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2021年09月25日12:19

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映画水俣『MINAMATA』を観ました。

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昨日から公開になった映画水俣『MINMATA-ミナマタ』を札幌シアターキノで観て来ました。
私がまだ小学生の頃に小樽市の歯科の待合室で見たのは広島の原爆の本で、吉祥寺のパルコで働いていた時に私のお客さんで東京の国立の歯科で見た水俣の写真集が忘れられません。日本語のは1980年出版。
最近またこの本のことが甦って来て欲しいなぁと思っておりました、今ではオンラインで検索出来ますが。
再発売したと知りました。
映画は素晴らしかったです!

残念なのはこのアメリカ人の写真家はチッソ会社との闘争の時に受けた暴行の影響で1978年に亡くなった事で、アメリカはニューヨークまで出かけて行って彼に水俣患者の写真を撮って世界中に報道する様に日本へ来て下さいと頼んだ日本人女性と日本で結婚しましたが、奥さんを残してあの世へ旅立ちました。

『MINAMATA―ミナマタ―』(原題:Minamata)は、2020年製作のアメリカ合衆国のドラマ映画。W・ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスの写真集『Minamata』(1975年)を基に、アンドリュー・レヴィタスが監督、デヴィッド・ケスラーが脚本を務める。1970年代、水銀中毒(水俣病)が熊本県水俣市の市民に及ぼす影響を記録した写真家のユージン・スミスを、製作を兼務するジョニー・デップが演じる。

あらすじ

1971年、アメリカの写真家W・ユージン・スミスは「ライフ」誌に掲載された数々の「フォトグラフィック・エッセイ」で有名になるが、隠遁者となっていた。別の仕事をしていたスミスは、情熱的な日本人翻訳者のアイリーンから、水俣を訪れて水俣病を撮影・記録するよう促される。スミスは、地元の警察や政府の共犯者である[要出典]企業の貪欲さがもたらす破壊的な影響の正体を暴くために最善を尽くすことをついに確信する。水銀中毒と水俣病による沿岸地域の被害を記録するために、彼は日本の水俣を訪れた。水俣病は、化学会社チッソが引き起こした産業公害が原因であった。ミノルタのカメラだけを持って強大な企業に立ち向かい、スミスは壊れたコミュニティの信頼を得て、この物語を世界に伝えるための画像を見つけなければならない。しかし、スミスは現地で厳しい報復を受けることになり、アメリカに緊急送還される。しかし、この報道によって、彼はフォトジャーナリズムの象徴となる。

公開

2020年2月21日にベルリン国際映画祭でワールドプレミアが行われた。2020年10月、MGMはアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズのバナーを通じて、本作のアメリカでの配給権を獲得し、ヴァーティゴ・リーシングはイギリスでの配給権を獲得した。それぞれ2021年2月5日と2021年2月12日の公開を予定していたが、それぞれ8月13日と未定日に延期された。

2021年7月26日、レヴィタスは、本作の配給権を購入した買収責任者のサム・ウォルマンから、ジョニー・デップのイメージ低下に伴い、「この映画は宣伝しない」と言われ、MGMが「この映画を葬る」ことにしたと、映画の後援者であるユージン・スミス財団と水俣財団にも手紙を送り、この題材の重要性をMGMは十分に考慮していないと、再考を求めた。これについて、MGMは「この映画は、MGMの一部門であるアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)で公開するために購入した。今後のAIP作品に含まれており、現時点では米国での公開日は未定である」と述べた。

顔(サングラス)どうしてジョニーデップのイメージ低下なのか意味不明!
他に何か理由がありそう!

地元の反応

主要な舞台となる熊本県水俣市の高岡利治市長は、市として協力する姿勢を示しながらも、「1970年代の水俣の様子や起こったことが正確に伝えられることが大切」、「地域にとって負のイメージだけが広がらないようにお願いしたい」、「水俣を担う若い世代に自らの古里に自信を持てる内容となることを期待している」と内容への要望も口にした。

しかしその後、水俣市は2021年6月に地元有志の実行委員会が同年8月に開く先行上映会の名義後援を水俣市に依頼した際、映画が史実に即しているかや製作者の意図が不明であり被害者への差別や偏見の解消に貢献するか判断できないことや、水俣病を過去のものとして忘れたいと考えている市民がおり、後援が適切か不明なことを理由に後援を拒否した。一方で熊本県側は「世界的に発信されることに意義がある」として上映会の後援を承諾している。

顔(サングラス)私も世界に知られるべきであり、忘れてはならない事だと思います!

スミスの関係者の反応

ユージン・スミスの元妻で映画の登場人物でもあるアイリーン・スミスは、映画自体については「患者さんの苦しみと闘いの素晴らしさが世の中に知られていくこと、そしてユージンのジャーナリストの信念が話題になっていくことは非常に嬉しく思います」と評する一方、スミスや自身の描写には「この映画はドラマだし、実際に生きた人にとっては複雑な気持ちがあります」と述べた。デップの演じたユージン・スミスについては、動きが本人に似ている場面や、撮影中に「ユージンがいる」と思えた瞬間があったことを話している。

顔(サングラス)ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカの写真家。1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。

経歴

カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母がアメリカインディアンのポタワトミ族の血筋もひく。

ユージンの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。ユージンはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。

第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦で歩兵と同行中に日本軍の迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷した。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けた。約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。

戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、1947年から1954年まで、雑誌『ライフ』で「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。

1950年にイギリス労働党の党首選挙を撮りに訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱いたが、ライフ誌編集部の方針と対立し、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売となった。1954年には『A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。

1961年、日立製作所のPR写真撮影のために来日する。ユージンはそのとき、もう一度日本を撮りたいという願いを持っていた。

1970年8月、51歳のときにニューヨークのマンハッタンにあるロフトでアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会う。富士フイルムのCMでのユージンへのインタビューで、アイリーンが通訳を務めた。当時20歳のアイリーンは、母親は日本人で父親はアメリカ人。東京育ちで11歳のとき渡米し、当時はカリフォルニアのスタンフォード大学の学生であった[2]。出会ってわずか1週間後に、ユージンはアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼む。アイリーンは承諾しそのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた。

ユージンと親交のあった元村和彦[5]が同年秋に渡米した際、ニューヨークでユージンらに来日して水俣病の取材をすることを提案した。1970年代は水俣病裁判とも重なり、日本全国各地で公害が社会問題となっていた時期でもあった。

ユージンとアイリーンはこれに応じ、翌1971年8月16日に来日した。同年8月28日に日本で婚姻届を出し、東京都内のホテルで披露宴を挙げて夫婦となった。スミス夫妻は患者多発地域であった熊本県水俣市月ノ浦に家を借り、同年9月から1974年10月までの3年間、ともにチッソが引き起こした水俣病と、水俣で生きる患者たち、胎児性水俣病患者とその家族などの取材・撮影を行った。

1972年1月7日、千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場を訪問した際、川本輝夫率いる水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名が、チッソ社員約200人による強制排除に遭い、暴行を受ける事件が発生した。ユージンもカメラを壊された上、コンクリートに激しく打ち付けられて脊椎を折られ、片目失明の重傷を負った。ユージンの後遺症は重く、複数の医療機関に通い続けたが完治することはなく、暴行の容疑者は不起訴処分となった。この事件でユージンは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。ユージンはチッソを告訴することも勧められたがそれを拒み、その後も水俣市と東京都内を行き来しながら、患者らの後押しを受けて撮影を続けた。

1945年の沖縄戦での負傷の後遺症で、ユージンは歯の噛み合わせが悪くなり、ほとんど食べられなくなっていた。またアルコール依存症にも苦しみ、アイリーンによれば「毎日10本の牛乳と、オレンジジュースに生卵を入れて混ぜた飲み物が栄養源で、それにサントリーレッドの中瓶を1日1本ストレートで飲んでいた」という。チッソ五井工場での暴行による負傷が体調悪化に拍車をかけ、激しい頭痛に悩まされ「(風呂の薪割り用の)斧で頭を割ってくれ」とアイリーンに頼むこともあった。それでもユージンは撮影を続け、1973年4月には西武百貨店池袋店で写真展「水俣 生―その神聖と冒涜」が開催された。

1974年10月、写真集『水俣』の掲載写真の選定や文章もほぼ終えて、スミス夫妻は3年間暮らした水俣市を去り、ニューヨークへ帰国した。翌1975年5月にはアイリーンとの共著で、悲願であった写真集『MINAMATA』英語版の出版を果たし、世界中で大反響を呼んだ。しかしその直後、ユージンとアイリーンは離婚することとなった。

離婚後のユージンはアリゾナ州ツーソンで晩年を送り、アリゾナ大学で教鞭をとっていた。チッソ社員からの暴行の後遺症による神経障害と視力低下により、カメラのシャッターを切ることもピントを合わせることもできなくなっていたが、日本や日本人を恨むことはなかった。1977年12月には脳溢血で倒れ、翌年には奇跡的に回復して一時はセミナーを行うまでになったが、1978年10月15日に自宅そばの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、発作を起こして死去した。享年59。日本語版『写真集 水俣』が出版されたのは、ユージンの死後の1980年であった。

顔(サングラス)暴行を受けた日本の会社を訴えれば良かったのに!

死後

アイリーン・アーカイブ 編集
アイリーンはのちに再婚して子をもうけた。アメリカ国籍であるが現在は京都市に在住し。京都市左京区田中関田町22-75-103に1994年、ユージンとアイリーンが水俣で撮影した全写真の著作権管理を行う組織として「アイリーン・アーカイブ」を設立した。大阪人権博物館(リバティおおさか)をはじめ、京都国立近代美術館や東京都写真美術館などの美術館にユージンの作品を収蔵するとともに、出版社や新聞社、テレビ局などマスメディアへの作品貸出や使用許諾を行っている。また反原発・環境保護団体「グリーン・アクション」の代表を務める(所在地は「アイリーン・アーカイブ」と同一)。なお大阪人権博物館は2020年5月31日をもって閉館し、ユージンの『水俣』オリジナルプリントを含む収蔵物は大阪市の他の施設へ移管される予定である。

ユージン・スミス賞

彼の死後、ユージン・スミス・メモリアル基金(W. Eugene Smith Memorial Fund)によりユージン・スミス賞(W. Eugene Smith Grant in Humanistic Photography)が設けられた。人間性や社会性を重視した写真作品を対象としている。主な受賞者にセバスチャン・サルガドなどがいる。

映画『MINAMATA-ミナマタ-』が公開 編集
2018年10月23日、英国のハンウェイ・フィルムズが、ユージンの後半生をジョニー・デップ主演で映画化すると発表した。アイリーンの役は美波が演じた。

映画『MINAMATA-ミナマタ-』は2020年2月にベルリン国際映画祭で公開された。

2021年8月、アイリーンはメディアのインタビューに応じ、「この映画はドラマだし、実際に生きた人にとっては複雑な気持ちがあります」(ユージンが写真の発表を諦めようとして編集者と口論になる描写に対して)「本当なら逆です」と述べる一方、「患者さんの苦しみと闘いの素晴らしさが世の中に知られていくこと、そしてユージンのジャーナリストの信念が話題になっていくことは非常に嬉しく思います」と評した。デップが演じるユージンが本人と似て見えた部分があったり、「ユージンがいる」と思えた瞬間があったことも話した。

同年9月7日、映画の日本公開に合わせ、長らく絶版になっていた『MINAMATA』の日本語版『写真集 水俣』が、原著と同じタイトルで再出版された[20][21]。9月11日には、熊本県津奈木町のつなぎ美術館で作品展「ユージン・スミスとアイリーン・スミスが見たMINAMATA」の開催が始まった。

同年9月18日、映画の先行上映会が水俣市文化会館で行われた。9月23日、日本で全国公開。

表現方法

ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリである。そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出された。

日立製作所の仕事に助手として参加した森永純は、「暗室作業についていえば、渡された1枚のネガから、いくらプリントしてもOKをもらえず、悪戦苦闘したことが忘れられない。こうなると私も意地で、知っているだけの技術を使い、とうとう1週間かかって100余枚のプリントを焼き、やっとその中の1枚だけにOKをだしてもらったことがある」と書く。

それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりした。例えばアルベルト・シュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされた。そもそもユージン・スミスは、リアリズム(写実主義)を排除していたとされる。

これは客観的な本ではない。ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる
— ユージン・スミス、写真集『水俣』英語版の序文
ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている
— ユージン・スミス、写真集『水俣』英語版の序文
写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない
— ユージン・スミス、ユージン・スミス写真集 一九三四−一九七五

著名な写真

第二次世界大戦の戦場サイパンで米兵により発見された傷ついた幼児の写真(1944年)

硫黄島で日本兵の塹壕を一掃する米海兵隊(1945年)

『楽園へのあゆみ The Walk to Paradise Garden』(1946年)

『カントリー・ドクター Country Doctor』(1948年)

『スペインの村 Spanish Village』(1950年)

『助産婦 Nurse Midwife』(1951年)

『アルベルト・シュヴァイツァー A Man of Mercy』(1954年)

『ピッツバーグ Pittsburgh』(1955年)

『ハイチ Haiti』(1958年-1959年)

『入浴する智子と母 Tomoko and Mother in the Bath』(1971年)

「入浴する智子と母」公開是非をめぐる議論
スミス夫妻が水俣へ移住した年の1971年12月に撮影された、胎児性水俣病の少女・上村智子(1956年 - 1977年[26])を母親が抱いて入浴させている写真「入浴する智子と母(Tomoko and Mother in the Bath)」は、ユージンの『水俣』の写真の中でも名高い1枚で、「ピエタ」を思わせる構図の母子像は、写真展や水俣病についての書籍でもたびたび紹介されてきたものだが、遺族である両親とアイリーンの話し合いにより、1998年6月に「アイリーン・アーカイブ」では今後は同写真の使用を許諾しない方針であることが発表された。このため、ユージン生誕100周年を記念して2017年11月25日から2018年1月28日まで東京都写真美術館で開催された「生誕100年 ユージン・スミス展」でもこの有名な写真は展示されることはなかった。

この「封印」に対しては、写真家や美術館関係者などから様々な意見があり、当該写真を所蔵する清里フォトアートミュージアムの広報担当者は「自分はこの1枚に出会って水俣病や現代の世界につながる環境問題に関心を持つきっかけとなったので、ぜひ多くの人に見てほしい」と語り、同館の学芸員は「この件は国際会議でも話題になっており、海外の所蔵館の中には展示できなくなるのなら購入費用を弁済してほしいという声もある」と述べた[11]。また同館館長の細江英公は「日本の著作権法では著作者の許諾に関係なく、美術品などの現所有者は作品の展示ができるし、教科書に掲載することも可能である」と指摘した。

また水俣でスミス夫妻と寝食を共にしながら、ユージンの助手を務めた石川武志は「(写真が)封印されたことがすごく残念だ。普遍性をもつこの母子像は人類にとって失ってはならない芸術作品だ。ユージンが生きていたら展示や掲載を望むと思う」と語り、アイリーンによるこの「封印」に強く反対した。

映画『MINAMATA-ミナマタ-』では「封印」された「入浴する智子と母」が使用されており、アイリーンは映画を見た後で「この写真を大切にするなら今何をするべきかと考えた時、『本物の写真を見せることだ』という結論」に達したと述べ、再刊する写真集で「入浴する智子と母」を含めた、上村智子の写った写真を掲載する意向を示した。

「排水管からたれながされる死」に関する議論 編集
ユージンは『ライフ』誌の1972年6月2日号に、チッソ水俣工場の排水管から不知火海にメチル水銀を含んだ工場廃液が流される様を撮影したとされる写真「排水管からたれながされる死」を発表しているが、これは時系列上、疑問があるとされている。

チッソ水俣工場は、1960年(昭和35年)の「精留塔ドレーンの系内循環」と「泥・廃水プール」の設置により、メチル水銀の排出を10分の1に低減させており、その後さらに、工場排水を外に出さない「閉鎖(完全)循環方式」に転換、そして1968年(昭和38年)にはアセトアルデヒドの生産を完全に停止している[29]。したがって、スミス夫妻が水俣に移住した1971年以降に、「有害な排水」を撮影することは不可能であり、「排水管からたれながされる死」は、1952〜1953年以来、無処理の排水が流され続けているという誤解を生みかねないものであった。

のちに、水俣病発生は、メチル水銀の排出そのものが原因なのではなく、1951年(昭和26年)の「助触媒の変更」から上記の対策がとられた1960年頃にかけてまでの排水によって生態系サイクルの許容限度を超えるほど「大量に」放出されつづけたこと、つまり「量的問題」であったとの見方がなされており、それは各種被害データ(排水から1年から数年遅れて症状が発現)と整合している。なお、日本政府による公害認定は、さらにその後である。

顔(サングラス)私は写真は見せるべきだと思います、そしてこういう悲劇を全世界の人々に知って貰いたいです。

顔(サングラス)細江英公が清里フォトアートミュージアムの館長だなんて素敵です、会って彼のオートグラフを頂きたい、また彼との写真も!

影響を与えた写真家

石川武志
写真家の石川武志は、ユージンらが来日した1971年当時は写真学校を卒業したばかりで、東京の原宿に住んでいた。ユージンの写真展を見て感銘を受け、原宿で偶然ユージンを見かけて声をかけたところ、アシスタントとして水俣へ一緒に行かないかと誘われた。当初は3か月の予定で引き受けたが、スミス夫妻が水俣にいた丸3年間アシスタントを務めた。石川はアイリーンと同い年で、スミス夫妻が水俣で借りた家を本拠に行動を共にした。

スミス夫妻が水俣での撮影を終えて帰国した後、英語版写真集『MINAMATA』の出版と個展の手伝いを頼まれ、石川も後を追って1975年にニューヨークへ渡った。石川自身は当時水俣で撮影した写真は発表していなかったが、当時と現在の患者たちの写真をまとめ、2012年に『MINAMATA NOTE 1971-2012 私とユージン・スミスと水俣』として出版した。

森枝卓士
水俣市出身の写真家・森枝卓士は、新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場近くの自宅で生まれ育った。両親は同社の社員で、1959年11月2日の4歳の頃、水俣病で被害を受けた漁民が工場に押しかけたこともあった。少年期は社会問題に関心を持たず過ごしたが、ユージンの写真を雑誌で見かけて「社会的なテーマを扱っているのに美しい」と感動した。高校生のときにスミス夫妻が水俣に移住してからは親に内緒で通い続けた 。

森枝の父親はチッソ労働組合の方針を批判して新労組に加入し、チッソを擁護する集会にも参加していたが、スミス夫妻と行動を共にする息子の姿に驚いて「こん、ばかもんが!」と激怒した。森枝はのちに「水俣の人間の側からすると、水俣というのはそのチッソのおかげでみんなが食べていたような町」「僕の父も母もチッソで働いていたし、そのおかげで自分たちが叶わなかった夢だった、東京の大学に僕と弟妹の3人の子供を送り卒業させた。だから複雑な感情があったわけですね。」として、父親が森枝の行動に怒って寝込んだことや、水俣病の取材中にユージンらが暴行を受けたことを語っている。 

顔(サングラス)顔(サングラス)最後まで読んでいただきありがとうございます顔(笑)顔(笑)
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