mixiユーザー(id:43480829)

2022年03月24日18:38

1683 view

みろくの夜明け前-11 世界の宗教が語らない【天の岩戸開け】。そんな事柄が本当にあるのか?

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=747

 私は子供の頃、旧約聖書の神と称する霊声が臨んでいました。無論それは本物か偽物かは解らない話です。そう名乗る霊声が聞こえて来るです。霊能力が有る人は常に霊の声を聞いたりします。しかしその声の主が本当にその名乗りの存在なのかは、別の話なのです。この世に現れる霊には愉快犯と呼ばれる贋物が多いのも事実と言えます。それを理解するには、【霊界マッチポンプ】の存在に対する理解力を必要とします。

 その声は、【日本神話の天の岩戸開け等の事実はどこにも存在していない。日本神話の天の岩戸開けの部分は、この私がこの世を終えるにあたって仕組んだ神話である。そなたは私が何故にそのような神話をこの日本のみに残したのか?。その意味を学び紐解くがよい。】と告げられました。


 私が小学校に入学した時、母方の祖母がその祝いとして当時の学研社の百科事典全集を私に贈ってくれました。それを小学校一年生の終わり頃には全て読破を終えていましたので、そうした日本神話の話も子供ながらにも受け取ることが出来ました。

 ただ、旧約聖書の神とは西洋の神で有り。この日本の神ではありません。この日本の神でも無い存在が、どうして日本神話。それも【天の岩戸開け】に関して言及するのか?。それは子供ながらに不思議と思っていました。私は仏教徒ですが仏教にそんな天の岩戸開けの話はありません。またその声は旧約聖書の神と称していますが、聖書には【天の岩戸】など何も述べられていないのです。


聖書の最後の火の審判とは、天の岩戸で火の審判?


 私は神霊世界に修行に入り、私の前に大本教の出口なお開祖と出口王仁三郎聖師と覚しき二体の霊が現れて、【大本教はまな板の上の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕次第。】と言われたことから、大本教神典をどう料理するかとなりました。そこで読み始めたのが大本教神諭に霊界物語です。

 それはある意味、世界の宗教からするとあり得ないことが書かれた書と言えました。私が住んだ土地に関連して出て来た霊は私に35万年前と告げて来ましたが、それは世界の宗教書ではあり得ない超古代の出来事を告げるであり、そこに出て来たのは【35万年前】という話は大本教神典にしかありません。今の人類は遺伝子的には約20万年前とされていますので、それより遙かに昔の話です。

 ただそれに関して私は幾人かの霊能力者からも、貴方が住む土地は現代の人類が知らない超太古の神代時代の出来事に関わる土地の話になると告げられたなのです。今の人類以前の超太古の出来事など、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも出て来ない時代の話となります。


 その内容は今の様な人類の上に起きた出来事なのか?。それとも大本教から霊界物語として出された様に、今の様な人類が出て来る以前の霊的世界、【神代】と呼ばれる時代の世界を語っているのか?。なのです。

 実際に霊的世界に関わりますと、【神代七代】とも言われている事物に関わることになります。日本神道では神代七代。聖書だと世界は七日間で創られたの【七の世】です。人の命の本質は【魂】であり、この世に肉体を持って現れている自分とは、瞬時の【かりそめ】の様な存在だと解るわけです。魂にとっての世界とは、この世を終えた後の【死後の世界】に有るなのです。


 その大本教神典には、


天の岩戸を開ける役に閉める役。閉める役が難しい


 とあります。天の岩戸と呼ばれる存在は有ると告げたなのです。


 私は旧約聖書の神と称する声から、日本神話の天の岩戸開け等の事実はどこにもない。全てはこの私が最後の審判を予告する為の物と聞かされました。また私の霊界修業のお世話になった豊受姫からも、日本神話の天の岩戸開け等の事実はどこにも存在していないと聞かされました。

 もし日本神話で語られる天の岩戸開け。天の岩戸閉めと呼ばれる事柄が過去に事実としてあったならば、仏教にもキリスト教にもイスラム教にもその【片鱗】がどこかに書いてあってもよさそうな話です。だが、世界の宗教書を見てもそんな話は何も無いのです。だとすれば、日本神話の【天の岩戸開け】は何を語るのか?。です。


霊能者の間では、天の岩戸開けは予言とされている


 天の岩戸開けとは、これから起きる。未来に起きる予言と理解されているです。それと大本教から正神界も邪神界も百八十段あると出されました。その百八十を日月神示の岡本天明師は【一(い)八(は)十(と)】開けと出されたがあります。確かに一八十(百八十)で【いはと/いわと】と読めるのが日本語です。また、【ヨハネ】もイロハとかヒフミの【四八音】につながります。大本教から【いろは】歌が、岡本天明師からは【ひふみ】歌が出ました。


日本語は数字を言葉に置き換えるが出来る不思議


 この数字を【言葉】に置き換えるは、日本特有の事柄になります。西洋では数字は数字の意味しか持たず、根本的に【数霊】の存在が説かれていません。


 この日本には天の岩戸神社と呼ばれている場所が幾つもあります。下記の写真は私がよく訪れる京都府天田郡大江町(現在は福知山市)の元伊勢神宮の天の岩戸神社の写真です。

 この天の岩戸神社は、大本教でここの天の岩戸神社のお釜の水を出雲大社に運ぶ神業が行われたことからも解る様に、一級の【パワースポット】です。私もこの天の岩戸神社では不思議な霊的体験を幾つも積んでいます。私は日本各地の霊場を巡って来ましたが、この神社は霊的には日本有数の霊場とは言えます。


 昔の高僧・名僧の諸国行脚を見ますと、そうした神霊パワースポットから別の神霊パワースポットに霊脈を結ぶ(結界張り)をされていることが解ります。スピリチュアルと違って、定まった霊的作法をなされているなのです。そうした霊的作法によって、今日までこの世が平穏に守られたがあります。


昔の優れた行者の結界張りも、効能が消えつつある


 昔の高僧や行者がしたのは霊界を落ち着かせてこの世を守る。現代のスピリチュアルズムとは違った意味合いだったと言えます。現代のスピリチュアルは逆にそうした霊場を汚しているなのです。霊場を清めていないなのです。それは宗教施設にも言えます。今や宗教施設も霊界の清めには役だっていないなのです。


写真は福知山市大江町 天の岩戸神社

フォト

 さりとて、こうした天の岩戸神社にお参りしたならば【天の岩戸が開く】と言う話でもないのです。こうした天の岩戸神社と呼ばれるところは日本に幾つかあり、私は宮崎の高千穂に3度参拝。パワースポットと言えばパワースポットですが、特別の場所でもありません。伊勢神宮から伊雑宮に走る伊勢街道の途中にも天の岩戸(恵利原の水穴)が存在しますが、ここなどは見ればまったく意味が解らないがあります。それは単なる小さな水穴ではないかとなります。


そもそも天照皇大神が隠れた洞窟とは何か?


宇宙に太陽が隠れる洞窟が有るではありません


 スピリチュアルでは【神は言葉】よりも、【神は光】だと言います。確かに個々の魂のレベルで言えば、魂は光を放つています。最近はあまり言われませんが昔は【火の玉】の存在がよく言われていました。


 下記は木曽御嶽の不動明王を写した写真。霊が光で撮れています。神は光と言われますが、神霊写真は光が撮れます。が、それは洞窟に太陽が隠れてしまうを意味する様な光で無いことも解ります

フォト

 下記の写真は霊魂が【火の玉】として飛んでいるものです。人の想いが執念怨念恨みとかに凝り固まりますと、その魂は怨念執念の情念の火となり、蛇霊化の道にも入ります。すなわち蛇霊たる黒龍神も光のエネルギーとして現出して来ますが、現実界の太陽が隠れてしまうで表現できる様な光の存在ではないのです。ただ人々を驚かすには十分な光と言えます。

フォト

神は光だと言う光は、その魂が放つ【火】の話


 神霊世界に関わりますと、【神は光だ!】は一面としては言えます。しかしその神の光とは、日本神話が説く【天照皇大神が天の洞窟にお隠れになったら、この世は真っ暗闇になった。】で、現実界の太陽が隠れてしまう様な洞窟があるのかと言いたい様な話の光にはなっていません。


人は死後に【ひかり(火借り)の玉】として現れる


 ただそこに大きな勘違いがあります。例えば【邪神】と呼ばれる存在を見ても、それは光(火借り)の玉と言えます。火を燃せば光を放っているから【正神】では無いなのです。

 幾多の自称救世主の背後に【光の存在】が見られることは解っています。そのほとんどが六次元界黒龍神と呼ばれているなのです。その黒龍神の放つ光だけを見れば、まさに神は光なりとなります。しかしそうした自称救世主が導いてくれる世界とは亡者道と呼ばれる地獄界への案内なのです。

 それらの火は、その魂の霊界【エネルギー】が強いの話です。


火として燃えているから【火借り(光)】を放つ


天の岩戸の光とは、神霊すらを焼く最後の審判光


 私が霊的世界を見聞してきた中では、人が死後の世界で天国界に行く。地獄界に行く。中有界に行くはその人が信じる宗教には何ら関係が無いなのです。為に霊能者の間では、そうした宗教の開祖すら地獄界に墜ちたが言われます。

 そうした時、その宗教を開かせた祭神は何をしているのかとなりますが、そうした宗教を興した霊達は黒龍神であったりで、天国界、地獄界、中有界の行き先を決める【閻魔庁】では無いなのです。そうした宗教を興した神霊には、天国や地獄や中有界と決めらる【権限】が存在していないなのです。

 大本教から世の立替で【善と悪とに立て分ける。この世の閻魔大王として現れる。】と予告されましたが、


人が死後に天国や地獄に行くは宗教で無く、閻魔庁


 キリスト教の教義では冥府の長官(閻魔大王)をサタン(悪魔)としているのですが、キリスト教徒はイエス一人が主の神の御子と信じれば天国行き。であれば、イエス一人を神の御子と信じている使徒達を地獄界に墜とす冥府の長官(閻魔大王)は【悪魔(サタン)】だとするキリスト教の教義は、その立場を変えると正しいとなります。だがそれだと、イエスの威光は閻魔庁には及ばないとなります。


イエスには閻魔庁の決定を覆らせるだけの力は無い


 世紀の大予言者であった大本教の出口王仁三郎聖師の地獄界を覗けば【牧師や僧侶で一杯だ!。】は、キリスト教徒だから無条件に天国界で、南無妙法蓮華経と唱えれば極楽に往生では無いなのです。

 私はある救世主だ!。救世主だと崇められている方の信徒達を見た時、皆さんその頭上に亡者道に入る徴で有る三角頭巾があり、この教祖の教えに従った人達は皆さん地獄界に墜ちるが解りました。私が出会ったその教祖自身、自分は信者を地獄界に連れて行き、その地獄界で自分の王国を創るを側近に公言していたのです。

 その教祖にとって地獄は恐ろしい場所では無く、自分の信徒を奴隷の様に使うことが出来る世界なのです。しかしその信徒達には、そうしたことをお首にも出さずに説くがあります。何も知らぬ信徒達は教祖の教えに【洗脳】されて、必死に自分達は救世主だと信じる教祖の為に働くなのです。そうした自称救世主の背後には必ずや黒龍神の存在が見られるなのです。

 一度、黒龍神が支配する教団に入信すると、モウ元には戻れないが起きます。


黒龍魂の宗教開祖は、信徒を天国にと言い地獄に案内


 私は黒龍神の魂が人の魂を食い破って人としてこの世に生まれ出て来るを見ました。類い希なる霊能力を持ち、宗教を起こせる力を持つのです。霊力があれば大宗教の開祖ともなります。霊能力者からそうした開祖霊が地獄界に居ると報告されますが、死後に罰を受けて地獄界に墜ちたのではなく、元々の地獄界に戻ったなのです。その地獄界がその霊の本来の居場所なのです。


黒龍神が住む地獄界とは、金銀財宝で光輝いている


 ほとんどの人は霊界で金銀財宝で輝いている宮殿を見ると、そこは天国だと思います。が、私が知る天人達は誰も金銀財宝に興味を持ちません。で、その金銀財宝で輝く神殿に入って見ると、龍神とも称される大蛇霊が住むなのです。その世界を天国と認識するか、地獄と認識するかは個々の魂が何に【価値(勝ち)観】を持つかなのです。

 悪いことをすれば地獄に墜とされるという冥府の閻魔庁とは、その魂がこの世で犯した罪の償いを経て、再度この世に人として生まれ出る【更生の刑務所】を指しているのであって、人として生まれ出るを望んでいなければ誰も閻魔庁に出頭して来ないなのです。

 黒龍神達は人の魂を食い破って人として生まれ出るで、別に閻魔庁に関わってこの世に生まれ出て来るではありませんので、閻魔庁の存在に関しては何も言わないでしょう。


閻魔庁は警察の様に悪を取り締まるでなく、来世の関与


 霊能力があり、人としてこの世に生きて神霊と会話をしている時点では、まさか自分がそうした地獄界に行かされる等は予測しがたいとなります。ただ実際に霊界見聞能力があり、天国や地獄界を見てくれば宗教家達が死後にどうなっているのかが解るわけです。

 何故にそうしたことが起きるのかとなりますと、岡本天明師の日月神示にあります【どの神も九分九厘までは行けるが、残りの一厘が解っていない。】に尽きるなのです。


どの宗教も九分九厘迄は行けるが、一厘が足りていない


 この一厘とは、大本教神諭予告【九つ花に咲く一輪の言霊の経緯(火水)】でラ神光として解き明かすことは出来ますが、それだけでは【ラ神の光】の意味が解らないなのです。

 聖書には最後の審判は【火の審判】とありますが、ほとんど理解されていないと見受けられます。イエスを主の一人御子と信じない者達は【地獄の火】に墜ちるではないのです。それらは汚れの黒龍神達を見ていますと、その存在その物がまるで太陽の様に【燃】として出て来ますので、そうした火とはイエス一人が主の御子云々はまったく関係が無いと解るのです。


聖書の最後の火の審判とは、日本神話の天の岩戸の光


 その天の岩戸とは、日本各地にあるパワースポットの様な場所を開けることを意味したものではないのです。日本国中、そんな場所を探し回ってもそんな洞窟的な物は存在していません。


それは天の岩戸と表現されている様に、天の霊界に属す


 お釈迦様もイエスもムハンマドも西洋で大天使と称する霊達も、その光の存在を見たことも無いので世に説かれることが無かったなのです。ですからこの天の岩戸開け神話は、この日本にしか無いのです。それは何故かとなった時、日本神話は太陽の天照皇大御神と月の素戔嗚尊で【神話そのものを組み立てて】あるからです。


 大本教から、【天の岩戸を開ける役に閉める役。閉める役が難しい。】とありますが、その役目をこなせる魂とは、イエスを遙かにしのぐ高度の霊界の魂を持った存在であり、大本教の出口なお開祖も出口王仁三郎聖師をしてもその【型】を演じる段階には到達されていなかったと言えます。

 日本で生まれて日本で育った霊能者や行者筋は、当然に日本の【天の岩戸】開け神話を知ります。当然にそれはこの世にある【天の岩戸】と呼ばれている場所のことでは無いぐらいの認識は持ちます。天の岩戸とは、霊的世界に存在している事柄で、未だ天の岩戸は開いてはいないぐらいの認識も出来ます。

 その時、俗に救世主とされるイエスはあまり意味が無い存在と理解が出来るのてす。この日本でイエスだイエスだと言っているのは、スピリチュアル標榜の段階で終わってしまうなのです。

 天の岩戸の光と言われる光とは、種々の宗教に出た神霊が見せた様な【光】ではないのです。私はその天の岩戸の光ではないかと思われる光を垣間見て、それを【良(ラ)心神】の光として説いているなのです。


 それが日本で生まれて日本で育った者ならば、西洋で説かれる最後の審判は【火の審判】と呼ばれていますが、それは日本神話の【天の岩戸開け】と呼ばれる【火】のことだと解るからです。


スピリチュアルと本当の霊能者の差は天の岩戸の光の認識


 では最後の審判【火の審判】は今日まで予告はされて来ましたが、どうして起きないのかとなりますと、それは大本教神諭に予告された【天の岩戸を開ける役と閉める役。閉める役が難し。】とありますが、その天の岩戸を閉める役が難しいからと言えます。天の岩戸を閉められる素材の魂の持ち主が存在すれば直ぐにも実施できるのです。

 天の岩戸の光とは、その魂を光の【熔鉱炉】に容れて溶かしてしまう様な光の存在なのです。その岩戸は自分と言う個を消す覚悟で行けば戸を開けられますが自分の魂たる光は熔鉱炉の中に消滅します。天の岩戸を開けるは自分は消える覚悟で行けばいいのですが、逆に閉めるはその閉める岩戸に近づく前に自分が岩戸から放たれる熔鉱炉の光の火に溶けてしまう為に近づけないがあるのです。


天の岩戸を閉める役は、真性天照皇大御神たる魂の存在


 一部の霊能力者の間から、世の大立替(天の岩戸開け)は創造神の交代劇を産むとの意見があります。世の大立替の宣伝をした大本教の出口王仁三郎聖師は、世の大立替とは【宇宙開闢】以来の出来事と語っておられますが、創造神がその姿を現して世を建て替えるほどの出来事ならば、その光とは諸神達が見せる霊光では無いとなります。


39 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年03月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031