刻々と死に向かう人を毎日見ているのは、中々にこたえます。祖父(昭和60年・狭心症)、父(平成7年・大腸癌)、祖母(平成15年・肺炎)に続いて四度目ですが、慣れるということはありません。
「癌」という病気は本人にもわかるので、死ぬ準備が何もできずに死んでゆく心筋梗塞や心臓麻痺、大動脈瘤破裂、大動脈乖離等と比べると、預貯金を解約したり近しい親類を呼んで会わせたりといった、死の準備ができるのでよいこともあります。
あとは苦痛さえなければよいのですが。そうはいきません。
7月4日
老母の黄疸が顕著になり、疼痛も強くなってきて、腹水でお腹がパンパンではち切れんばかり。腹水が胃を圧迫して、食欲はなくなり、膀胱も圧迫してトイレが近くなりました。
まもなく腹水が横隔膜を押し上げると呼吸も困難になってくるはずです。
足も太ももから爪先まで、パンパンにふくれてきました。
入院して腹水を抜けば、一時的に楽になることはわかっていますが、なにしろ本人が入院をかたくなに拒んでおり、このまま自宅で死ぬことにこだわっています。週に一度訪問診療の医者が来ますが(緊急時は別)、私ども三兄弟も実家に集まったり泊まったりすることが多くなっています。
兄弟が交代で「添い寝」と言えば聞こえはいいですが、老母のベッドの横の床にゴロ寝して、車椅子に乗せてトイレに連れて行くだけです。
「息子、母はまだ生きてゐるか」
「えぇ、母様。まだ生きてゐますよ」
「毎晩、寝るときに明日こそは目覚めないかもしれないと思ふているが、中々死なないものだな。まう死にさうなのに」
「母様、人間は死にさうになってから本当に死ぬまでが長いのですよ。お婆さまの時にもさうでしたよね」
「うむ、さうであった」
「だから、まだ暫く死なないと思ひますよ。まうすぐ七夕で私の誕生日ぢゃありませんか」
「だから何だ。おまへの誕生日を楽しみに生きよといふ励ましか。ふん、白々しい」
「まったく本当に嫌味な母様ですね。死ぬときくらい素直に励まされてゐりゃぁいいのに」
「白々しいことを言ふからだ。馬鹿め」
「馬鹿、馬鹿ってねぇ、死ぬまでにちっとは褒めてくれたっていいでせう。一度くらい私を誇らしいと思ったことはないんですか」
「ふ〜ん、さうさなぁ・・・」
「ありますか」
「ふむ、さうだ。みやこ幼稚園の卒園式のおまへは中々良かったぞ」
「そりゃ、またえらい昔のことで。何が良かったのですか」
「歌だ。卒園式のおしまひに皆で歌を歌ったときにな、でっかい体のおまへが直立不動で誰よりも大きな声で歌って、他のお母さんたちから『まぁ、石川さんのお子さんはすごいのねぇ』と嫌味を言われるほど、おまへの声ばかり響き渡っていて、『いやぁ、あれがうちの息子です』ってな、誇らしかったぞ」
「そんなことをよく覚へてゐますね」
「おまへを誇らしいと思ったのは、そのときくらいだなぁ。・・・あれ歌ってみよ」
「何ですか」
「あのときの歌だ。ホラ想い出のナントカ」
「あぁ、『想い出のアルバム』ですか、幼稚園卒園式の定番ソングですなぁ。しかし、あんまり年月が経ちすぎて、まう覚へてゐませんよ」
「なんだ。ついこの間の卒園式であんなに大きな声で歌ってゐたのに、まう忘れたとは、あぁやっぱり馬鹿な子だ」
「ついこの間って、46年も前ですよ。そんな無茶な。えぇ、それぢゃあね、覚へてゐる限り歌ってあげますから、それで勘弁して下さいよ」
「ふむ、勘弁してやらう」
「えぇ、確か歌い出しはかうでしたなぁ」
1番
いーつのことーだかー、おもいだしてごーらん
あんなこと、こんなことあったでしょうー
うれしかったこぉとぉ、おもしろかったこぉとぉ
いーつにぃなってもー、わーすれーないー
「あれ、結構覚えてる、ぢゃ『春』からいきますよ」
「うむ、ゆけ」
2番
春のことーですー、思い出してごーらん
あんなこと、こんなことあったでしょうー
ポカポカお庭で、仲良く遊んだー
きれいな花もー、咲ーきまーした
「覚えてゐるではないか、次は『夏』だ」
3番
夏のーことーです、思い出してごーらん
あんなこと、こんなことあったでしょうー
麦わら帽子でぇ、みんな裸んぼー
お船ーもみーたよー、砂山もー
「ふむ、次は『秋』」
4番
秋のことーですー、思い出してごーらん
あんなこと、こんなことあったでしょうー
どんぐりー山ーのぉ、ハイキングらーららー
赤い葉っぱもぉ、飛ーんでぇいたぁ
「はははぁ。よいぞ『冬』だ」
5番
冬のことーですー、思い出してごーらん
あんなこと、こんなことあったでしょうー
樅の木ぃ飾ってぇ、メリークリスマスぅ
サンタのおじいさん、笑ってたー
「サンタになったのは園長の田村実先生でしたよ。松戸六中の校長を退職してから、みやこ幼稚園の雇われ園長になったのですねぇ。ぢゃ、次で最後です」
6番
一年中をぉ、思い出してごーらん
あんなこと、こんなことあったでしょうー
桃のお花ぁもぉ、きれいにぃ咲いてぇ
もうすーぐみんなはぁ、一年生ぇー
「ハッハッハ!母様、歌へましたよ。覚えてゐるもんですねぇ。私も中々賢いぢゃありませんか。さう、馬鹿馬鹿と言ったものではありませんよ。この一番最後の歌詞のねぇ、「一年中」って漢語のとこがねぇ、なんだか大人びた感じがして、やぁ自分もすこーしは大人になっていくもんだなぁと、感じ入ったもんでしたよぉ」
ボカッ!後から兄に殴られました。
「おまへは、夜中に何を騒いでゐるか!ばかもん!」
「母様が、歌へとおっしゃるのですよ、ねぇ母様。あれ、母様、母様・・・母様っ!」
「グゥー、グゥー、グゥー」
「母様はお休みではないか」
「いや、さっきまで一番歌うごとに合いの手を入れてたんですよ」
「静かに看病せんか、馬鹿っ!」
「ちぇっ!歌へといふから歌ってやったのに、途中で寝てしまふとはひどい親もあったもんだ」
「うーむ、ひどい親で悪かったな。子守歌代はりに寝てしまった」
「子守ぢゃなくて親守ですよ」
「息子、おしっこ。お便所へ連れて行け」
老母はまだ、生きております。
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