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2022年04月29日14:08

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みろくの夜明け前-16 宗教の世界には【数霊】や【言霊】の働きがほとんど説かれていない。宗教は教えが偏っている。その1

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 宗教の世界は神仏という存在を説いてはいますが、本質的に【霊界の説明】が不十分があります。その原因としてはその宗派の開祖には霊能力が有ってもその弟子達にはさほど霊能力が無く、霊界の詳しいことが解らないのにその教えだけを広めた。為にその宗教の世界では我が宗派の教えを信じれば天国界で、自分達が説く教えでは無い異教の信徒達は地獄界に墜ちるです。そこには本当にそうなのかがあります。そこに自分が霊界見聞すると宗教の教えは違っていると霊能者からは言われるなのです。

 霊的世界の実情は宗教家よりも町の拝み屋と呼ばれる霊能者の方が遙かに強いがあります。実践的と言えます。単に宗教の教えを広めるのでは無く、自分が実際に神社や仏閣に鎮まる霊と関わるからです。しかしそれらの霊は低次元界の霊が多く、高次元霊界の存在は霊能力を持った限られた宗教開祖等の手に委ねられたとなります。

 実際に霊的世界に関わると、観音菩薩とか不動明王と呼ばれる霊に出会うが起きて来ます。しかしそうした観音菩薩とか不動明王と呼称しておられる霊から詳しい霊界の実相を聞けたかとなりますと、不思議なことにほとんど語られていないことが解ります。


 私はキリスト教徒ではないし、イエス一人だけが主の一人御子などの説は真っ向から否定します。イエスとお釈迦様を比較した時、イエスの教えはお釈迦様の教えを越えられていないことは一目瞭然です。キリスト教徒は仏教の教えを知るならば、その教えの低さが学べたはずです。私は霊的にはイエスと覚しき霊を幾度も見ましたが、キリスト教の教えでは天国界は難しいと言えます。

 天国界に進む人とはどの宗教宗派でも【世の為、人の為に自分を犠牲にして来た人達】です。その宗派の教えを信じたから天国界では無いのです。ほとんどの宗教は【真理】に基づいていないがあるからです。そこにはその宗派の開祖が【光(火借り)】に騙されるがあるのです。火として燃えているところの光とは、別に【正義とか善】では無いからです。闇は悪で光は善だと言うのは、あまりにも浅はかな思慮を持たない意見だったのです。


 日本でも黒龍神の放つ霊界の火を【光】として、その光を神として見る間違えた教えの宗教宗派はあります。光はどこから放たれているのかの考察力が抜けていたのです。霊界の太陽を見るならば、そうした霊界の光に騙されるはなかったはずなのです。単なるスピリチュアル標榜者だと、【霊界の太陽】という言葉すら知らないとなります。


地獄とは、自分の教えを信じない者達の世界とは違う


地獄の獄は言と獣の組み合わせ。蛇や狐や狸や猫に成る


 世紀の大予言者であった大本教の出口王仁三郎聖師は、その著書に【地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だ!。】と残されていますが、現代ではそれにスピリチュアルと称している人達も含めて地獄界は一杯だとなります。

 神は愛だから何をしても神の愛で赦されます等と教えをしていれば、その人の魂には悔い改めるとか反省するなどの【後悔の念】は湧きません。それでは死後の行く先は必然的に【地獄界】となってしまうのです。イエス一人を主の神の御子と信じればとか、南無妙法蓮華経とお題目を唱えていれば自分の罪が消えるでは無いからです。


人がこの世で犯した罪は輪廻転生の【カルマ】で支払う


仏教以外、人の死後に残るカルマや輪廻が出ていない


 為に下手に神霊等と呼ばれている存在を信じ、その存在に対する信仰に一生懸命になっていても地獄界に案内されるのであれば【無信仰】の方が良いとなります。既存の神仏を信仰していなくても、創造神の眼鏡に適う人達は多数あるからです。

 日本のスピリチュアルの世界では幾つかの神社をまるでメッカの様に持ち上げていますが、その神社の多くは今日では黒蛇霊の集まる場所となっています。ある自分には霊感が無いと言う神主がその手の神社に勤めたが、巫女を初めとして宮司まで蛇霊化していると感じてその神社を辞めた等の話もあります。霊的に見えなくても蛇霊に占有されていると感じられるなのです。

 いくらスピリチュアルで心霊パワースポットのメッカだと説いていても、霊媒体質者がそうした場所に行くと【吐く】があります。また即座に下痢を起こすがあります。霊媒体質者は霊界の汚れに敏感なので、その土地が汚れていると簡単に解るがあります。逆に言うと、霊的汚れを取るには蛇霊を浄化する必要があるのなのです。そこに【邪の道は蛇】の諺もあります。


既に大地は【穢土】化しており、元に戻すことは不可能


 そこには【よくぞ。ここまで大地を霊的に汚したものだ!。】があります。今日迄の宗教は霊的に大地を汚す事柄の概念を持っていませんでした。霊的な汚れを浄化することが宗教界の勤めとしての教えそのものが存在しないのです。どの宗教宗派も自己の宗派の勢力制覇ばかりに目を向けていたからです。

 そうした霊的な大地の汚れ、社会の汚れの浄化に取り組んでおられる一部の神主や僧侶。霊能力者は存在しておられますが、数が少なくて焼け石に水なのです。一部の者達が霊的な汚れを理解して浄化に取り組んでいても、スピリチュアルという化け物集団が社会を汚す方向に働いているからです。スピリチュアルによって多くの神社が霊的に汚染されて行ったのです。


 私の霊界修業においては、蛇霊が持つ霊的な汚れ。それを浄化して行くがありました。その蛇霊の浄化の過程に【下痢】があるのです。優秀な霊能者の元に相談に行くと、相談者はその霊能者の家でバケツ半分ほどの汚物を出すがあります。

 それだけの量の汚物が自分の体内のどこにあるのかとなりますが、自分の体内にある霊的汚物では無く、自分に懸かっている蛇霊等が霊界から送り込んでくる汚れた物質が、その相談者の肉体を通じて【便】として外に出て来るなのです。為にその相談者は考えられないほどの大量の便を出すなのです。

 それらの事柄はそうした霊的浄化が出来る霊能者の元で体験したことが無い人には理解すら及ばないでしょう。


そこに人の魂の更生は【便】が作用し、魂が甦るも起きる


汚れた霊はその苦しさから逃げる為に、人に憑霊する


 そうしたことが簡単に解るのが漢字を駆使した日本語なのですが、いくらそれを説いても理解出来ない人が大多数なのです。日本神道では人の腹のハラが【高天ヶ原】で、人の腸は龍神(巨大な大蛇霊)等も浄霊する力があるとしますが、そうしたことを知らない人が圧倒的に大多数なのです。腸での浄化なので【下痢】が起きるのです。


人の肉体の腸は、龍神と呼ばれる存在すら浄霊出来る


 こうしたことは優れた行者筋の霊能者は知ります。しかし宗教化された組織の教師はそうしたことを知らないとなります。霊的世界に関わると霊の浄化で【下痢】をするは霊媒体質者にとっては日常茶飯事のことなのです。


 お釈迦様は目連尊者を除いてその弟子達に霊性開発を禁止されたと言われていますが、なまじ霊的な世界が見えるとその世界に騙されて落とされるとかが起きてしまうのです。

 単に霊が見えるスピリチュアルでは無く、霊的世界を理解する最低ラインとして【霊界の太陽】を見ることが最低条件とも言われています。その【霊界の太陽】を見るとは、霊的な光を見るという段階ではないのです。スピリチュアルが語る【光の柱】等は、非常に低い段階の光の世界と言えます。そうした霊光では無く、本人の魂が神界に入ればはっきりと霊界の太陽が出て来ます。

 それは【自分を神と信じたら見せて上げる】という類いの光では無いのです。本人が自力で神界の高山に登ることで見ることが出来る霊界の太陽と言えます。伊勢神宮に行って天照大御神様と言っていれば見られる太陽ではないのです。そうした神霊が見せる光の段階では無いなのです。そこまで行くと、神と呼ばれる存在の事が少しは解って来ます。

 その【霊界の太陽】すら上回る光の世界が【天の岩戸に隠された光】と呼ばれているのであって、未だ人類はその【光】に出会ってはいないのです。


悪神邪神とされる存在でも、六次元界位の霊もある


いずれそうした神霊達と神界最終戦争は避けられない


 単に神は光だ!。その程度で行くと低い次元界の神霊の光で、それが高級霊だと見誤るが起きます。多くの自称救世主達を見ますと、六次元界位の邪神の光に踊らされているが知られているのです。自分に少しばかり霊能力が有り、自分を信じる教祖様を見たら光輝いていたので本物だと思ったがありますが、その教祖を優れた霊能力者が判断したら六次元界位の黒龍神だったりします。その教祖は黒龍神の魂を持っていて、この世に人として出た存在等です。

 そこに龍男とか龍女と呼ばれる存在を知る必要があったのですが、ほとんどの宗教はその存在が説けていないのです。


 以前は汚れていなかった某神社は霊能者江原啓之さんが著本で心霊パワースポットとして紹介したことでスピリチュアル女子達が押しかけて、その神社に汚れた蛇霊達を置いて行くので、その神社そのものが汚れで黒く漂った靄で覆われてしまうなどが起きてしまったがあります。そこに鎮座する神霊にそれを排除出来るだけの神霊パワーが無いことも原因とは言えます。

 その神社の神主が当方は誰々様をお祭りしていますと言ったところで、その神社にどれほどの御神霊が鎮座しているかどうかは、優秀な霊能力者が確かめないと解らないことなのです。スピリチュアルの場合は調べるでなくて、ほとんど鵜呑みと言えます。


 最近もあるスピリチュアルの人がその手の神社を紹介していましたが、その神社が黒蛇霊だらけになっていることがまったく解っていないがあります。

 と言うよりも、スピリチュアル標榜が自己の魂を【蛇霊化】の道に行かせているなのです。聖書には人類の祖と仮定するアダムとイブが蛇霊の唆しでエデンの園を追放されたと記してあるのですが、イエスをして蛇の意味をまったく理解していなかったがあります。それはイエスはその弟子達に蛇の様に賢くあれと説いていたからです。蛇霊を神として敬うか、対峙するかで方向性は大きく違って来ます。

 蛇の知恵を理解出来ない段階では、覚者としての道は遠いとなります。その蛇の【知恵】にやられてしまうからです。


霊世界の汚れの黒龍神や黒蛇霊は邪神で地獄界の存在


 いくら霊界で霊力があって、神霊として神社に鎮座しているであっても、その姿が汚れから来る黒色の龍神とか蛇霊であれば汚れた【霊波動】を放っており、そんな存在をいくら高い神霊と拝んでいても天国界には進めないとなります。

 一度蛇霊界に入ってしまうと、いくら【悔い改める】を説いても、悔い改めるなどは厭だ!。その時には暴れに暴れて死んでやる等と言います。悔い改める素晴らしさが黒蛇霊には理解出来ないのです。それが蛇霊が持つ知恵の限界と言えます。


そもそも天国界とは、誰かを拝めば行ける世界では無い


 聖書に人類の原罪として、人類の祖と仮定するアダムとイブに囁いた蛇霊。そうしたことが書かれていたとしても、それを理解する者はほぼいなかったとなります。キリスト教においてはその人類の原罪はイエス一人を神の御子と信じれば赦される物という誤った教義に陥ってしまったからです。

 大本教からそのナザレのイエスに何一つ劣らない霊的世界の怪物出口王仁三郎聖師が出て来られたことにより、いろんなことが明らかになったがあります。そうでなかったならば未だ人類はイエス一人が主の御子だという誤った盲目の教えの中に置かれたとなります。

 イエスには【四十】日間荒野をさ迷い。悪魔を退けて、【四十一】日目に主の一人御子に成られたという神界の型を演じてはいますが、それは四十日間で無く四十年間の必要があったなのです。しかしそれは大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(立てと横)】を解き明かさない限り、誰もイエスの型演技は解らなかったことではあるのです。

 私は大本教の出口王仁三郎聖師らしき霊から、【「ア」の門を出て、四十一で「ラ」に行く道】を暗示され、【四十一】に秘められた【一輪の言霊の秘密】の意味を知ることが出来ました。それは創造神の【一人御子】たる魂のことです。


 大本教から【人は霊(ひ)止(と)である】と、宗教世界からする革命的な教えが出されました。


 この人は霊止(ひと)であるは、当然に日本語で無いと端的に解き明かすことが出来ません。言葉の重なりで意味が解けるのは日本語の特性だからてす。キリスト教の様にイエス一人が主の神の御子などの馬鹿げた論理や、イスラム教の様にアラーの神は偉大なりと讃えていれば済む話ではないからです。

 大本教の出口王仁三郎聖師は【ミカエル】等と呼ぶ天使長など存在していないと述べておられますが、私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、旧約聖書は我が書ではあるなれども暗号化された書で、それを紐解く鍵を持たないと意味が解らないように創ってあると告げられました。


そのミカエルの言葉こそ、暗号を解く鍵(キー)でした


 モーゼ外伝では最後の審判で蛇の尾を踏む者を【ミカエル】としてあると聞きますが、そこには【巳(蛇)を帰らせる】意味があるわけです、しかし誰もミカエルとは日本語で無いと意味が解けない仕組み等とは予想もしていなかったとなります。それは創造神と思われる神は人類の上には見えずとも、仕組み(493)に仕組んであるからです。

 私は旧約聖書の神と称する神がこれほど蛇霊を憎んでおられる理由はわかりませんでしたが、大本教霊界物語に触れた時、国常立尊様を追放に追いやった存在が蛇霊に憑依された大多数の神達であったことが理解出来たと言えます。


仕組み(493)は身(3)に死(4)と苦(9)の与え


 お釈迦様の教えにこの世は【苦(9)界】がありますが、人の魂は不滅的な命に関わらず、肉体たる身(3)には死(4)が襲って来るがあります。死は苦(9)は起こさせるです。日本語は数霊の働きを駆使させてあるのです。

 本来の神と呼ばれる存在は自分に御利益を与える存在では無く、仏教で人には四苦(49)の36。八苦(89)の72。四苦36+八苦72=【108】の煩悩が説かれて来たよう、そこには数霊の働きが秘められていたのです。


輪廻転生は神の493であり、神は394(策士)


493も4*9*3で【108】の意味を告げる


 私は神霊世界に修業に入って驚いたのは、どこにも創造神と呼ばれる神の姿が見当たらないのに、至る所に【神の仕組み】が仕掛けられているなのです。それはスイッチが入れば全て作動して来るなのです。その仕掛けの前にはイエス一人を主の御子と信じていればとかアラーの神と讃えていればなどの論は吹っ飛んでしまうなのです。

 当時の私は子供であり、キリスト教徒の家系でも無い私にどうして旧約聖書の神と称する声が臨むのか意味が解りませんでしたが、日本神道の世界に飛び込んで、その旧約聖書の神と称していた声の存在は幾多の霊能者によって日本では【艮金神・国常立尊】とされている神霊であると解って来ました。

 そのウシトラ(艮・牛虎)の言葉に驚くことが秘められていたなのです。


 ただその声の主は私に対しては、【私はそなたに対してはこの神の力を何一つ与えない。そなたにこの神の力を与えるのは最後の最後の時である。】と告げられたことにより、何の力も持たない者がいくら神の世界のことを説いても人々が理解することも無いと解ってはいますが、私に臨んで来た旧約聖書の神と称する声は何か目的があって、そうしたことをされているのだと思っています。

 私の神霊世界修行のお世話になった豊受姫は、【貴方の言葉による教えを聞けない神々は、全て天帝に対する反逆罪で裁かれる。】と告げられましたが、日本語と言う事柄であれどもこれだけ仕組んであることがまったく理解出来ない神々であれば、高次元世界に進めるだけの【知覚智証】が無いともなります。


 大本教から出された【人は霊止(ひと)である。】は、宗教でそれを教えても理解に至ることは無いでしょう。これは【完全霊媒型】の存在を知った上でないと、まず理解に到るは難しいと言えます。何故ならばスピリチュアル標榜者は掃いて捨てるほど居ても、完全霊媒型者は世に滅多に居ないからです。それは霊憑依と呼ばれる物とはまったく別の次元なのです。スピリチュアルに走る限り、四次元霊界から上級霊界に進むのは難しいのです。


完全霊媒者に入った霊は、その霊の顔立ちになる


 そもそも霊が見えるとか、霊の想いを語る【イタコ的】存在と関わっているでは、人は霊止(ひと)であるはまず理解は出来ないのです。イエスの弟子にその完全型霊媒が出来るだけの存在が居なかったとすれば、イエスは教えを間違えてもおかしくなかったのです。人は霊止(ひと)であることを理解していないと、如何なる神仏の教えも間違ったことを説くことになります。

 そうなりますと、イエスの様に自分を見て創造神を見よなどとあまりにも思い上がった発言をすることになります。完全霊媒型者を知るならば、神はそうした人を使って【神の言葉を卸せる】が解って来るからです。その為には何もイエスの様な存在を必要とはしないなのです。ただ大多数の人は【奇跡的】な物を見ないと神を信じないなのです。 


 私は神霊世界に修行に入る迄は、人に霊が懸かるのはよく知られるイタコ的存在者がトランス状態になって霊の言葉を告げるのかと思っておりましたが、そうしたイタコ的存在の霊懸かりとは非常に低い次元界の霊懸かりと解りました。優秀な完全型霊媒者は瞬時にその肉体に霊を宿らせ、その霊の言葉を瞬時に語ることが出来るなのです。そうしますとその完全型霊媒者の人相は入身した霊の顔立ちになるなのです。

 完全霊媒型者はその肉体に降りた霊の顔立ちになることから、その存在が観音様と呼ばれる様な存在であったり、鬼の様な存在であったり、蛇霊の様な存在であるなども見えて来ます。狐霊なども簡単に解るのです。だがそうした完全型霊媒者を見つけることは簡単ではないのです。その本人自身に辛い修業があり、その修業を【忌避】することから育たないのです。


完全霊媒素質者は、修業の辛さからその使命を忌避する


 イエス信奉者はイエスが磔になったことから彼一人が人類の罪を背負った救済者たる神の御子等と大錯覚に入りましたが、霊的世界における修業はそうした磔になって若死にすることの方が遙かに楽があります。イエスの様な存在が出て来たら全人類は助かる等と言っている人は、霊的世界の実情を何も知らないひよこの様な存在の人なのです。霊的世界は【斬った張った】のヤクザ(893)家業の中を生きなければならないのです。

 もしその魂が霊界の高い世界から降り立った魂だと知られると、その魂が大成する迄にその魂を持った肉体は邪神達に狙われて潰されます。よほどの強い使命感に支えられた様な肉体の魂で無いと、この世の霊界の中では生きられません。

 逆に肉体がなまじ長生きとなると何十年物の過酷な修業を積まされるがあるからです。そこに神の世界に入る使命を受けてこの世に降り立ちながら、その修業の辛さから自分に与えられた使命たる心の働きから逃げる【忌避】が起きて来ます。そうした神の世界から受けた使命を捨て去ると、死後に自分が天から罰せられるもあるのです。


 そこにスピリチュアル標榜だけでいると、


 大本教から出された【人は霊止(ひと)である。】の理解の意味をなさないのです。


そして何故に霊魂は肉体という存在を必要とするのか?


霊魂は肉(人の内)で無いと、霊的汚れを落とせない


 宗教的な神仏論では無く霊的世界を語る時、【数霊】と呼ばれる存在が語られます。俗に言う【0〜9】までの数値を持っての組み立です。9迄行くと、18も27も36も全て元の基数たる【9】に戻ることは法則として知られます。つまり9迄行くと、また元の基数に戻される【輪廻】です。で、どうすれば【9】の段位を突破出来るかです。


0、1、2、3、4、5、6、7、8、9、次は【0】か


霊、一、二、三、四、五、六、七、八、九、次は【十】か


 私は自分が霊媒体質者であったことから、この世はそうした【数霊】に支配されているを知りました。


日本で使われる言葉は、言霊と数霊で支配される


十(テン)には天(テン)の意味が秘められている


 そうした数霊の働きから出て来るのが生年月日で、その人の運命を見る四柱推命(西洋では占星術)とか漢字の字画で姓名判断とか数霊で運命を語るなのです。


この世における運命や働きは【数霊】が作用する


 神と呼ばれる存在を知るのに、神社仏閣に鎮まる霊。偶像に宿る霊。そうした存在は神霊などと呼ばれていますが、この宇宙を創造したような神では無いなのです。次元界と呼ばれる世界からすると、この世に鎮座される御神霊は低い次元界となります。人であった存在が神として祭られるは、神の世界の一画でしかないのです。


 世界の宗教を見た時、キリスト教でもイスラム教でも創造神は語られていますがその存在は見られません。ミカエルとかカブリエルと自称している霊達は見受けられますが、とてもとても大天使とされる様な霊達ではあり得ないなのです。

 仏教は創造神に関しては説明はしていません。人にはその分魂というべき【神性(仏性)】が宿っていることを明らかにしたと言えます。その分魂は霊界の次元界において存在する場所が違っていると解って来ます。


創造神は存在しないのではなく、その姿を退かせている


 私は宗教の世界では説かない【数霊】とか【言霊】の存在を知って、間違いなく創造神は存在しておられる確信に入ったと言えます。仏教を学んでも聖書を読んでも【数霊】とか【言霊】など書かれていません。日本でもそうしたことが言われるようになったのは大本教の存在からでしょう。

 しかし大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(火水)】を知ろうとすれば、そこには【数霊】と【言霊】の存在を認識しないと、朝鮮半島に残されていた予言。最後の審判前、救世の為に【米一字】の型教えが起きる。それを出すことなど、誰をもってしても不可能だったとは言えるのです。

 自分が信仰した宗教に対する想いで私の論に反論されることは自由ですが、現実にその型が出ていることを自分の感情論で否定すると道を違えることになります。私のことがいくら気に入らずとも、バカにするは構わないのですが、どうしてこんな【型】が示されているのかを理解しないと後で大火傷を負いかねないのです。


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