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2019年11月29日12:01

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マッカーサーを感動させた、昭和天皇のお覚悟と天真の流露

昭和20年(1945)9月27日、昭和天皇がダグラス・マッカーサーを訪れ、会見しました。

歴史的な会見として知られます。

昭和20年8月15日、玉音放送によって、日本の敗戦が国民に知らされました。

この時、昭和天皇が心を痛めていたのは、自分の臣下であった者が、

戦争犯罪人として裁かれることでした。

「自分が一人引き受けて、退位でもして、収めるわけにはいかないだろうか」。

8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着。

その3日後の9月2日、東京湾に入った戦艦ミズーリ艦上において、

降伏調印式が行なわれました。

マッカーサーは、以後、政策立案は連合国総司令部GHQが行なうと日本政府に通告。

GHQは本部を皇居の隣に移すと、9月11日、事前通告なしに

東條英機元首相をはじめとする37人を戦争犯罪人として逮捕、拘留しました。

前日、アメリカ議会では、昭和天皇を戦犯として裁く決議案が提出されています。

その少し後のこと、新たに外相となった吉田茂が昭和天皇に招かれて宮中に赴き、

マッカーサーに会いたいという意向を告げられました。

9月20日、吉田は天皇の意向をマッカーサーに伝えます。

マッカーサーは自分が天皇にお目にかかるのはよいことだと思うが、

天皇の自尊心を傷つけたり、困らせることがあってはならないとして、

アメリカ大使公邸での会見を告げました。

9月27日午前10時。シルクハットにモーニングの正装の昭和天皇を乗せた車が、

アメリカ大使公邸の門を潜りました。

もちろん、これはただの会見ではありません。

側近たちは天皇のお命を心配し、天皇ご自身は自分に

日本人と皇族の運命がかかっていることを承知されていました。

公邸玄関にマッカーサーの姿はなく、2人の副官が出迎えます。

マッカーサーはレセプションルームで天皇を出迎え、奥の部屋に案内しました。

会見が始まる前、写真撮影があり、その中の一枚が教科書にも載っている、あの写真です。

昭和天皇は、木戸内大臣にそう洩らされたといいます。

写真撮影後、2人の会見が始まりました。

そこでどんな会話が交わされたのか、公式の記録はありません。

しかし、マッカーサーは回顧録に次のように記します。

「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって

日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、

責任を負うべき唯一人の者です。

あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』

――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、

明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に

私は激しい感動をおぼえた。

私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」

(『マッカーサー回顧録』1963年)

また、この時、同行していた通訳がまとめた天皇の発言のメモを、

翌日、藤田侍従長が目を通しています。藤田は回想録にこう記します。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。

『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。

文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。

私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、

連合国の援助をお願いしたい』

一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、

マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。

『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、

世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。

占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、

これすべて陛下のお力添えである。 これからの占領政策の遂行にも、

陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」

と、マッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)。

会見は当初、15分の予定でしたが、35分にも及び、会見終了後、

マッカーサーの天皇に対する態度は一変していました。

感動した彼は予定を変えて、昭和天皇を玄関にまで出て見送るのです。

マッカーサーの最大の好意の表われでした。

人を動かすものとは何か、昭和天皇のお姿が、すべてを語っておられます。

日本がまな板の上に乗せられたあの時に、昭和天皇がいらっしゃったことは、

日本人にとってどれほど大きな意味があったか、そんな気持ちになります。


■「天皇無き日本」の統治を恐れた、マッカーサーの極秘文書
ハリー・トルーマン大統領(1884〜1972)は、1945年10月18日の記者会見で、

「日本国民が自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与えられるのは良いことだと思う」

と発言。

ソ連、中国、英国、オーストラリアでは、昭和天皇を戦犯として裁く世論が沸騰しており、

米国内でも天皇を戦犯として裁いたほうが良いという意見が強くなっていた。

東京裁判のため、米国からジョセフ・キーナン首席検察官(1888〜1954)が、

1945年12月6日午後7時、38名の部下を引き連れて厚木に降りたった。

キーナンは、シカゴの大物マフィアであるアル・カポネ(1899〜1947)を告発し、

全米で最も悪名高いギャング王を牢(ろう)に放り込んだ敏腕検事だ。

キーナンは検事総長の補佐官として、全米のギャングや誘拐事件を担当し、才能を発揮した。

彼は、暴力団専門であった。日本の「A級戦犯」はギャング集団と見られていたのだろう。
 
翌12月7日、キーナンは帝国ホテルで記者会見をした。

12月7日は「真珠湾攻撃」の日(アメリカ時間)。その日を選んだのは、もちろん偶然ではない。

 問:「天皇陛下をどうか」
 答:「自分の口からは何ともいえない」
 問:「戦争犯罪人の追及はいつまでさかのぼるのか」
 答:「1937(昭和12)年7月である
   (筆者注・近衛文麿が首相のとき起こった盧溝橋事件にまでさかのぼる)」
 問:「真珠湾攻撃の責任は」
 答:「真珠湾攻撃の責任は爆弾を投下したその人ではなく攻撃計画を立案、実施した人である、   自分は日本の侵略戦争、宣戦布告なき戦争を挑発したその罪科を指摘したいと思う」

(『朝日新聞』1945年12月8日)

東京裁判の首席検察官キーナンは、「卑怯者」を死刑にするために来たのだ。

ところが、キーナンの態度を急変される事態が起きた。

ダグラス・マッカーサー元帥(1880〜1964)は、日本に上陸してわずか5カ月後、

日本国民の日常生活の中で、その精神文化の中で、

天皇がいかに重要な存在であるかを完全に把握した。

天皇を死刑にすれば、日本は崩壊し、マッカーサーの統治は不可能となる。

天皇は生かしておかなければならなかった。

天皇の権威を理解したマッカーサーは、米国の対日占領には天皇の温存、利用が

必要だと判断。

1946(昭和21)年1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛てに3ページに

びっしりと文が詰まっている極秘電報を打った。

この電報が天皇の命を救う。1975(昭和50)年4月24日に公開された
(西鋭夫『國破れてマッカーサー』中央公論社、1998年)。

内容の要点は以下の通りである。

「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。

その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば、日本国家は分解する」

連合国が天皇を裁判にかければ

「(日本国民の)憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐のための復讐は、

天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、

その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある」

「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、

山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、

近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、

引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」

「(そのような事態が勃発した場合)最低100万人の軍隊が必要であり、

軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、

公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数10万人にのぼることになろう」

そして、陸軍省をこれだけ脅かした後、

「天皇が戦犯として裁かれるべきかどうかは、極めて高度の政策決定に属し、

私が勧告することは適切ではないと思う」と外交辞令で長い電報を締めくくった。

マッカーサーの描いた「天皇なき日本」の悪夢に満ちた絵は、

彼の期待どおりの奇跡をもたらした。

この電報を受け取った陸軍省は、すぐさま国務省(バーンズ長官とアチソン次官)との

会議を持つ。国務省と陸軍省は、天皇には手をつけないでおくことに合意したのだ。

マッカーサーにとって、日本占領を円滑に行うには天皇が必要だった。

天皇が退位する可能性もあったので、マッカーサーは、天皇に思いとどまらせるため

全力を挙げていた。

天皇が退位すれば、日本の共産主義者たちが有頂天になり、大混乱をもたらし、

己の政治生命が危ういと恐怖を感じていたのだ。

マッカーサーが陸軍省に打電した長い極秘電報は、天皇を救った「蜘蛛の糸」だったのか。

いやそうではない。

今にも切れそうな細い「糸」にぶら下がっていたのは、マッカーサー自身だったのである。






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