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2015年10月19日04:16

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田宮高麿同志逝去20周年を記念して、彼を偲びます。     塩見孝也                    

 田宮高麿が1995年11月30日亡くなってから、20年が経とうとしています。
 53歳でした。何と夭逝だったでしょうか。苦労したのでしょう。
 第二次ブントと赤軍派時代、彼は僕の無二の親友同志でした。
 よど号ハイジャック闘争は、ハイジャック戦術が一般にそうであったように、乗客民衆を楯にするような誤った軍事・作戦思想を孕んでおり、二度とやるべき作戦ではないと思います。
 だが、田宮ら9人のコマンド達は「過渡期世界論−世界同時革命」の赤軍派綱領(=ブント第7回大会路線と「赤軍}N04の路線)」を※思想的源泉とする団結力を持って、それぞれの器量・才質、勇気、智謀と的確・俊敏な判断力ららを如何なく発揮し、この欠陥を凌駕・超克しつつ、数々のハードルを乗り越え、大過なく、この作戦貫徹に勝利しました。
(※註 このことは、田宮が闘いに出征する直前に書いたアッピール、「我々は明日のジョ―である」を参照してください。)
 この報復として、時の首相・佐藤栄作は、「実行犯」が手に届かないところにいるから、その代わりに、日本の赤軍派に対して、<赤軍罪>といわれた不当・卑劣な猛弾圧を仕掛けてきました。
 この意味で、70年安保大会戦の攻防の中盤戦は、日本民衆・国民を蚊帳の外に置かない関係での、佐藤政府対赤軍派の存亡を掛けた死闘を中心にして構成されていたと言えます。塩見や他の中枢の政治局員、中央委員のメンバーは、「法匪」ともいえる、佐藤配下の役人どもによって、「共謀共同正犯」論なる罠を仕掛けられ、超重刑を課されました。
 塩見は、この闘いの際中、警視庁で取調べを受けていたにも関わらず、この作戦の最高指導者として、起訴・有罪とされ、その後、獄中20年を過ごさざるを得ませんでした。
 以上を踏まえれば、よど号闘争は、日本と世界の民衆、赤軍派と第二次ブントが誇こりにし、後々の世まで語り継がれて良い闘争であったと考えます。
 皆さん、どうか、この誇りを忘れないで下さい。
 1989年年末、僕は出獄して、すぐの翌年、彼等と再会して、田宮とは、彼が亡くなるまで、もっとも緊密な友人関係を温ため続けて来ました。亡くなってから今に到るも、獄でそうであったようにマロは掛け替えのない同志友人として、僕の心の中に生き続けています。
 田宮よ、僕が、ずっとずっとお前を想いつづけている(人達の一人である)ことを忘れないでくれ。
          
               2015年、10月18日   塩見孝也

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