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mixiユーザー(id:4349794)

2019年02月12日08:55

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「バーニング 劇場版」を観ました

村上春樹さんの短編小説「納屋を焼く」を基にした映画を、「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督が撮るなんて、とても不思議な組み合わせだと思います。



村上春樹さんの本を揶揄するのは、すっごく簡単な自己承認だと、個人的には感じますけれど(特に、読まないで批判するのは本当にどうかと思いますね)、まぁそれくらい売れている、読まれている作家であるのは事実だと思いますし、初期の、1度英語で書いてから日本語に翻訳した事で生まれた消毒したかのような文体は、今では普通の事になってしまいましたけれど、その当時は本当にショッキングな出来事だったと思います。


「僕」という1人称を使う事で、誰しもが『この本は私の事が書いてある』と思わせるトリッキーな(その当時はトリッキーでさえあったと思います)文体は、本当に中毒性が高かったと思います。まぁだからと言ってどの作品も高い評価に値するか?と言われれば好みの問題もありますけれど。今回の短編「納屋を焼く」はなかなか面白く出来上がっていて、私は好きな作品です。と言っても読んだのは高校卒業前か、大学生になるくらいなので、遠い昔の話しですけれど・・・でもね、嫌いな人の言い分ももちろん分かりますよ、こんなに熱量の低い上に、上っ面だと非常に上から目線なメンドクサイ人の話しなんて、嫌いな人がいて当然だとも思います。もちろん作者も分かった上でやってると思いますけれどね。




さらに、イ・チャンドン監督は私は「シークレット・サンシャイン」しか見てないんですけれど、もうすっごく入り組んだ作品になってて、レイヤーが何層にもなっていますし、物凄く高度に、様々な解釈が出来る作品です。しかも割合ストレートに『救い』を扱っていて、しかもかなり宗教性を、これでもか、と言わんばかりに批判しています。通貨した上での批判なので大変に厳しいと思いますし、私の個人的な捉え方に近いので、その分心地よくさえあります。扱うテーマもですけれど、大変重い、ヘヴィーなトピックを扱っていますし、その突き抜け方、映画のラストが、そこまでしなくとも、これは映画なんだから、という部分を超えてくるのが好みです。


そんな原作を、そんな監督が映画化するなんて、きっと面白い事になるに違いない、と、かなりテンションを挙げて、期待値も上げて足を運んだので、まぁだいたい空振りに終わる傾向にあるんですけれど、これが予想を裏切ってかなり良かったです。



ほぼ途中までは原作通りに進みます。その描写、風景、演出、かなりある種の村上春樹臭が抜け落ちていて、これは嫌いな人にも受け入れられやすいのではないか?と感じました。いわゆる『僕』=イ・ジョンスなのですけれど、原作では作家の自分であったのに対して、名前を持ち、都市生活者ではないリアルな、しかしどこかで世間とは距離を保ちつつ判断を保留したままにみえるジョンスは、この物語の主人公としても、村上作品の主人公としても成り立つキャラクターに仕上がっています。



アテンション・プリーズ!!!!

ここからネタバレありの感想です、出来れば鑑賞された方に読んでいただきたいです。





































































特に幼馴染、というだけで急速に近づくこの2人の関係、という意味ではとても村上春樹的なんですけれど、でも、何処か、現実味、リアルさが薄くなっているように感じます。これは、昨年見た『アンダー・ザ・シルバーレイク』っぽさとも言えると思います。しかし、この作品は、もう少しリアルに、現実にコミットメントしている気がしました。何処までが映画内リアルでどこからイ・ジョンスの妄想なのか?が判然としない上、小説家を目指している、と言いつつ文章を書いている場面がほとんどないのも、何かを暗喩しているようでもあります。それでも『アンダー・ザ・シルバーレイク』のような突拍子の無さ、荒唐無稽さは、より少ない分、しかし真綿で首を締めるが如くの、現実側に締め出される憔悴感があり、それも現代韓国の若者の失業率の高さという事実を伴なっているので、さらにリアルなように感じました。



主演の3名、小説家志望の本当にさえない感じの男性イ・ジョンス、整形をしたことを公言しつつ何処か浮遊感のある女性ヘミ、まさに現代のギャツビー的なアッパーな生活をする謎の男ベンは、皆とても良かったと思いますし、原作の名シーンのひとつであるグラスを行うシーンからの、メタファーとしての、そしてその言葉の意味としても強いタイトルにもなっている『納屋(ビニールハウス)を焼く』という言葉が生まれるシーンは、自然光の中、暮れゆくオレンジから濃紺へのグラデーションといわゆるマジックアワーをバックにしたヘミのダンスシーン、異常に、恐ろしいくらいに美しく、かかる音楽の、マイルスだと思いますけど、悪魔的に美しく蠱惑的なのに、現実が解けて消えていくかのような恐怖もあって、鳥肌モノでした。このシーンだけでも観る価値があります。


さらに、ヘミと連絡が取れなくなった後、原作と少し異なり、偶然出会うのではなく、ストーキングする事で、よりイ・ジョンスがベンに執着を持つようなニュアンスが追加された、再会シーンは、なかなか迫力もあったと思います。


無言電話のシークエンスは「嘔吐1979」っぽさであり、井戸に落ちるシークエンスは「ノルウェイの森」の冒頭のようでも「ねじまき鳥クロニクル」的でもあり、貯水湖に佇むベンを車の反対側から見るジョンスは、よくあるあちらとこちらの世界の対比「スプートニクの恋人」のようであり、そんなような村上春樹っぽさもたくさん出てきますけれど、スモールハンガーとグレートハンガーや、ストーカー行為に至る部分、グラスのシーンに付け加えられている「私はヘミを愛しています」という告白、さらにヘミに対して「男の前で服を脱ぐ女は娼婦だ」というセリフ、さらにさらに、後半3〜40分の部分については完全にイ・チャンドン監督のオリジナル要素だと言えます。まるで、レイモンド・カーヴァ―のいくつかの短編小説とそれを基に組み上げられた中編小説が存在するかのような、新たな結末を求めて別バージョンが存在するかのような作りになっています。



個人的に、いくつかのシーンが何故差し込まれたのか?不明な部分があります。父の残した鍵束からナイフを見つけるシーン(ああ、何処かでナイフをジョンスが使うのだな、という観客の思い込みを誘う点、しかも野球のバットでは無い)、貯水湖に佇むシーン、実際にビニールハウスが燃えている場面に現れる男の子がジョンスなのかベンなのか判然としない点、唐突に差し込まれる教会のシーン、母親の突然の再会(と言いつつも観客には 本当の 母なのか?回想シーンも写真シーンも無く判断出来ない点)、父の裁判にまで足を運びながらもその後の繋がりが無い事、ヘミ失踪後の部屋での添い寝シーン、この辺りの関連性が、もうひとつ読み込めなかったです。もちろん曖昧模糊にしておくためのシーンなのかも知れませんけれど、細部にまで拘るイ・チャンドン監督作品ですから、もっと意味があると感じました、そこをまだ掬い取る事が出来なかった消化不良感があります。



それでもなお、個人的にこの映画のリアル、ナイフをかなり初期に出している点等、様々に考えあぐねた結果、私はジョンスがベンを刺したのは映画内リアルだと受け取りました。



ベンがヘミの失踪に関わっているのか?については、恐らく、関わっているだろう。関わっているのであれば、それは殺害を含む何らかの行為が行われたと考えるのが自然だと思います。が、映画の中では、その点は完全には判明しません。受け手である観客がいかようにでも解釈出来るような映画になっています。



それでも、確固たる証拠がなくとも、ストーカー行為まで行い、自身は最初は覚えていなかったのにベンからヘミがジョンスに特別な好意を持っていた事を知る事で、記憶までねつ造されてしまったかのように井戸に拘るジョンスにとって、ヘミを奪ったのはベンであり、自分との生活ギャップを見せつけられた事での、そしてヘミを奪ったベンを許す事が出来なかったのだと理解しました。感情的な出口が殺害を経て衣服さえ脱ぎ捨てる事で、まるで生まれ変わったかのような、ジョンスのある意味の再生を描いているのだと感じました。その後に警察によって捕まり司法によって裁かれるとしても。



ベンの、何もかもを手に入れているからこその、何事にも飽きていて、死を遠してしか生を感じられないとすると、五反田くんや綿谷を想像しないわけには行かなかったです。まさにギャッツビー的なキャラクターですね。


ボイルが生きていて、本当に良かったです。
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