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2015年05月16日09:30

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若い夫婦の子ども連れ・・・

 己の昔の若き時を思い出す。自分自身の至らなさに懺悔せざるを得ない。子供達への思いは、子どもへの気が入っていなかった己を思う。仕事に気持ちが追われて確かな家族への思いやりが欠けていた若かりし頃の親父としての思いが子供達への謝罪になっているが、その原因は、やはり己の自分本位な我儘一本気の未熟さなのだろうと思わざるを得ない。この年になって八十歳はその一生の終点に近い。不思議体験は有効だったが、益々、人間不思議へと思わざるを得なくなっている。
 ある人は、自分自身を探索しても意味がないというけれども、私はそうは思わない。全ては私からの視点であるということである。私が無ければ全ても無である。私を探索しても結論は出ないし、わからない。しかし、その探索中に、私が自分本位で我が思いの儘である日々に気が付き始めた。私を生かすためには、他との折り合い協調の要点にも配慮をしたり妥協もしなくてはならない日常生活の流れに日々が有るということで、夫婦は本来他人であるという事実を意識する日々であったり、親子と言う身近も個体としての他人であるという事であり、起生的にも人間は個であることと言うことであることを逃れられない。文字言葉表現も、例外が有っても、大方、表面的に表現限界を背負わされている。文字言葉表現も未熟で未完であるがために、異論も異見も当然具現であると思う。

 人は日々の生活で、種々雑多な表現手段を背負っているが、言葉は、全ての場面で優先されざるを得ない風に感じる。そのことが人間動物と言う存在なのだろう。言葉以外に、顔の表情、身振り表現、声など音での表現、二次元的な面への表現や立体化への思惑、その他、自分自身でも気が付いていない表現をしている時も有る。それらは集団の中においても個の表現は集団個として居る。
 今は、終戦以前の国至上から個の時代になってきている事実を意識できる日々に過ごしている。
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