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2016年04月13日18:05

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日本風俗史 「カフェ」と「カフェー」

喫茶店とカフェの違い、なんだかわかる? 4月13日「喫茶店の日」にちなんで調べてみたよ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=114&from=diary&id=3944258

このコラムを読んで気づいたのは、

「ははん、『カフェ』は『カフェー』の名残やな」

ということ。

「カフェ」と「カフェー」、一体何なの?と思う方がほとんどだと思います。文字は単に「−」がついてるかついていないかの違いですが、性格は全く違います。
遊廓史を研究テーマにしてる人間にとっては、「カフェー」とは何者かというのも勉強する必要があるのですが、ここで「カフェー」の歴史を。

「カフェー」というのは、大正時代から昭和初期にかけて生まれた新しい風俗産業で、発祥は東京の銀座と言われています。
最初の「カフェー」は名前からしてコーヒーを提供する所じゃないかと思いますが、飲み物より横に「女給」という女の子が横について接客してくれるのが売りでした。
しかし、それを色んな意味で「魔改造」してしまったのが、大阪の道頓堀に集まっていたカフェーでした。時代は金融恐慌や世界恐慌などの超不景気の時代で、更にカフェーの女給さんの給料は、今で言えば完全歩合制でした。お客さんからのチップだけが収入源だったのですが、チップを得るために女給さんが「性的サービス」も始めました。これがスケベな男どもに大受けし、全国にこのサービスが広まりました。
「どこまでOKなのか」は店や女給によって様々だったそうですが、カフェー通いを続けていた作家の書物や日記を見てみると、「けっこうきわどい所」まではOKだったそうです(笑
カフェー通いをした文化人も多く、永井荷風はかなり有名で小説のネタにも数多く登場しています。

大阪のカフェーは道頓堀あたりに集中していたのですが、最寄り駅の難波をターミナルにしている南海電車には、「女給電車」というものがありました。当時の南海本線の時刻表を見たらわかるのですが、難波発の終電がなんと深夜2時近く。平成28年の最新時刻表でも0時20分が最終なのに、なんでこんな遅い終電があるのかというと、仕事を終えた女給さんが一斉にこの「女給電車」に乗り帰宅していた特別列車だったのです。当時のことを書いた記事を見ると、「女給電車」は全車女性専用車状態で客は化粧をした女性ばかりだったそうです。

「カフェー」の存在を知っている人でも、この「性的サービス」がいつまで続いたのかまでは知らない人が多いと思います。カフェー通いの常連だったエッセイストの山本夏彦によると、「エロサービス」をしていたのは昭和初期の不景気の時代までで、景気が上向いてプチバブル状態になった昭和7年以降は、お願いしてもサービスしてくれなかった、と本に書いています。そしてそこから、「カフェー」は「カフェー」と「バー」に分裂します。何が違うのかというと、女メインなら「カフェー」、酒メインなら「バー」と覚えておけばいい、と山本夏彦は書いています。

ここで、気づく方ははっと気づくはず。
そう、昭和初期って不景気からスタートし、それがずっと続いて戦争に入ってしまった、というイメージがあると思います。特に俺を含めた昭和生まれの方々は、学校でそう習ってきたのでなおさらと思います。
実は、不景気だったのは、昭和4年をどん底に昭和7年以降は景気が回復、8年から12年は平均経済成長率約10%というV字成長をしていました。この10%という数字は実はすごい数字で、1980年代後半のバブル時代でも平均5.6%、近代以降の数字では日本史上2番目の経済成長率だったりします。一番は昭和30年代後半〜45年までの「高度経済成長期」の14%です。当時の東京銀座をデジタル化+フルカラー化した映像を見たことがありますが、ネオンをLEDにしたら渋谷とあまり変わらないくらいかなと思うくらい、華やかなものでした。

じゃあ、この隠れた好景気時代が何であまり知られていないかというと。

理由は2つあります。226事件以降軍部が政治を動かすようになり、日中戦争(支那事変)が起こります。好景気は実は東京や大阪などの都会はそうだったのですが、地方へ伝染する前に軍部が統制経済・非常時とやらで経済成長を「軍の勝手な都合」でストップさせてしまったのが一つ。軍人は、実は陸軍も海軍も経済にはほとんど無知で、学校では全く習わず。海軍でも「経済を勉強するなんてタブー中のタブー」(by吉田俊雄元中佐)だったそうなので、陸軍は更にそうだったことでしょう。そんな連中が経済を握ったら、せっかくの好景気も台無しです。
当時海軍大臣で、軍人には超レアなくらい経済に明るかった米内光政は、
「(陸軍による)統制経済は悪いことではないが、レボリューショナル(急激)にやるにではなく、エボリューショナル(徐々)にやるべきじゃないか」
と、議会で苦言を呈しています。議会は割れんばかりの拍手だったと言います。
政治記者は、米内をボンクラとみなしていたので、
「どうせ(海軍次官だった部下の)山本五十六の原稿棒読みだろ」
とタカをくくっていたのですが、山本自身が「うちの大臣ナメんなよ!あれは大臣が全部自分で考えたんだぞ」と言い放ったそうです。
ちなみに、統制経済で急ブレーキをかけられても、好景気の「余韻」は昭和14年末まで続いていました。上述した山本夏彦によると、昭和16年までは「余韻」があったそうで、本格的に物資不足になって食うものに困り始めたのは、昭和17年からだそうです。
「贅沢は敵だ!」という標語が出た昭和14年10月の大阪の某駅前の写真を見ると、ピクニック、みかん狩り、温泉旅行の広告ばかり。教科書に載ってるいかつい標語なんてどこにもありません。
「あれ?『贅沢は敵だ!』はどこへ行ったの?」
と俺自身もなんだか不思議な気分になりました。一般庶民が軍部の締め付けにそっぽを向いていた情況証拠でもあります。

二つ目は、「暗い時代であって欲しい」という「何者」かの意思が働いていること。
これはそもそも、昭和7年以降の好景気を知って、その時代を深く掘った俺の仮説だったのですが、それを裏付けることを山本夏彦が書いています。山本夏彦は戦前の昭和を一庶民として見てきた人間として、本当に暗かったのは昭和19年〜20年くらいだったと、「何者」かによる暗い昭和を全否定しています。
じゃあ、「何者」とは何者か。山本夏彦は「労働運動者や社会主義者、共産主義者」ときっぱり書いています。彼の主張をまとめると、
「彼らは特高や憲兵に追い掛け回されて、自分らの運動を弾圧されていた。彼らの目と思考を通したら、そりゃ昭和は『暗い時代』だよな」
ということで、特高や憲兵なんて、一般庶民からしたら怖い以前に、普通に生活してたらご縁がなかった。むしろ大日本国防婦人会とかの右翼連中の方が、小姑のようにうるさかったそうです。

「歴史は勝者が作り、真実は勝者によって消される」
という言葉がありますが、戦後の、我々が習った昭和史は山本夏彦の筆法を借りると、「左翼の歴史」ということですね。


豪快に話が脱線したところで、「カフェー」の話に戻ります(笑
「カフェー」は戦後に旧遊廓から変化した赤線(合法的風俗街)の「カフェー」(正式名称は「特殊飲食店」)に名前を奪われてしまい、「スナック」「ナイトクラブ」「キャバレー」に発展解消、更に50代以上のおっさん連中には懐かしい「ノーパン喫茶」などの変形を経て、バブルの頃には「キャバクラ」になり、現在に至ります。
なお、これもおっさん連中には懐かしい「純喫茶」という名称もあります。いや、「ありました」と言った方がいいのですが、これは「純粋にコーヒーなどを飲む所です。女給さんの接待はしません」という意味で名付けられたものです。

上のような経緯もあって「カフェー」は現存しないのですが、俗に「風俗営業法」と言われる「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(昭和25年施行)」には、

◯第二条  この法律において「風俗営業」とは、次の各号のいずれかに該当する営業をいう。
一  (省略)
二  待合、料理店、カフエーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業(前号に該当する営業を除く。)

という風に、「カフェー」の名前は法律用語として今でも残っています。コラムに書いている保健所の営業許可の基準は、ここから来ているものと思われます。

更に、平成になって「カフェー」がまた形を変えて復活します。それが「メイドカフェ」。
メイドカフェは説明不要と思いますが、あれが「ご主人様(かお嬢様)」の横に座って接客したら、まさに戦前のカフェーそのものです。メイドカフェは上の風俗営業法にギリギリ引っかからないのですが、警察にはマークされているようです。

という風に、カフェを一つほじくってみても、ここまでの「歴史」があるのです。
歴史って面白いでしょ!?
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