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2020年09月19日09:28

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オメラスから歩み去る人々

何度か取り上げている内容であるけど、人や子供を育てる為には一番大事な内容と思う。

仕事でも「これが本当の幸せなのか」という事も多々ある。

一人の子供を地下牢に閉じ込めてることで平和を維持できる。
だがその子供を少しでも手を差し伸べれば一気に平和は崩れ落ち不幸になる。

ある一定の年齢になればその一人の子供の存在を知らされることになる。
けれど皆は何も言わない。その存在を知りつつも。


これとよく似たものは「いじめ」だ。
一人がいじめられてる事で、その人一人を犠牲にすることで秩序は保たれる。
秩序が保たれるというのは、いわば「いじめられることがない」ということ。
だから見て見ぬふりをする。先生に言ったりいじめられてる人を庇えば当然、
自分自身も「いじめ」の対象となってしまう。
そして天秤にはかると結果的に秩序を保つ方を選んでしまう。

幸福とは何か?犠牲の上に成り立つ幸福に価値があるのか?犠牲なく幸福になりえることは可能なのか?結局のところ幸せになる為にはそれなりの対価(代償)や犠牲を払わなければならない。これが現実社会である。

では「いじめ」等も「仕方ないことだ」と見て見ぬふりをする事が正しいかと言ったら
そうではない。たしかに見て見ぬふりをすれば当然一人の犠牲だけで自分たちはいじめの対象とならないのであれば「しあわせ」と感じるだろう。その部分だけでは。ただ、別の幸せを作る方法ある訳である。
例えば「周囲が望まない幸せ」であれば当然「幸せではない」訳だから、個々で動いたとしても無理なわけで同じ共感を得る人たちで「それは違う」と問いただす事で「新たな幸せ」を構築することはできるのではないか?

虐めに関しても周囲大勢多数が「いじめはダメだ」と言い「加害者側」を屈服させることで秩序は保たれ、幸せも保たれる。そして被害者側も助けられる。
そして新たな「幸せ」が構築でき、秩序も守られる事になる。

その「変える」勇気があるかどうかが問題だ。
オメラスから歩み去る人々というのは苦悩した結果オメラスから去るという選択肢のみ
しか残されていなかった。それは大多数の人間が彼の存在が薄れてる事で、慈悲など感じる事もなくなったからである。虐めも同様で最初は可哀想だと思ったりするが、次第に慣れてくれば習慣の一部、日常の部分的なことだと思うようになり薄れていく。そして助けてやろうと思って手を差し伸べれば自分バカを見ると思い見て見ぬふりをする行動しかできなくなる。結果的に問題から目を背け去った人は後からになって「いじめがあった」という訳である。

人間として倫理的にどうかと言ったら個人的な見解としてはNoだろうと思う。

人は誰でも幸せになれる権利はあるし、なれる可能性もあるわけだ。
それを一人を犠牲にして皆の幸せを保たれるというのはどうかと思う。

生死にかかわる仕事をやっているが、
亡くなりそうな方に妻は無理やり食事をとらせ、熱が出れば点滴しろと我がままを言う。
家族も家族で他人ごととして話す。
職員も職員で言えない立場だから可哀想だと思ってても言えない。
言ったとしたらすぐにクレームをつける人であるから。

その状況化はまるで「オメラスから歩み去る人々」と同じ境遇なわけだ。

その人の人生はその人のものである。例え寝たきりになろうと認知症になろうと
その人自身はその人なんだよな。生きるか死ぬか、ご飯食べるか食べないか、
点滴したいかしたくないか等々の権利はその人自身が選ぶべきである。
でも意思疎通、認知によって言えなくなるとその人自身の事でも生き死にを選ぶのは
結果的に家族となる。でも家族っていわばその人自身ではないでしょう?
自身が思ってても家族が違うと言えば家族の意向がまかり通ってしまう。
それは不自然なことでしょう???
そういう葛藤もある。

その方は亡くなりました。家族の行った行動というのは明らかに間違っており、
ただの自己満足でしか過ぎない。ばかばかしいと感じる。

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