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2022年03月31日18:53

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みろくの夜明け前-12 人は何故に生まれ出るのか?。何故に死ぬのか?。

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 仏教を開かれたお釈迦様は、【人は何故に生まれ出るのか?。人は何故に死ぬのか?。】に疑問を待たれて、【前人未踏】と言うべき荒行を積まれました。その荒行では【悟り】は開けず、菩提樹の下の【瞑想】で悟りを開かれたとされています。その悟りとは一般的には【仏の慈愛】と言われて来ました。

 仏の慈愛?。俗に神の顔は一度だが仏の顔は三度迄と言われます。日本において神霊が神の姿として化現する場合と仏として化現される場合では赦しの度数は違うことは確かと言えます。それは誰であっても自分が神の立場として出る場合と仏として出る場合では、赦せる事柄と赦せない事柄が有るからです。

 特に神霊としての場合は【神の面子】と呼ばれる事柄が動いています。自分が公人として働く場合、それは公人の立場だと赦せぬが起きます。しかし私人としての立場ならば、大目に見ておこうかです。


 大本教神諭に【仏質の世は終わった。】とあります。そこに神が仏の【和光同塵】が説かれました。神が仏として世に出ていたが、元の神に戻るです。この大本教神諭の仏質の世は終わったは三次元物質界の【質】と【七の世の終わり】が言葉の仕組みとして掛け合わせてあります。


神も仏の立場だと【私情】を働かせることが出来た


 国常立尊様には仏教で説かれる【閻魔大王】様としての顔があり。罪を犯した魂を無条件で赦すではなく、その罪の償わさせるがあります。大本教霊界物語などは国常立尊様は閻魔大王と明記していますが、キリスト教の教義では冥府の長官(閻魔大王)は悪魔(サタン)扱いにしています。確かに閻魔大王とは【魔王】とされます。魔王だけでは悪魔的な見方も起きます。


冥府の長官・閻魔大王は、魔王でも悪魔(サタン)か?


 大本教神諭にはウシトラ金神・国常立尊は世に【悪神】とされて来たとありますが、鬼門の金神として節分の煎り豆で【鬼は外】と打たれたり、キリスト教ではサタン(悪魔)扱いで悪神にされて来たはあります。

 それは一重に人類は【輪廻転生】が何故に起きるのか?。その理解力不足が根底にあったと言えます。私が子供の頃に臨んでいた声は旧約聖書の神と称していましたが、旧約聖書には【輪廻転生】などは書かれていません。が、私に臨んだ霊声は旧約聖書の神と称して私に【輪廻転生】を告げて来ました。そして【人が自分の前世を記憶していないのは、この私(神)の「恩寵」である。】とまで告げられたなのです。


 国常立尊様が【閻魔大王】としてのみ働かれる場合は、今日までの様に【輪廻転生】が働いて来ます。しかし、創造神としての立場に復帰であれば、もう輪廻転生は終わります。輪廻転生の必要が無くなるのです。


閻魔大王が創造神の座に復帰する時、最後の審判となる


個々のカルマの精算度合いで、霊界の次元が固定される


 例えば今の私は神霊世界では無任所の立場にあります。私は子供の頃に旧約聖書の神と称する声から、【この国(日本)は私の教えが満ち溢れた世界で唯一つの国である。私はそなたにはこの日本に満ち溢れている仕組みを見せるので、それを人々に伝えなさい。】と命じられました。

 それに付随して、【そなたが歩く道はこれまでの人類の誰一人として歩いたことが無い道で、そなたが初めての者となり。そなたの後にそなたと同様の教えを説く者は出ない。そなたが最後の終わりの者となる。】と告げられました。確かにこの日本に満ち溢れている言葉の仕組みを解読して、創造神と思われる神の存在を説くなど、お釈迦様でもイエスでもモーゼでも歩かなかった道です。

 だがこの日本に満ち溢れている言葉の仕組みで知る神の教えとは、それを一生懸命に説いても一銭の得にもなりません。巷には自称創造神や救世主と名乗る人は数知れず出ておられますが、そこにあるのは【奇跡の示し】であって、誰も日本の言葉に神の教えが仕組んであるなど気付くことも無い事柄だからです。


大本教の神三千年の仕組みとは、日本語による仕組み


 私は旧約聖書の神と名乗る声から、【そなた一人には神の仕組みは見せても、この神の力は何一つ与えない。】と告げられて来ましたので、何の力も示さないことからぼろくそに言われても意には介していません。私がこの世での命を終えて霊界に帰った後、日本の神社の祭神として赴任するなどがあると、それは霊界において役所に勤める公務員的立場に当たります。また霊界に帰った後、創造神に仕える天使職にもなればそれは大臣になったようなものです。いくら私をボロくそに言われても、今の私は無任所ですから構わないなのです。

 しかし正式に責任者とされる職種に就いた時には、罵詈雑言を浴びせた者に対してはそれを赦さないが起きます。神界の規則たる原理原則に照らすと、非情に徹しなければなりません。神界の規則の前では我が子ですら切らねばならず。地獄に墜とさなければならないのです。


 この世の権力者は、自分の子の悪事を親の立場を利用してもみ消すは日常茶飯事ですが、高次元世界の住人たる神霊達にはそうした存在は居ないのです。自分の分魂であろうと、罪を犯せば下の世界に行かせるです。そこに自分の魂の総親たる本守護神。親たる正守護神に帰結する論理を説く日本神道の世界は正しいと言えます。

 今の私は無任所の立場ですから神剣を振るいませんが、正式に責任を持つ立場になったならば神剣も抜かざる得なくなります。神は慈愛だから何をしても赦す存在ではなく、平気で斬る世界である認識は要ります。そこに来るのが素戔嗚尊(武塔神)の巨旦将来の皆殺しと、蘇民将来(将来に蘇る民達)の神話が創ってあると言えます。

 大本教の出口王仁三郎聖師は自分は素戔嗚尊の魂と称されましたが、大本教霊界物語に【鏖殺(おうさつ)】が予告されています。この鏖殺とは【皆殺し】の意味です。素戔嗚尊の巨旦将来と蘇民将来の話につなげてあると言えます。巨旦に秘められた意味は【魂胆の持ち主】です。


神の顔に泥を塗るのと、仏の顔に泥を塗るのは違う


神は【公】。仏は【私】。公の侮辱は赦しが難しい


 日本書紀における【国常立尊】様は宇宙開闢時の初発神と書かれていますが、この日本ではほとんど祭られていない埋没神(引退状態)と言えます。大本教から引退しているを示す【艮(ウシトラ)金神・国常立尊】として世に出られたことから、新日本神道の名の下に再認識に入ったなのです。ただ仏教の世界においては【閻魔大王】として留まっておられるです。

 私は曹洞宗の門徒ですが、その曹洞宗の機関誌たる小冊にお釈迦様の菩提樹の下での瞑想による悟りは【悪魔は実体を持たない現れであり、人には良心と呼ばれる神が内在しているでした】。

 それは私は曹洞宗の門徒として知り得たのですが、親鸞聖人の浄土真宗でも同様のことは出されているとされています。


 曹洞宗からその小冊が出された時、私は既に稲荷神界に修業に入っており、豊受姫の御代であった最初の師匠の導きで神界修業を積んでいました。その豊受姫の御代であった師匠は、私に【自分は神様は蛇や狐だと思っています。】と言っておりましたが、確かに世に出ておられる神々の姿は蛇や狐や狸や猫や天狗で片付けることは出来ます。どの御神霊も人の姿ではあるのですが、そうした類いの姿でも見えるなのです。


霊能者が見る神々は人形でも、蛇や狐の類いにも見える


 常の人よりは遙かに高い霊能力を持つ自称創造神や自称救世主を100人集めれば、100人が100人とも自分以外の者は【蛇や狐の神に騙されている。自分だけが本物だ!。】合戦になります。それは現実論として蛇霊か狐霊のどちらかの大勢力を背景にしないと、霊的世界での【覇権】につながらないなのです。

 この日本では西洋と違い万物の創造神が語られず。蛇や狐の神が語られているのは事実です。


西洋人に創造神は見えて、この日本に創造神は居ない?


聖書は、蛇の唆しで神の御国を追放された人類を告げた


 この地球上に居る人類とは蛇霊の唆しの言葉に乗ってしまって神の御国(エデンの園)から追放されたのであり、蛇霊の囁きを聞かない人であれば神の御国に戻れることになります。それはイエス一人を主の御子と信じることではないのです。

 私は霊界修業の中で蛇霊達に【言向け】をして来ました。それは蛇の姿からの脱却です。蛇霊とは、怨念、執念、嫉妬、執着、偏見、未練。金銭や地位に対する過度の欲望。異性に対する過度の色情。そうした【人の心の在り方】が、その人の姿を死後の世界で蛇の姿で出て来るなのです。安珍清姫の清姫の如くです。

 為に多くの宗教の御祭神として鎮座君臨されている御神霊の姿を見ますと、やはり蛇霊の姿が多いとなります。


千手観音さんかと見ていると、その千の手は千匹の蛇


 日本におれる観音菩薩とされる菩薩達の姿も、人を助けたい人を助けたいが過度に走ると、その身を蛇霊化させる。


 私は蛇霊から【人を助けようとしてどこが悪い。】の反論を受けましたが、そうした反論は当然だと言います。人を助けることのどこが悪い!。その理由を語るのが旧約聖書なのです。


自分が蒔いた悪の種の果実は自分で刈り取りなさい


仏教で説く【カルマの原理】は絶対で、誰も逃れない


 私は子供の頃、旧約聖書の神と称する声から【自分がその人を助けたいと思うのであれば、その人が持つ罪の償いを自分が代わって被らないといけない。】と告げられました。


人が持つ罪分は、その罪の代替えをしないと消せない


自分の過去世の罪は、今生の肉体が代替えで消す


 人がこの世に生まれ出て来るのは、自分が過去に【この世】と呼ばれる世界に出て【罪を犯した】ことによる【カルマの解消】の為に生まれ出るなのです。

 お釈迦様の様にこの世で自分の魂のカルマを消すことが出来たならば、【自分は二度とこの世に出て来ない。】と宣言することが可能です。


魂がこの世に降りない卆業点は【九十(卆)】点


 スピリチュアル標榜者は別として、有能な霊能力者はこの世は魂の刑務所。大本教の出口王仁三郎聖師はこの世は【天人の苗床】と告げられましたが、人はこの世の【修業】しだいで、一気に高次元霊世界に進めます。しかしそれはこの世は遊ぶところだと遊んでいたならば、高次元霊世界には進めないなのです。  


 霊界は第一、第二、第三天国界。中有界。第一、第二、第三地獄界の七階層あることが知られています。これは今の世は日本では神代七代。聖書では創造神は六日でこの世を創られて、七日目を安息日とされたの【七の世】。仏教でも死後の世界に渡るのに7×7等が説かれるわけです。

 その【七の世】は物質の【七(質)】の世とされ、【三次元世界】を成り立たせる元となったなのです。その七の世を終えて、永遠を意味する【八の世】に向かう。ただ【八の世は、蜂(8)の巣別れ】を興させるなのです。


ダルマ(真理)の七転八起で、七の世を終えて八の世


為に、七の世迄の過去のカルマの大精算は各自の使命


 この世は三次元(物質)世界ですが、高次元界に進む為に魂の汚れを取る。浄化出来る役割が各自の肉体にはあります。


人がこの世に出るのは魂の汚れ(カルマ)を浄化する


魂の浄化(カルマ解消)すれば、魂は高次元界に行く


 私が書いているような内容は、当然にイエスの教えにも無く、マホメットの教えにもありません。仏教には【悪魔は実体を持たない現れであり。人には良心と呼ばれる神が内在している。】の教えはあったのですが、今日までほぼ埋没している状態だったと言えます。いくらお釈迦様個人は【人に内在する良心神】が解っても、他の如来や菩薩として出て来た方達はそれが解らなかったがあります。よくそれで【カルマと縁起】の関係が理解出来たとなります。

 大本教から【言霊】と呼ばれる存在が説かれ、【みろく大神】が世に出されました。大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(火水)】を紐解くと、そこに五六億七千万の仕組みと一輪の言霊から釈迦様の本当の悟りが出て来るようになっていました。それだけではなく【ダルマの七転び八起の仕組み】まで仕組んであるなのです。


 ただこれは大本教が予言して来た様に【三千世界。一度に開く梅の花】で、徐々に来るのではありません。それが来た時には【瞬時】で終わってしまいます。為にその時に【来た時には、悔い改める時間が無い。】なのです。宣伝ばかりで、何時になったら来るのか解らない仕組みじゃないかと言えばその通りでしょう。

 大切なことは、例えそれがこの日本に満ち溢れている言葉であっても、その日本の言葉を持って仕組みに仕組んだ神が存在しているなのです。それが大本教における【国祖大神・国常立尊】です。日本の国祖神として、日本語で組み立ててあるなのです。為に旧約聖書の神と称されていても【ヘブライ語】ではしてないのです。いくらコンピューターの時代であっても、そのコンピューターでこんな仕組みが出来るとは思えません。大本教から【神三千年の仕組み】と出されたように、世界の宗教が説く神とは違っているのです。
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