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2020年02月22日04:39

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潜さん、逝く……、の巻〜吶喊映画記者・浅野潜〜

 潜さんが逝った……

 大阪は九条にあるミニシアター、シネ・ヌーヴォさんから【会員向けの会報】が届いた。ウキウキしつつ同梱されている新作映画チラシの整理をしてから会報に目を通して愕然とした。

 映画評論家の浅野潜先生の訃報が記されていたのだ。1月10日に御逝去されたらしい。

 1955年に国際新聞(後の大阪新夕刊)に入社した後、1965年に退社。大阪スポーツに入社し、映画&競馬記事を担当。1972年に編集局長、1985年に代表に就任。97年に退社した後、映画評論に専念。1998年からは朝日新聞に『映画ざっくばらん』というコラムを執筆してもいらっしゃった。『キネマ旬報』のベスト・テン選者を長年に渡って務められた他、シネ・ヌーヴォの旗揚げにも尽力された。同館では18年間に渡って【浅野潜さんと映画を楽しむ会】を開催。著書に『吶喊 映画記者〜持続と信義の思想』(リブロポート:刊)がある。享年88。

 【浅野潜さんと映画を楽しむ会】が開催されなくなって、しばらくしてからのこと。どうなっているのかとお尋ねしたことがある。その時、御体調を崩されたと知った。

 初めて御挨拶したのは10年ほど昔のこと。若松考二監督作『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』のパンフレット 兼 書籍への評論執筆依頼があり、関西からは三名が選ばれた。浅野潜先生と、朝日新聞社文化部記者の方と、そして僕である。他の執筆陣は船戸与一先生であったり、田原総一郎さんであったり、森達也さんであったり、重信房子ら元学生運動の有名闘士ばかりであったりした。ネームバリューの欠片もない僕は明らかに浮いていた。加えて、あさま事件は、僕がこの世に生を受ける以前に発生したものである上、その経緯についても全くと言って良いほど無知であった。そのため、一度、お断りしたものである。それに対して僕を推して下さった担当さんから返ってきた言葉が「誰も最初は有名じゃあないの。あと、事件のことを肌で知らない世代の人に書いて欲しいの。だからアンタを選んだん。それでも断るならそれで構いませんけど、どないする? 今、決めて下さい」であった。それで受けることにした。

 その書籍が発刊された直後、僕は浅野先生に御挨拶した。遅いと思う。それまで、何度も映画会社の試写室でお見かけしていたからだ。

 ただ、相当に気難しい方だという噂を耳にしていたため、気圧されてしまっていた。要するにビビっていたわけである。けれども、この機会を逃すと「同じ本に原稿を寄せていて挨拶もないのか!!」となるかもしれないし、これは最初で最後の良い機会なのだ、とも思った。

 そのため、松竹さんの関西支社・試写室での業務試写時にお姿をお見かけした際、上映前に「浅野先生でいらっしゃいますね。遅くなりまして、申し訳ありません。先日、同じ書籍に原稿を寄せていただきました○○と申します」として挨拶を差し上げた。

 「そうか、そうか。後で、話、しよか。今日のシャシン(=映画)終わったら、な。時間、あるか?」

 「あ、はい。よろしくお願いします」

 「それはそうとな、『浅野先生』はやめてくれ。『潜さん』でええ。エエか? 『先生』って言うなよ」

 「じゃあ、えっと…… 潜さん。後ほど、よろしくお願いします」

 「ほーほほっ! それでエエ、それで。後で、な」

 試写後、「酒は呑めるんか?」ということで、「はい。多少は」とお答えしたところ、「ほーほっほ。じゃあ行こうか」ということで、松竹関西支社の近くにある中華料理店に連れて行って下さった。潜さんは、このお店で常に真露のボトルをキープしていらっしゃった。以降、ここでの試写後に「ちょっと行こか」と御声をかけていただいた時は、常にこの中華料理店に向かった。大抵、一度で真露を丸々2本空けてからお開き。これが常であった。他の方を誘うことは無かった。
 
 「わしがおらん時でも、このボトル、呑んでかまへんぞ。一人でもエエし、誰かと呑んでもエエぞ」と仰って下さったが、そういうことはしなかった。少なくとも僕は、【潜さんと僕のボトル】と考えて潜さんと一緒に呑んだ。

 また、僕が、病気でダメになりかけた頃(結果的にダメになってしまったが)、「あいつを元気付ける会をやる!」として、7・8名による【MASAを元気付ける会】を開いても下さった。

 二人で呑んで食べてしている際、色々なことをお聞きした。御著書はかねてより所有・読了してたし、『キネマ旬報』も毎号、購読していたから、潜さんの文章が載った時は、「潜さん、潜さん。今回の号、読みましたー」と。いつも、「ほうか、ほうか。で、どやった?」と仰る。昔話も沢山、お聞きした。

 僕は、高校生の頃から、ずっと市川崑監督にインタビューすることが夢であったが、その夢は遂に叶うことが無かった。その事を潜さんに告げると、「今日、この後、時間あるか? わし、知ってることやったら全部教えたるぞ」と。

 本当に、全部教えて下さった。崑さんの作品、お人柄のことだけでなく、他愛の無いことまで全部だ。

 「崑さんって、すき焼きにドバドバと砂糖をかけるそうですね」

 「ああ、それは多分、戦争のせいや。戦時中、好きな甘いものを食べられへんかったんやろうなあ。戦争ゆうのはそういうもんや。そういう恨みの残り方もある」

 等。

 会計時、折半しようと僕が財布を取り出したのを手で払い、「わしが誘ったんや。二度とわしの前で財布、出さんでくれ。そやなかったら、もう付き合いせんぞ」と潜さんは仰った。以降、僕は主席の度に甘えることになる。

 また、ある日、先生は僕に神代辰巳監督について「観てるか?」と仰った。

 正直に答えた。

 「ロマンポルノは時代がずれていることもあって殆ど観ていません。初めてリアルタイムで観たのは『棒の哀しみ』です。これが凄く良かったです」

 「どこで観たんや?」

 「東京国際映画祭が京都で開かれた時です。高校、サボっちゃいました(笑)」

 「ほーほっほ! 良かったよな。せやのに誰もみよらん。クマさん(=神代監督)が命を懸けて撮った作品やのにな。そうかー。高校生やったんかー」

 「酸素ボンベを着けていらっしゃってましたね」

 「せやせや。ホンマに観とるんやなぁ。エエもん観とるやないか。ほーっほっほ」

 「潜さん、『キネ旬』のベストで1位に挙げていらっしゃいましたね」(←総合ベスト・ワンが『全身小説家』だった年だ)

 「よぉ覚えてくれとるなあ。ほーっほっほ」

 この時は、いつも通り、2人で真露を2本空けた後、僕は津川雅彦がマキノ雅彦名義で撮った『次郎長三国志』の完成披露試写@リサイタルホールに向かった。潜さんは「わしは帰るぞ(笑)」ということで、「えーーー! 早く言って下さいよー!」と。「ほな、な(笑)」として、やや、千鳥足でタクシーに乗り込んだ潜さんをお見送りしたものだが、その際の、190センチを超える長身がフラフラしている様が、今でも脳裏に焼き付いている。

 その後。これは当時あった角川の関西試写室での業務試写後の出来事だ。19時からは梅田ブルク7で『バイオハザード ディジェネレーション』の完成披露試写に参加せねばならなかったが、15時スタートの業務試写が終わったのが17時前。2時間ばかり時間が空いた。僕は担当さんから資料をいただこうと順番待ちをしていたのだが、その最中に、潜さんが「今から一杯どや?」と。「あ、今、資料をいただくのを待っているんです。その後でしたら。10分ばかりお待ちいただけますか?」と言ったら、「ほな、1階で待ってるから」と。

 その後、言われた通りに1階に行ったが、潜さんがいらっしゃらない。「しびれを切らしてお帰りになってしまったのだろうか?」と思いつつも、1時間程、待った。

 結局、潜さんとは会えないまま、僕は『バイオハザード ディジェネレーション』の完成披露試写に向かった。その事を周囲の方に話すと「潜さんを待たせるだなんて! あなた大変なことになるわよ。怒られるわよ。もう口も利いてもらえないわよ……」と。ビビった。

 で、次に試写室でお会いした際、「お! お前ーーーっ!! こないだどうなっとんねん!? 来えへんかったやないか!!?? 1時間、待ったんやぞーーー!!」と(←潜さんは、普段は、僕のことを「おい、青年!」と呼んでいらっしゃったが、この時は「お前」だった。肝が冷えたなぁ……)

 「いや、お待ちしてましたよ。18時半頃までずっと1階で」と僕。

 「……わし、1階ってゆうたか? あ、そら、しゃあないな。わし、地下1階で待っとった。ほーっほっほ。そら、すまんかったな。ほな、どや? 今日、この後、一杯」と潜さん。

 周囲からは「えー!? 珍しい! 潜さんが怒らないだなんて……」と言われたが、僕は潜さんから一度もガツーンとお叱りを受けたことが無い。

 大抵、試写室での席が決まっていた潜さん。ある日は、「おい! こっち来い。隣で一緒に観たらエエ」と御声掛け下さったこともある。怖かったわー(笑)

 「去年はな、1本だけ観損なった。悔しいな。映画記者、失格やな」と、真露を呑み下しながら真顔で溜息を吐かれた潜さん。

 上映直前の試写室で「携帯の電源、切れよーーーっ!!!」と、度々大声を上げていらっしゃった潜さん。

 潜さんは、業務試写開始前に私語を交わしている人たちのことも苦々しく思っていらっしゃった。「昔と違って緊張感が無い!」とよく仰っていたし、御著書にも、そのことは何度も記されている。

 試写後、「このシャシンなあ。こないだ、わし観とるわ。途中で『アレ?』って気がついて。わしも歳やのぉ。ほーほっほ」と苦笑いされた潜さん。その作品が『アクロス・ザ・ユニバース』だったことを、なぜか僕は今でも覚えている。

 同じく試写後、「ゲッホゲホ、ゲホゲホと咳しやがって。試写室をなんやと思っとるんや、あの若造が!」とお怒りになっていた潜さんに、その日の試写中に「ケホ、ケホ、ケホ」と一度だけ、むせて咳をした僕が「す、すみません!!!!!」と謝ったこともある。「は? お前のことやないで。お前、咳したんか。今度から出来るだけ我慢せえよ。お前のことやないねん。あー、脅かしてしもたなあ。お詫びに、どや、一杯?」と言って下さった潜さん。

 忘年会に途中から参加した僕に、コートを脱ぐ時間も与えず、「今年のベスト3、ゆうてみい」と問われ、「んー…… 『ぐるりのこと』と『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』。これは確定です。後は…… うーんと…… 『おくりびと』か『石内尋常高等小学校 花は散れども』のどちらか、です」と答えたら、「真似すな!!」と笑顔を浮かべられた潜さん。 

 その約二ヶ月に発売された『キネマ旬報』に潜さんのベストテンが掲載されていた。1位と2位が逆かも知れないが、『ぐるりのこと』と『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』、『石内尋常高等小学校 花は散れども』が1〜3位に並んでいた。
 
 その時、その号の潜さんの評が掲載されているページを開いて、「潜さーん。真似しないでくださいよー(笑)」とおどけた僕に、潜さんはこう仰った。

 「アホか(笑)」と。

 そして、続けて、こう仰った。

 「どや、この後、一杯?」と。

 潜さんが特に若い人には滅多に見せない(当時、僕はまだ30歳そこそこだった)という笑顔を、僕は多分、人一倍、目にしたのだと思う。

 そういうこともあって、潜さんの訃報を知った今、僕はとても悲しい。

 <怖い人>というイメージ、全く無いなあ。

 大好きだった。

 「崑さんはな……」

 「クロさんはな……」

 「クマさんがな……」

 もっともっとお話ししたかった。もっともっと色々と教えていただきたかった。


 潜さん、ごくろうさまでした。

 でもまた、いずれお会いしましょう。

 「どや、一杯」の一言、待ってます。 
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