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2017年01月07日06:24

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「人生は帰らざる河なのだ」−−映画「帰らざる河」批評、わが賛歌。           塩見孝也

●僕は、前映画批評・「女群、西部へ」で、僕が惹かれている西部劇は三つあることを表明しておきました。残りの映画として、「帰らざる河」と「大いなる勇者」を挙げました。この三つの西部劇は、なんとしても批評しようと天蚕糸(てぐす)をひねって待っていたのです。すでに「大いなる勇者」の方は、録画済みで、この「帰らざる河」に続いて批評すべく準備しています。
 「帰らざる河」はいろいろ手を尽くし、八方探していたのですが、なかなか見つかりません。ところが、12月20日、BS3チャンネル・プレミアムシネマでリバイバル上映されることを知りました。僕は天にも昇る気分で、録画し、今回批評したのです。
 気になる映画の批評を書くことは、自分を分からせてくれ、かつ癒してくれます。
●名画と言われるものは、人の心に突き刺さる軸芯となる詩情を探り当て、それをシンプルに凝集させ、歌い上げる。オットー・プレミンジャー監督は原作者(フレイス・ランツ)のモチーフを十分に汲み取り、手練の脚本家、カメラ映像家、音楽家をスタッフ化し、綜合芸術としての映画を作りをしてゆく。又こういう陣容作りと並行してか、あるいは原作の映画化を決意したもっと最初の段階で、しかるべき俳優が誰かを、イメージしつつ選定してゆく。 
 この選定に合わせ、脚本、カメラ、音楽構想を上記の段階で、整除しながら作ってゆくのであろう。監督は、映画主題歌の出来が、その映画の興廃を決めるであろうことを熟知していたであろう。 こうして、すでに酒場の歌手のケイはマリリン・モンロー、開拓農民の父子、父のマットはロバート・ミッチャム、9歳の息子マ−クは子役、トミー・レティブと決まってゆく。イカサマの賭博師ハリーはロリー・キャールハンとなる。
●原作の舞台、「帰らざる河」は、アメリカ領なのに、映画の主要なロケ地は、カナダ領、北部ロッキー山脈の裾野のアルバータ州、サスカチ湾州に跨るバンフ国立公園である。ここに画面に登場するアサヴィスカ河やボウ滝がある。アメリカ領内のポー河、スネーク川も使われたが、副次的なもののようだ。
 何故、カナダ領、カナディアン・ロッキーの河が選定されたのだろうか?カナダ・アルバータ州、サスカチ湾州の川は峻厳な北ロッキーの連山が連なる峡谷を流れ下る。ここはすでに寒冷地帯であり、深い自然を宿す。7大陸の河はいずれも巨大な生命力を有しているが、それぞれの個性があると思う。カナディアン・ロッキーの峡谷を流れ下るこれらの河は、縹渺とし、無窮性を示すが、その特性は何よりも<静けさ>に凝集していると言えるのではなかろうか?
 この静寂性は、自然の深さに呼応して生まれ、誰おもが、ある種の<神韻性>を有しているように感じるのである。
 映画は冒頭で、カメラは北ロッキーの連山とその峡谷、その峡谷を縫って流れる「帰らざる河」の景観を一望の下に映し出す。こういう映像は、カラーでないと映画にならない。
 そして、この雄大な自然に育まれつつも、開拓農民、マットは一人、斧を振るい、樹を伐採し、いくばくかでも開墾地を広げようと労働に勤しんでいる。もうすぐ、一人息子がやってくることも彼の励みになっている。
 監督はこの冒頭のシーンで、「あなたがこれから見ようとする映画は、この様な自然に育まれ、他方でこの自然と闘って生きぬかんとする開拓農民の親子と生活のために酒場を渡り歩き、歌を売って生き抜き、回生しようとしている一人のオンナの物語ですよ」と予告したのであろう。
● 映画主題歌・「帰らざる河」は、素晴らしい。この主題歌があってこそ、この映画は画龍点晴を得るのである。名画は、常に人生を凝縮するような、それゆえにすべての人々の音感に触れ、自然と口ずまされれる様な主題歌を生み出してゆく。シネマ・ミュージックは、一つの芸術分野として、堂々たる価値を持っているのだ。
 この名曲が映画の節目、節目で流れる。これは、男の専門歌手が歌う。いい謡(うたい)であるが、モンローが、最後に、一度だけ情感を込めて謡った「River of no retern] には敵わない。「帰らざる河」とは、二度と帰って行くことができない激しい河、この河の流れに、人は、自らの過ちも正しいと思われる生き様も、すべてない交ぜにして、投げ込み、この流れに人生を託し、下ってゆく以外にはない、と。
 「帰らざる河」は、流れの激烈さ表している、と同時に、人々の人生を意味する。モンローは素晴らしい歌手でもあったのでは?彼女は、大半、酒場で、「1ドル銀貨」「登記」など、やや蓮っ葉な酒場用の歌を謡う。しかし、最後に歌う「帰らざる河」は一番情感が籠もり、詩心に充ちて、人の心をを撃つ。これまで、愛していたハリーは死んでしまい、今は遠くに逝ってしまった。そして、今、自分は難行苦行の河下りを通じて、ハリーとの愛に決着をつけ、マットら父子を愛していることを知っている女である。がそれは、女のプライドに掛けて、自分の口からは言えず、別れを告げざるを得ない、と観念しているのである。
 筏の河下りを闘うジーンズ姿のモンローは、凛々しい限りの勝気で、それでいて、しっとりした西部女を演じる。彼女は、子供の頃歌った「四季の移ろい」をギターで奏でつつ、マイクに歌って聞かせる。これは、酒場での歌とはまったく違う、少女時代に歌った、可愛いらしい童話である。
 ケイは言う。「私、河下りで鍛えられタフになったのよ」と自分の境地を語る。マリリンは、この映画作りを担う過程で、実生活でも、多大な心境の変化をなし、“セックス・シンボル・スター”というハリウッド資本が作り出した逸名から脱却しようとしているのである。しかし、それは、無念にも果たせず、逆に、この逸名に溺れ、ケネディー兄弟と浮名を流したりし、36歳の若さで1962年、自殺してしまう。
 彼女は、ハリウッド資本に利用され尽くし、使い捨てになったのだ。アクトレスが大成するとはどんなことであろうか?果たして大成することなんてあるのだろうか?僕はイングリッド・バーグマンやグレース・ケリー、リズ・テーラー、原節子等を振り返る。
 彼女は、非常に胆力もある、賢い女性であった。であるが故に、このハリウッドの戦略から脱出不能を悟るや否や、“狂”に徹し、華々しく散っていたのだろう。彼女こそ、悲劇の大女優といわれるにふさわしいし、<大成>はこういった形しかなかったのであろう。モンローを偲ぶ沢山の女性達が、今、増えているのである。

 誰でもが口ずさむ、この歌のさわりの部分を紹介し、僕流の訳をつけてみます。
Tere isu a ribver calld the river of No retern。 Somtimes its peaseful and sometimes wild and free
(帰らざる河と呼ばれる河がありました。時には穏やかで時には、激しく荒れ、傍若無人の河。)
Love is a traveller on the rever of no retern.Swept on forever to be lost,in the stormy sea
(愛はこの帰らざる河に乗って下る旅人。最後は、荒れた大海に、飲み込まれ、いつもいつも永遠に消えて行く。)
 ともあれ、この映画への出演時、モンローはこれまでにないほど、活き活きとしていたことは確かであるし、映画ファンは、モンローが始めて西部劇に出演する、そして謡うということで、全世界で、又日本でもしきりに噂になっていた、のを思い出す。
● 映画は、二種類の動機から成り立っている。ひとつは、対自然との闘い、(ここに、先住
民との闘いも含ませます)。そして、もう一つはイカサマ賭博師、ハリーの不意打ちの暴行による銃と馬泥棒の行為をどう見るか、これを是と見るか、非と見るか、許すか、どの程度許すかにおけるマットとケイの対立という動機です。この二種類の動機のうち前者は、3人が無事、目的地のカウンシル・シティにたどり着いたことで消失してしまいます。しかし、後者の動機は、逆に激化して行き、殺し合いへと発展してゆくます。決着をつけない限り、マット、ハリー、ケイ、マイクの4人は身動きがとれず、前に進んで行けないからである。そして、決着は、意外な展開を見せるが、最終チャプターで、身を退かんとするするケイに対して、新しい家族を出発させようとするマットの提案がなされ、ケイが、それを受け容れてゆくこととなる。3人の対自然との闘いでの共同・協同・協働性が、この正しい最終決着を、すでに準備していたからである。すべてのチャプターは、この二種類の動機が絡み合って4人の行動と意識の変化を規定して行きますが、この二つの動機をしっかりと押さえておけば、各チャプターの展開は、それほど複雑ではなく、むしろシンプルな弁証法的展開であることが分かる。
 先住民との闘いを対自然との闘いの部分に監督も僕も含ませましたが、それは、以下の様な謂いを踏まえてのことである。カリフォール二ヤなどでの金鉱の発見、<欲ボケ(マットの批判的な言説)>になった人々が、狂気を孕んで、ゴールド・ラッシュし、先住民の平和的な生活環境を壊していったことがしっかりと押さえられておくべき。雑貨屋の親父は、「狂気の一攫千金を狙う白人のラッシュ、それに続く先住民の頻発する白人襲撃の殺しの行動」の悪循環について、「一体、今の時代はどうなっているのだ」と慨嘆する。これが、当時の時代性であった。この構造は、今でも、資本の利潤追求第一での資源開発とそれに抵抗する自然を神と観じ、そこに先祖が宿ると見る先住民という構造で、アメリカで続いています。
● あらすじをチャプターを追いつつ紹介して行きます。既に見ている人には、読むに面倒ですが、若干丁寧に辿ってみます。
 ・マットは親友を守るために、その時の事情で、背後から撃たざるを得なかった。刑務所暮しの間に、最愛の妻は、一人息子を残し死んでしまう。「進む道に迷った時は、振り出しに戻って再出発するのが一番良い」「自分にとって<振り出し>とは開拓者農民である」と息子に述懐する。マットはこう思い定め、ゴールド・ラッシュには目もくれず、あるいは、先住民の襲撃にも物怖じせず、せっせと開墾に励みつつ、出獄後、一人息子を呼び寄せるのである。ロバート・ミッチャムは、朴訥だが堅実で、逞しくて、英知ある西部男、マットをどっしりと演じている。この風格は「眼下の敵」、ドイツ・Uボートの艦長、クルト・ユールゲンスと張り合う駆逐艦長の演技に引き継がれています。9歳の息子マ−クを演じる子役、トミー・レティブは、マット、ケイ、ハリーを繋ぐ重要な役どころであり、鑑賞者の疑問、質問を解いてゆく、もっとも純で、計算なしの隠れた先導者といえる。
 ・ケイは生きるために酒場の歌手となった。イカサマ・賭博師ハリーと恋人関係、二人は結婚しようとしていた。
 ハリーは馬と銃をマットから不意打ちで強奪し、カウンシル・シティーの鉱山の登記を図らんとする。ケイは、ハリーが傷つけたマットを看病しようと残ることを提案する。ハリーは承認し、登記したらすぐ帰ってくると約束し、一人で出立(しゅったつ)する。
 ・ 先住民が襲撃してきて、無防備ゆえに、家を焼き払われ、遭難の可能性が高いにもかかわらず、筏で河下りする以外に延命の方策はなく、3人はそうしてゆく。
 ・ 最初から、難所。第一の難所。なぜ、この河が「帰らざる河」といわれる由縁が示されるほどの急流、激流である。マットとケイで、舵兼櫂の二丁櫓を操る。ケイが、疲労、飢え、寒さ、心労でダウン。洞窟で休養。マットはケイをマッサージしたりして、優しく労わり、看病する。ケイは、マットを見直してゆく。
 ・ ケイは、ハリーについて、マットがどう考えているかを問い、許してやって欲しい、と頼む。マットは、応じられない、とにべなく、対応する。自棄(やけ)になって、ケイは筏を流そうとする。マットは怒る。
 二人の間には、ハリーの馬・銃の盗み、暴行行為をどうするか、での対立が続いているのである。そこには、マットのケイに対する、流れ者の歌手という予断と偏見、軽蔑心も手伝っている。息子マークはハリー許そうとするのだが。
 論争は嵩じて行く中で、ケイは、マットが人殺しで、−−それも背後から撃っての−−監獄にいたことを暴露する。それをマークが聴いてしまう。息子は、父親に不信感を持つ。
 ケイとマークの関係はケイとマットの関係とは異なり、素直に分かり合っており、二人には、母子、年の離れた姉と弟のような親密の関係が出来ている。
 ・ 筏で河下り。二匹のつがいの泳いでいる鹿を見つけ、投げ縄で捕獲する。食料問題はこれで解決。疲労困憊から回復したケイは、河で行水し、元気を取りもどす。ケイはこの過程でマットの立場も理解できるようになり、好意を抱く。その尊敬心をマットに伝える。
 マットの方は、率直なケイの好意表明が理解できず、オトコのムラムラが湧き、強引にキスをし、ねじ倒そうとする。ケイは必死で抵抗する。
 その時、事件が発生する。焼ける肉の匂いを嗅いでピューマ(アメリカ豹)が襲来し、二人の男も寄ってくる。二人の男は、ハリーのいかさま博打で金鉱を奪われかかって、彼を追ってきた来た連中である。
 マットとピューマとの闘争。二人の男の一人が、ピューマを射殺し、マットを助ける。話し合う過程で、二人の素性もわかる。もう一人の男が、ケイに、「一緒に行かないか」と誘うが、ケイは、それを「いくら危険でも、マット達と筏行を共にする」ときっぱりと宣言する。その男が、マットを襲おうとするが、逆にマットによって押さえこまれ、銃と弾丸を手渡さざるを得なくなり、宿営地から、追放される。
 ・再び河下り。次なる事件は先住民の襲来である。激しい戦闘となるが、今度は銃があり、善戦し、寄せ付けない。弾が切れ、3人の先住民が泳いで筏に乗り込んでくる。筏上で格闘し、追い落としに成功する。
 ・ 一難去って又一難。今度は、滝のような段差を持った、この河随一の激流に筏は突っ込む。 
 これが、ボー滝である。マットは、筏から振り落とされるが、舵にへばりつく。その間、ケイは一人で筏を操縦する。こうした激闘の後、3人は無事に、この難所を乗り切ってゆく。河は穏やかな流れに変わってゆく。その向こうにカウンシル・シティーが見えてくる。上陸だ。
 ・ ケイは、何とかハリーを謝らせようと、マットとハリーの会談の前に自分がハリーに会うことを提案する。マットは一応、それを承認する。ハリーは、いい加減で、あれこれ言い訳するが、とにかく会談することだけは受け容れる。
 会談の際、ハリーは隠し持った拳銃で、丸腰のマットをいきなり撃とうとするが、ケイが、すがりつくことで撃ち損じる。さらに、迫(せま)って撃とうとする。マットは絶体絶命の危機に陥る。
 ・ しかし、ハリーはその前に、背後で店にいて、銃を持っていたマークによって射殺される。マークは、父マットを守るため背後から撃たざるを得なかったのだ。そのことで、父が親友を守るために背後から撃たざるを得なかった事情も了解することとなる。
 ・ 困ったのはケイの方である。壊れかかってはいたが、一応恋人であったそのハリーは死んでしまった。さりとて、河くだりの激闘をともにし、尊敬し、愛情を感じ、離れがたくなっていたにもかかわらず、マットやマークには、自分から、その気持ちを言い出すわけには行かない。結局、ケイは、酒場の歌手に舞い戻ってしか生きて行けないと悟る。そして、酒場で歌うのである。恋人は「帰らざる河」のように、引き戻すこともできず、遠くへと逝ってしまった。自分もまた、「帰らざる河」で、やっと見つけ、手に掛ければ掛けられるように近しくなり、離れがたくなっている親子と新たに家族を作り、再出発することをあきらめ、流れて行く以外にない、と。
 このケイ(モンロー)の「リバー オブ ノー・リターン」の謡(うたい)には、悠久な川の流れに託した、自分の人生の嘆きが込められていた。最高の哀切さ、詩心が込められ、酒場のオトコ達は聞き惚れてゆく。
 ここで、マットが登場し、ケジメをつけねばオトコではない。
 マットがやってきて、歌っているケイをいきなり肩(かつ)ぎ上げ、足をばたつかせているケイをマークが待つ馬車に乗せる。「いったい、どこに行くの!」「家だ(マイ・ホームだ)!」とマットがぶっきら棒の答える。これは、ケイが待ち望んでいたが、決して自分の方からは言い出せなかったマットのケイへの求婚の言葉であった。 ケイはマイクを抱きしめ、その求婚を喜び、酒場で踊り、歌う際の商売道具のハイ・ヒールを馬車から投げ捨てる。
 男と女は、互恵・互助の平等の愛情関係に立っている、と思うが、(そう信じたいが)、とは言え、個別の男と女の関係においては、その人生の艱難の折節を乗り切って行くに足るような、<運命的出会い>が必要である。これをもって、オンナ達は「<運命の人>との出会い>」と言うのであろう。マットとケイ、そしてマークは、「帰らざる河」で、この「運命的出会い」を知らず知らずのうちに、既に成していたのである。
 そのことを、マットもケイもマークも最後のどん詰まりで、悟り、互いに家族となる機会(チャンス)を逃さないのである。

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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年01月08日 07:51
    チェラさんへ
    丁寧なコメントしてくださって、ありがとう。世界の枠組みとそこでの変化について意見が一致していることを喜んでいることだけを、前もってお伝えしておきます。
    あなたのコメントには、重要なので、別途に日記を書き、みなサンに、紹介し、僕の意見展開をしようと考えています。今年も、よろしく。

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