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2020年09月16日05:00

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昭和天皇は反対されていた VS 皇室との縁組を熱望していた小和田家

【現在でも、ごく一般に言われていること】
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『雅子さまは、皇太子殿下(当時)の熱烈なプロポーズに折れる形で、
外務省でのキャリアを泣く泣くお捨てになった。
しかし皇室は、雅子さまの高い能力や国際感覚を十分に発揮するには
あまりに旧態依然としたところで、外国育ちのキャリアウーマンであった
雅子さまは適応障害を起こされた』
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この流布は、ほぼ、真っ赤な嘘である。

雅子さまは、泣く泣く外務省でのスーパーキャリアを捨てて、
皇室に嫁がれたのではない。

外務省と当時外務省次官だった父、小和田恒氏を中心とした人々の
猛烈な後押しによって、皇室に嫁いだのである。

1993年当時、皇太子婚約についての報道は、国内では報道協定が結ばれていた。
しかし、その協定外にあったアメリカ合衆国の新聞『ワシントンポスト』が、
同年1月6日に、日本の皇太子御婚約をスクープした。

このスクープを流したのは、ワシントンポストの日本人記者・東郷茂彦氏である。
東郷茂彦の祖父・東郷茂徳は、太平洋戦争開戦時及び終戦時外務大臣、
父・東郷文彦は戦後、外務省事務次官と駐米大使を務めている。
茂彦の双子の弟・東郷和彦も、
元駐オランダ大使・外務省欧亜局長などを務める外交官だった。

雅子さまと皇太子殿下(当時)と婚約の報道は、当時の外務省を中心とした関係者が
熱烈にその縁組を望み、全力でサポートし、見切り発車的に
スクープを飛ばしたものなのである。

ワシントンポストのスクープを受けて、同日夕、日本の報道機関もなし崩し的に、
皇太子妃内定の速報を一斉に流した。

1月6日に皇太子妃内定の速報が出ても、
当事者であるはずの宮内庁は数日間、完全に沈黙していた。
宮内庁はおそらく、婚約スクープに関して完全に蚊帳の外に置かれていて、
この騒動をどう収拾させるか苦悶していたと思われる…。

フォト


【外務省とマスコミが作り上げたお妃候補 小和田雅子さん】

時代がまだ昭和だった頃、1960年生まれの浩宮徳仁親王殿下(当時)の結婚は、
いつも注目の話題だった。
そんな中、1980年後半頃から、外交官の娘、ハーバード大学卒の才媛、
小和田雅子さんの名前がまるで何かのキャンペーンのように、
たびたびマスコミで喧伝されていた。

東京大学在学中に外交官試験に合格したというニュースは、
犬HKやアカヒ新聞でもとても大きく取り上げられた。

当時は海外留学、帰国子女、バイリンガル、キャリアウーマンなどとという言葉が
大ブームで、雅子さんはそのすべてを持ち合わせている女性として、
マスコミに盛んに取り立てられていたのである。

皇太子殿下(当時)と雅子さまは、1986年10月のスペイン・エレナ王女のレセプションで、
初めて運命的な出会いをしたと言われている。

しかし本当はそのずっと以前より、お二人は
かなり親密な知り合いだったのではないかと、まことしやかに言われている。

1984年、浩宮徳仁殿下(当時)と小和田雅子さんは、欧州・ドイツ国境に近い
フランス・アルザス領コルマールという都市を、お忍びで旅行に行ったという話がある。
お二人がその時、意気投合したのか、
それともそのまま交際は自然消滅したのかは分からない。

しかし、運命の出会いとされる1986年10月のスペイン・エレナ王女の
レセプション開催直前には、徳仁親王殿下(当時)本人の記事が掲載された
写真週刊誌「FOCUS」10/17号に、まるで狙い定めたように、
『父娘2代の外交官誕生!』と、雅子さんのグラビアがデカデカと
ねじ込んであったことを見ると、小和田家とその周辺の人々が
引き続き必死になって、雅子さんを殿下に売り込んでいたことが分かる。

エレナ王女のレセプション当日には、出席者名簿に手書きで、
小和田雅子さんの名前が急遽書き加えられた。      

小和田家、外務省、マスコミ、+αの人たちにとって、
宮内庁が選ぶ良家出身のお妃候補には決して加えられない
小和田雅子さんという女性が、とても重要な人物だったのは間違いないのだ。

【昭和天皇は大反対されていた】

当時まだご存命だった昭和天皇は、徳仁親王殿下(当時)と小和田雅子さんとの
縁組は、大反対されていたと伝えられている。

また当時の宮内庁が、小和田家の家系や雅子さんの異性関係を調査し、
雅子さんとの縁組は断念するよう浩宮徳仁親王(当時)を説得したと言われている。

しかし、昭和天皇は1989年1月にご崩御。

時代は昭和から平成に変わり、皇太子となった徳仁親王殿下(当時)の周辺が
ようやく落ち着いて来た頃に、小和田家とその周りの人々は、
まだ独身だった皇太子殿下(当時)に、また猛烈なアタックを仕掛けてくるのである。

時にはご両親である上皇・上皇后両陛下や、宮内庁職員の目を欺いてまで、
雅子さんとの密会の機会を作ったりしていたようである。

一度は破談になった雅子さん本人は、一時他の男性との結婚を考えていた
とも言われているが、父親の小和田恒氏が、娘を皇太子妃にするという野望を、
決してあきらめることはなかった。
そして雅子さんも、結局は父親がひいたレール以外は歩いたことのないひとである。
結婚も、親の言う通りの道を進んだのであった。

【雅子さまの背景にあるもの】

1月6日のスクープから約2週間後の1月19日、皇室会議が開かれ、
雅子さまは皇太子殿下(当時)の婚約者として内定した。
この時、全会一致ではなく、昭和天皇の弟、三笠宮崇仁親王殿下は
婚約反対の意思を出されたとされている。

そして6月9日、お二人は晴れて夫婦となられた。
皇族の結婚式が行われる賢所での、十二単に身を包んだ雅子さまは、
非常に険しい表情をされていたが、白のローブデコルテに着替えられると、
明らかに幸せいっぱい、喜色満面の笑みを浮かべられていた。
皇太子殿下(当時)の方が、これからの苦難の日々を何となく予感されてのことなのか、
どこか神妙なお顔をされる場面が多かった。

1993年の世紀のロイヤルウエディングがあった当時は宮沢内閣、
河野洋平氏が内閣官房長官、
そして、外務省次官が皇太子妃の父となった小和田恒氏だった。

ロイヤルウエディングより2か月後の同年8月、
その後、長期にわたって日本を苦悩させ、日韓関係を狂わせる
あの「河野談話」が発表されるのである。
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反日左翼・・・小和田恒氏の事ですか?
確かに小和田恒氏は反日左翼ですね。
・持論のハンディキャップ論で日本の土下座外交の基礎を作った。
・竹島の韓国不法占拠に対して日本が対処する事を止めさせた。
・カルトである創価学会の池田大作の外遊に際して便宜を計った。
・雅子さまの愛読書は大江健三郎

確かに小和田は反日左翼思想の持ち主です。
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当時、新聞社は既に斜陽産業だったが、朝日新聞などの左派メディアの勢いは
まだまだすさまじかった。
マスコミの号令で時の政権を操作することは十分可能な時代であった。

いまから27年前、様々な人々の思惑を背負って皇室に嫁がれた雅子さま。
2018年の6月9日には今上天皇陛下と銀婚式を迎えられた。

昭和天皇の反対などから、一時は立ち消えになった雅子妃のお妃候補だが、
昭和天皇の崩御を見澄まして、ゾンビのように再び復活し、
小和田恒氏の息のかかった外務官僚らの執拗な工作が功を奏し、
ついに結婚が実現することになる。皇室の受難の時代の始まりであった。














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