mixiユーザー(id:40742891)

2016年09月25日09:38

227 view

学識的な比較論ではなく・・・

 生きて行く中の流れに、無意識の比較と言うよりも、動物的選択に従属せざるを得ない日頃に居る、と思う時がある。一方では、それらのその場面における意識的比較選択が日常を過ごさせている風でもある。どちらも、その人間の生まれながらの気質、気性、本性的無意識が働いているように思うが、先々代からそれ以前の過去の過去とのつながりなどは、どうにもわからないものである。
記録が不可能であったが故なのであるが、その不明なことを背負わされながら、人は、日々、賢明に生きて居る人達と、そうでない人達に大別する時、やはり、そこには、過去的過去の因果が潜んで居るとしか考えられないのであるが、それなど、いまだに不明な非世界的蠢きであると思うのである。
 今、思うのは、非世界的潜在性を科学的に解明可能に成ることだと、先々に期待感を持っているのである。人間存在の場面から見る時、具現的物質世界と、世界と言えない非世界的非物質のことの有り様を思う時が、時折湧き出てくるのであるし、二十歳のころからの人間存在に関する不可思議観は、今も、どうにも拭えないのであるが、日々の生活が、この身を維持せざるを得ず、この身の業は死んでも生きようとしている様子である。それらは墓地、墓碑などからも教示させられる。なぜならば、そこへ墓地として具現しているからである。全ては、墓地、史跡などの過去の具現物であり、それ以前にも遡ることに、尚、その意味などを追求しようとする人心に根拠するのである。
 
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを投稿する