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2019年10月17日11:20

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DEEP PURPLE を解散に追いやった(と言われている)ギタリスト

トミー・ボーリン(Tommy Bolin, 1951年8月1日 - 1976年12月4日)は
アメリカ人のロック・ギタリスト。

本名トーマス・リチャード・ボーリン。アメリカ合衆国アイオワ州で生まれる。
12歳からドラムを始め、その後ギターを弾き始める。オルガンも経験していたらしい。

いくつかのアマチュア・バンドを経て、1968年、ハードロック・バンドの
ゼファー(Zephyr)のギタリストとしてプロ・デビューを果たす。
3年間在籍した後、エナジーというバンドに移籍。
さらにエナジー脱退後の1973年、フルート奏者のジェレミー・スタイグの紹介により、

元祖手数王ビリー・コブハムのアルバム「スペクトラム (Spectrum) 」に参加し高い評価を得る。

その後、商業的に成功していたアメリカのバンド「ジェイムス・ギャング (James Gang)」 に、
ドミニク・トロイアーノの後任として参加。
ジェイムス・ギャングの初代ギタリスト、ジョー・ウォルシュの推薦によるものだった。

トミー・ボーリンは当時としては画期的なまでにファンキーなリズム感、
トリッキーなフレージングに富んだ、極めて先鋭的なギタリストだった。

1974年7月にジェイムス・ギャングを脱退した後、セッション活動の傍ら、
自身初のソロ・アルバムである「炎のギタリスト(Teaser)」の製作を開始する。

※同アルバムの参加ミュージシャンには
ボビー・バーグ、スタンリー・シェルダン、デイヴィッド・フォスター、ジェフ・ポーカロ、
フィル・コリンズ、ヤン・ハマー、グレン・ヒューズ、デイヴィッド・サンボーン、
ナラダ・マイケル・ウォルデン等、後年音楽シーンで活躍するメンバーが名を連ねている。

1975年、リッチー・ブラックモアが脱退したディープ・パープルの
ドラムスのイアン・ペイスの自宅にジョン・ロードが赴いた際に聴いていた

ビリー・コブハムのアルバム「スペクトラム」収録の、「Quadrant4」で
トミー・ボーリンが演奏していた猛烈なギターソロに衝撃を受け加入を打診したという
有名なエピソードがある。

更にこのアルバムを愛聴していたデイヴィッド・カヴァーディルが後にパープルへの参加を
トミー・ボーリンに呼びかけたのは有名な話でもある。

また、当時のメンバーだったグレン・ヒューズは、トミー・ボーリンの加入には、
デヴィッド・ボウイの協力があったとも述べている。

1975年6月、イギリスのハードロックバンド、ディープ・パープルに、
リッチー・ブラックモアの後任ギタリストとして正式に加入する。

アルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste the Band)を発表。
従来のパープルのイメージを覆すファンク色の強い内容は大きな話題を呼ぶ。

しかし、バンド内でのボーリンへの高評価とは裏腹に、パープルにクラッシックテイストを
求めるファンからは大きな拒否反応をあびることになってしまう。

アルバムリリースをした後、ワールド・ツアーにも参加するが、
1976年7月にディープ・パープルは人気が再浮上することなく解散してしまう。

残念ながらリッチー・ブラックモアの後任という立場からパープルファン&リッチーファンからは
あまり好意的な目では見られていないようだ。

その後は自らのバンドを結成し、2枚目のソロ・アルバム「魔性の目(Private Eyes)」を発表する。

1976年12月4日、ジェフ・ベックのツアーの前座として参加していた時、
フロリダ州マイアミのホテルにて死去。25歳。

死因は、麻薬の過剰摂取 (オーバードース) であると発表された。

麻薬常習者であった彼の身体異常は、ディープ・パープルのツアーの時点で
既に表面化しており、ラスト・コンサート・イン・ジャパン (Last Concert in Japan) では
手と指の麻痺によってボトルネックギターしか演奏する事が出来なかったと言われている。
※後に東南アジアでの粗悪なヘロインの摂取が原因だと判明する。

近年ではアルバムの再発などによって再評価する声があるものの、
当時はこれらの件のために、「ディープ・パープルを解散に追いやった下手くそギタリスト」
の烙印を押されてしまう他、

ソロアルバムでのジャズとロックの融合もジェフ・ベックが美味しい所を持って行ってしまう等、
最近では「悲運のギタリスト」と呼ばれている。

トミー・ボーリンの凄さは、
どのような音楽スタイルでも、そつなくこなし、それが当時の一級品であったこと。
カヴァーディル、グレン・ヒューズの2人に与えた影響が多大であった事が挙げられる。

「カム・ティスト・バンド」での2人の歌声のはずみ具合を聞けばお解かりいただけるだろうと思う。
2人とも実に伸び伸びと歌っている。

パープル解散後ボーリンとバンドを組むことを望んでいたデイヴィッド・カヴァーディルは
それが叶わぬとソロアーティストとして活動を始めた。(後にホワイトスネィクに繋がって行く。)
グレン・ヒューズは未だにボーリンのことをベストフレンドと語っている。

03年発売されたディープ・パープルの「ライブ・イン・カリフォルニア・ロング・ビーチ・アリーナ」
このLIVEでトミー・ボーリンは腕の麻痺も完治し最高のパフォーマンスを聴かせてくれいる。




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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年10月17日 18:03
    > mixiユーザー あの悪夢のLIVEアルバムはリリースするべきではなかったですね。レコード会社も配慮してあげるべきでした。あの1枚のせいで、ボーリンは「下手くそギタリスト」 呼ばわりされてしまったんです。ドラッグのせいで、地位と名声を失いましたね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年10月17日 20:23
    https://www.youtube.com/watch?v=B9nE2EQwa18

    トミーボーリンの「ソロアルバム」・・・元来、ボーリンは、こんなサウンドがお気に入りだった・・のか? DPとちゃう
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年10月17日 20:36
    > mixiユーザー トミー・ボーリン加入後のDPは、リッチー在籍時の「クラシカルロック」とは異なる、別のBANDだと思った方が正しいのかもしれませんね。※カヴァーデイル・ヒューズ加入の時点でDPは、ファンキー路線に傾いていましたよね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年10月17日 22:12
    DPにファンキーなものを〜ねぇ。

    第3期リッチー 第4期がボーリンで、"解散"〜1985年阪神(吉田監督)優勝の年に"第2期メンバーで再結成"(大阪城ホールにギランとリッチーがいた)

    1992年12月〜リッチー脱退→サポートが、ジョーサトリアーニ。(リッチーの代打)

    まあまあ、このあたり、リッチー脱退 復帰。ギラン脱退復帰する〜なんだいなあ
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年10月17日 23:10
    > mixiユーザー 1984年〜85年の「Perfect Strangers」での再結成(集金結成と揶揄されていますが)が再結成はピークでしょう。

    次作の「The House Of Blue Light 」は、既にネタ切れ感満載でしたし。1作だけの再結成にしておけば・・・う〜ん、どうでしょうね

mixiユーザー

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