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2015年11月10日08:23

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言葉以前の直感の非世界・・・

 直観力とか、予知力、予見、虫の知らせ、枕辺に立たれた、何となく何かを感じてしまう時、などと言うことが日常生活内で出会うこと、出会ったことは、個人差が有るのは確かだが、これらは、文字言葉以前の非世界である、と考えている。
 人間って一体何なのだろうか?・・・と思う時、八十過ぎのこの老人にもわからないことである。
しかし、人間論など人間に関わる論者などの学識者、哲学、それらの学識や、その道の知識人は、論考、論述と言う文字言葉に依存のことなどもし、諸本などを世間に出版物として出しているけれども、・・・
 日常生活が衣食住足りて贅沢なのかもしれないが、人間に関してのこのようなことを考える暇がある人も居る。
 一定の日常生活が維持されて居なくては、昔の哲学者なども含めて、思考世界に浸ることはできにくいことだけれども、国からの年金で生活しながらの日常的思考世界は、一般的老いたる者の独り言でもあることだろうと思うが。
 昔、十四、五歳のころの夏の日、六十歳のころの自分自身を青い空の入道雲に思いを入れながら「俺はそのころどうなっているのだろうか?・・・」と考えていたことを記憶している。その思考以来、六十五、六年が経ち、その思考世界は過去の夢となり、今の夢に居る、と言う言葉で表現している。

 今、非日常的に、何時でも向こうへ逝っても不自然ではない老齢と、思うようになっている自分自身が今に居るのである。つまり、棺内的容貌になってきていることを鏡が教えてくれるのだが・・・
 しかし、人間と言う動物的業は、まだまだ、表象的華やかさを様子しているのだから、やるせなくも悲哀を感じる時も有るが・・・食、性、争など物質世界に蠢く物でもある夢を見ている風である。
 日常的物質界からは、知告の如き物現象に気づかされるのである。「諸行無常」とは、四字熟語的名言であると言わざるを得ないのである。無常の中で楽常が叶えられればは、思い上がりも、上がりっぱなしでよくボケ爺と言う言になるのだろう・・・あっかんべー
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