。
父は46歳の11月17日?

父が?なのは私の4歳の時であり、深い記憶に残っていないからですが、こうして並べて書くと、何となく関連があるように見えてくる。
とすると私は73歳の7月11日が座りが良いと思う。

この73歳という年令は、実は今の会社に入る時に『73歳までは仕事をしたい。』と言った年令なのですが、無意識に自分の死期を語っていたのかな?と思います。
今、前立腺ガンと確定し、自分判断としてはかなりステージが進んでいて、治療しない(手術と抗癌剤)選択をしている訳ですから、痛み止を服用するようになった時が観光バス運転手としての終わりと考えるなら、病の進歩状況にあっているのかも知れません。

何故、現役や死期、死に方に拘るのか?
父の死の状況は、精神病院で逝った事と、幼さ過ぎて病院に行っていた記憶が無いし、以前書いたように、狂った父から『お前のような子供は知らない。』と言われた事は、父が子育て担当だった私には強烈なショックでしたし、記憶を消した可能性はあります。(私は母に抱かれた記憶が無い。詳しくは以前の日記をご覧下さい。)
ですから判らないのです。

母は、やはり以前書いたように、10年ほど会わなかった私が、見舞いに行った時に『今日が峠だよ。』と言いました。
ですから、私は面会時間一杯まで病院に居て、その後も終電ギリギリまで近くの駅に居て、それから家に帰ったのですが、翌朝、6人部屋の朝の検診で来た看護師さんに『ご苦労様』と声をかけ、看護師さんが他の患者さんの体温や血圧を測っている時に、声も出さずに逝きました。

弟は日付では3日前に私と話た後も仕事をしていて、後を頼んだ後輩と、当時の彼女とを交えて打ち合わせをしている途中で容態が急変し、緊急入院をして、一旦は回復した後に、再び急変して、子供達にも私にも二人が知らせなかった為に、シーツが真っ赤になった中で逝きました。
ですから私はそれを知らないのです。

両親と兄弟。
私は結局は死の瞬間は見ていないのです。
そして、もう皆逝って居ないのですから、私の死を両親も兄弟も見ないという事になります。

母との事を少し書くと、母が病に倒れる寸前から、母の顔は明らかに相が変わって来ていて、私はそんな母を見たく無かったのです。
これも以前に書きましたが、当時の母は弟と同居していて、弟は『兄貴より0が2つ多い。』と言っていたように、経済力の格差が大きく、自分に出来る事は、弟に比較されたら大した事では無かったと思いましたから、足が遠のく事になりましたが、ま、要は逃げていた事になります。

この経済力の格差は、他人に対しては意識もしないし、コンプレックスにも感じないのですが、この時はそれが駄目だったのです。
多分、母に対しては親孝行合戦のような気分になっていて、優等生だった弟に対し、成人近くになってからは、グレて悪でしたから、随分と母には迷惑を掛けたし、本当に悲しませた自分の人生を考えると、経済力の大きな格差と相まって、無意識に逃げる事を選択したのでしょうね。

母は、1人で私達兄弟を育て上げましたが、ただ1人だけ肉体関係を持った男性がいました。
父の死後6年過ぎですか、私が小学校4年か5年生の頃でしたけど、今はそれが判ります。
相手には妻子があり、材木会社の切り出し配送の責任者として、出張所の助長として単身赴任していて、母はそこの賄い婦として私達を連れて住み込みで働いていましたから、いわば現地妻という事になりますか。
母は古風なところもありましたから、酷い葛藤があったと思いますし、その証拠として胃をやられて何回か血を吐きました。
当時、何かで『タバコは胃の薬として日本に入って来た。』という記事を読んだ私は、母に何回もタバコを勧めたのですが、それだけ心配だったのでしょうね。
母はタバコを吸うようになり、元来が姉御肌のところもありましたから、吹っ切れたように生き生きとし、周囲からは所長を支える姿などが、清水の次郎長を支えた恋女房のお蝶のようだと言われていましたが、それを喜んでいるように見えました。
子育てに追い捲られた母の人生でしたが、母が最も幸せだったのはこの時期だったと思います。(弟が離婚した後は姪と甥を育てました。この時期も色々とありました。)
材木の切り出しが終われば出張所は閉鎖される訳ですから、母の幸せは、期間限定の幸せだったと理解した上でのものだったと今は判ります。
事実、そうなってから僅か2年で閉鎖されて、私達はそこを離れたのですから……

弟は、私が『枯葉が落ちるまでは保たないな。』とか、『しっかり仕事は迷惑を掛けないように引き継げよ。』
と春から言い続けた事を受け、死の前日まで仕事をし、引き継ぎの途中で容態が急変して翌日早朝に逝った訳なのですが、弟の予定より多少早かったとはいえ、人生を弟なりに全うしたのだと思います。
優等生として過ごし、人生設計の通りにほぼ生きた弟ではありますが、関わった女性に関しては、私の方が恵まれたかなと思います。
結婚相手は、母と私の二人が反対したのを押し切っての結婚でしたが離婚。
その原因の1つとなり、10年も付き合った相手とは、離婚後に税務署を辞め、税理士として稼げるようになると、母と同居しながら半分は帰った後で相手の家に泊まりに行くという事実婚。
信用して実印を預け、高額の現金を貯金しておいてと渡し、結局その現金は全て使われてしまい、実印を使われて億単位の借用書を無断で作られて、2億円近くの借金を押し付けられて別れました。
ただ、この相手との時期に重なって、数人と付き合っていたみたいですから、弟も悪い部分はあったという事になりますか・・・この相手も実の無い印象の女性で、この女性のお父さんも、なんだこいつという人でした。

その数人の中の1人が、死を看取った彼女ですが、私はその彼女に良い印象は在りませんでした。
食道ガンの手術をし、抗癌剤の影響で弱っている弟を、愛しているなら看病するはずなのに、家に来ても食事の仕度もしないし、夕方になるとさっさと帰る(私より10歳弱年上の両親が居ましたが、病弱ではなかった。)訳ですから、印象が良い訳が在りませんが、それを指摘すると弟は庇うのです。
それで余り言わなくなりましたが、今でも弟の女性を選ぶ基準は最悪だと思います。

私にも別れた妻が居て、結婚し子供が居る娘がありますが、娘の2才の時に離婚し、その後私は現在の妻と結婚した訳ですが、前妻は娘を連れて母の所に年に数回は遊びに行っていましたし、名字も私の名字をそのまま使用していましたから、少なくても憎まれてはいません。
以前にも書きましたが、私は恨まれても憎まれてはいませんから、女性との関係では、私の方が良いという事でしょうね。

母と弟の事を書いたのは、他人には判らない秘密や弱点は、どんな人間でも持っていると知って欲しかったからで、母は他人には、子供の為に一生を捧げた母親の鏡と見えて居ましたし、弟は多少は女性関係がルーズでも、成功者として莫大な遺産も残した人物と認識されていたと思います。(お別れ会は、私は出席しませんでしたが盛会だったそうです。私は家族だけの密葬にだけ参加。)
しかし、臨終に立ち会った二人が組んで、遺産はほとんど横取りされたみたいで、姪は後継者の後輩相手に裁判をしています。

私は、先に着いたように、グレた過去と、現場の仕事を何種類か経験し、観光バス運転手としても何社も渡り歩きましたから、社会的には威張れる生活はしていません。

是また書いた事ですが、私が身贔屓では無く認める母と弟でも(逝った時も葬儀の時も、私は泣きませんでした。頑張って生きていた事を知っていましたから、私は心からお疲れ様と言って送りました)人間とはこの程度の存在なのです。
自分を責めるタイプの人は、これを読んで安心して欲しいと思いますし、過信するタイプの人は、弟の女性に対する判断を読んで、大なり小なり似た事があると反省して下さい。

私は私なりに生きてきましたから、最後の数週間は苦しむでしょうが、多分そんな物でしょう。

何回も書いてきましたが、人間は神とは違います。
ですから、人間は良い所も悪い所もあって当たり前。
聖者と言われる大宗教家でも、その開始した宗教が、宗教対立を生み、戦争の火種になるなど、予想もしなかったと思います。
聖者でさへそうなのですから、我々は欠点があって当たり前。
肩肘張らず、もっと気楽に明るく生きましょうよ。
これを読んで頂いた方が、そんな行き方をして頂けたら嬉しいです。
死に方を考えているアナタ。
私のような奴でも多分この程度の死に方は出来るはずですから、余り心配しないで下さい。
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