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2016年11月23日12:52

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 アニメ映画「[君の名は」批評。           塩見孝也

●新海誠監督の長編アニメ『君の名は』が8月の封切以来、評判となっており、興行成績もこの5〜6年位ではではダントツに良い。これは、アニメ映画の興行成績において5本の指に入ると報道されています。この作品は、中国ら世界から注文が多数来ていることや、最初は若者層、そして今は、熟年層も含め 年配層に引き継がれて観客数は減らないままであることなどからして、興行成績はもっともっと上がるであろう。
 映画そのものが動員力を失っている現代では、どういった、比較方法をとるかにもよるであろうが、この成績は、戦後創作された全映画の中でも、5本の指に入る、と言えるのではなかろうか。.
 かくなれば、一応は観て置くべきであろうと思い、出不精の僕は、遅ればせながら、近場(ちかば)の西武池袋沿線近くの某映画館に足を運んだ次第です。
 観終わった感想としては、「一度は、観て置くに越したことはない映画であるが、それ以上ではない」に落ち着かせるつもりでしたが、それでも、どうも腑に落ちず、三日三晩ぐらい、この映画について、あれこれ考え続けました。
 いろんな批評が雑然と僕の中に渦巻き続け、とうとう僕は可なり強度な歯痛に襲われる始末と相成りました。
 そして、「この映画のテーマは、何であるのか」に的を絞り切り、映画批評の方法を設定し、テーマを確定した段階で、各分野毎の批評順序もしっかりと確定して行き、やっと僕は落ち着きを取り戻しました。そうすると、「なんでこのような映画名をつけたか」などにも思考が及び、1953年の菊田一男の同名の「君の名は」(旧「君の名は」と言っておきます)と比較したりすることも出来、ある面で、このアニメを戦後映画史から捉えて行けるようにもなりました。 
 こうして、僕は、簡単な映画評をミクシー書いてみよう、と思い立ったのでした。
●主人公の男女が入れ替わったりするのは、今の時代の御馴染みの手法で別に珍しくは
ないのですが、この監督の手に掛かると、入れ替わった男女の心理、精神描写が、活気を帯びて行き、外界も全く別の様相を持って登場してくるし、入れ替わった事態で見る≪夢≫の映像化は特に印象深かった。 時間を前後させながらのストーリー展開は、やや観客を戸惑わせ、理解しにくくさせているのでは、とも感じました。ともあれ、何といっても、この作品が持つ、自然描写が、首都東京と対比されつつ美しく表現されているのは素晴らしい限りであったこと。又、自然描写に限らず、直近の現代日本社会の実像を、優れた映画音楽を取り入れつつ、その文化、政治、思想状況、堅苦しくいえば、庶民の労働し、生産し、生活する実像を映像化していること。これが、極めて的確で秀逸なのです。特にこのアニメの窓ともなる、高校生の男女の生き様、恋愛模様のきめ細かい描写は秀逸でした。新海監督のアニメは、数本あると知りましたが、監督はこの方面のエキスパートのようでした。
 彗星落下の場所、「糸盛町」は岐阜県の山奥、飛騨市ではないか、とされていますが、僕も含めた大方の見当は、長野県諏訪湖の沿岸と思われます。どうも新海にとってこの付近は何らかの思い入れのある地域のようだ。新海のこの地域の自然や≪結び≫やお神楽などの習俗描写は彼の古神道(天皇なき縄文期の神道、シャーマニズム・アニミズム)の素養を示しています。
● だが、このアニメ映画は、如何に自然描写、或は、社会描写を卓越させ得るかを目的、テーマとしているわけでは全くないと思う。
 結論から言えば、このアニメのテーマは、現代の時代の日本・世界を日々を生き歳、生きる人々が押しなべて予感する、≪不安≫をどれほど、アニメの手法を使って、如何ほど映像化してゆけるかに設定されていると思う。
 この≪不安≫は、あらゆる方面で、覚知されつつある、世界の≪破局≫が近づきつつある、という予感のことなのだが、にも関わらず、それは、はっきりしているようで、実は茫漠とし、得体が知れないような事柄であり、ある程度、(唯物論の)科学で措定出来るにせよ、そこには、沢山の零れ落ちる問題があるわけで、その真の正体をアニメという手法で、如何ほど全体的に具象化、映像化するか、このことにこの監督のテーマ設定があったのでは(監督がこれを、しっかりと、目的的に、強く意識化していたか、は別にして。結果としては。)と僕は結論しました。
 とは言っても、監督は、科学の限界を、宗教やその終末思想で、安直に補完しよう等とは夢にも考えていない。監督は、科学を前提にしつつも、その限界を、アニメ言葉を使って、独自のリアリズムの映画表現でもって「不安」の正体を、全方位的に描き出そうとしているのであろう。
 現代は「<世界の破局>が近づきつつある」ということにおいて、以前の時代とは比較にならない程、より具体性、確実性を帯びて感じ取られる時代である。
 監督はこのような≪不安感≫を天変地異の彗星落下の仮説を持ち出したり、男女高校生の恋愛模様を通じて、それも男と女が入れ替わりや、そこから生ずる≪夢≫を、想像的に措定、表現しようとしたものと思われます。
●一見、物質的「豊かさ」と「平和」な日本の状況。しかし、一皮めくれば、これを切り裂くよう様な障害者の大量刺殺事件らら無数のこれまでは予測されもしなかったような悲惨な事件の激増、生き辛さ。沖縄での米兵による数々の女性への暴行事件、朝鮮国の連続核実験やミサイル発射。朝鮮半島や東と南のアジアの不安定極まる領土紛争の事態、アラブ、アフリカの果てしない殺し合いの状態、テロ、難民――或は、これまでとは、まったく、質の違う時代への転換を予感させるような大統領選挙戦が太平洋の向かい側の国では展開されていた。
 このような、不安定極まる国際情勢!或は、数を恃んでの安倍政権の9条改憲や原発再稼動、核独占国への追随の事態、集団安保や沖縄問題、南ス−ダンへの自衛隊のもう一段ギヤーアップした派兵の事態。
 以上は、政治言葉で語られる不安の諸事象であるが、新海はこれを芸術表現としてのアニメ言葉を駆使し、表現しようとする。 アニメ言葉の方が、ある面で、より深く、広く、本質に迫れることもあるのである。
 彼は一方で彗星落下の悲惨な事態に象徴させ、他方では、自然の美しさや恋愛の行方のハッピーエンドの未確定性、その分だけの<すれ違い>のもどかしさとして、このような不安を表出しようとしているのであろう。旧「君の名は」では、度重なる<すれ違い>はあったにしても、真知子と春樹は、結局は<得恋>し、ハッピーエンドに終る。しかし、この新「君の名は」アニメでは、互いに<運命の人>として意識化してゆくようにはなるが、最後まで、すれ違いのままで、<得恋>で終わらないのである。
● 何で、このアニメが「君の名は」となったのであろうか?「(旧)君の名を」を知らない若い世代とは違って、僕等戦後直後(或は、最後の戦中派)世代派は、自然にこう考えます。
 それまで、ラジオで放送され、その後、松竹で、1953年映画化された「君の名は」は、「国民的映画」となった。菊田一男原作、佐多啓二と岸恵子演ずる春樹と真知子のラブロマンスで、この映画もすれ違いが重なるもどかしさがポイントではあった。しかし、新「君の名は」はハッピー・エンドで終らないのである。
 旧「君の名」は、朝鮮戦争があり、やっと日本は、「敗戦」の痛手からの立ち直りを掴みかけてきた時代である。 数寄屋橋で出会った互いに名も知らぬ恋人同士は、一つのりんごを分け合うような未だ日本が貧乏国であったような時代の物語であった。
 しかし、貧乏ではあったが、貨幣物神の合理主義は、未だしょうけつしていず、男女の平等もやっと緒に就いたばかりの時代であったろうが、生きるためのある種の理想、目的、希望がしっかりとあった時代のことである。
 大局的に見れば、活力と明るさが差し込み始めた時代であった。この意味で、宮水二葉と溝口俊樹が抱えるような、現在進行形の≪不安≫な時代ではなかった、と言って良い。
 
 あれから、71年が過ぎようとしています。この≪不安≫を乗り越えてゆくには、全ての日本民衆、国民が、真に自主、自立し、強い意志を持ち、協働、共同し、自力更生で、インターナショナルに闘い抜き、与えられたものを真に自分の思想的、政治的営為でもって変革して行く以外に道はないと思います。
 日本民衆は、自己の運命の主人として生き抜かなければなりません。
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