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2015年06月26日06:25

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ゲバラの「カストロ宛ての<別れの手紙>」と「二つ、三つのベトナムを!」アッピールは「過渡期世界」論を生み出してゆく。  塩見孝也

● この記事は、 「ゲバラの実像・第二部<残された家族> 14、(朝日新聞6・25、平山亜理) 」に載っている。
 ゲバラのカストロに宛てた手紙で、有名な「別れの手紙」の件、くんだりの事柄の紹介、抜粋である。1965年、春、発信された。
 ゲバラとカストロの世界革命家としての同志的友情を知る上で、極めて重要である。
 同時に僕は、この手紙と同じ頃、発信された彼の「二つ、三つのベトナムを! 」を合わせて読み返すことで、あの当時、二人の革命家に、世界と日本の若きコミュニスト達が如何ほど甚大な影響を受け、インスパイヤーされたかを、当時の僕の活動(この際は、主として理論活動の分野)を振り返って、辿って見ざるを得ませんでした。
 そして、いろんなことが、整理されて来ました。
●この手紙の内容は65年10月、キューバ共産党中央委員会の席上、フィデルによって読み上げられた。
 以下、紹介する。
・ 「キュ―バ」での市民権や公職の全てを捨てる。
・ 世界の他の地で、僕のささやかな努力を必要としている。
・ 君には重い責任があるから出来ないが、僕にはできる。別れの時が来た。
・ 妻子については「暮らしや教育については必要なものは国が提供してくれることを知っている。
・ そして、ゲバラはコンゴに渡った、がこの事実は公表されなかったそれゆえ、ゲバラの消息をめぐり、「カストロがゲバラを粛清した」なる噂が飛びかった。
・ カストロは上記の如く、65年10月、キューバ共産党中央委員会で、この手紙を読み上げた。
・ 平山によれば、ゲバラの娘アレイダ・ゲバラは「父がいない理由を国民に説明するには、手紙を読むしかなかったのだろう」と推測する。
・ アレイダは成人後、別の手紙を見つけた。
 フィデルがコンゴにいるゲバラに宛てたものである。「キューバに戻って来て欲しい」と懇願するものであった。これを、読んだゲバラは66年に一時帰国したが、知っていたのは限られた者だけであった。
・ アレイダは(カストロに)会った際、父に手紙を送ったことを何故明かさなかったのか、と尋ねた。カストロにとって不名誉な噂を否定できたのに、と思った。
 カストロは苦笑した。「CIAの言いたいように言わせておけばいい」噂の出所は、カストロ政権の打倒を狙うCIAだというのだった。
 ゲバラのことを語るカストロは、過去形を使わなかった。「パパが生きているみたい。」とアレイダは笑った。カストロは真面目な顔で「だってチェは生きているんだ」と言った。アレイダは二人の友情の深さを感じた。
 それは、そうであろう。チェとフィデルは、南米ボリビヤの地において、「第二、第三のベトナム」を創出すべく、準備をやっており、ゲバラはこの地で、決起し、ゲリラ戦争を闘い、67年射殺され、殉死するのであった。
 奇しくも、この年は、秋、10・8、11・12闘争が爆発・貫徹された年である。
●ゲバラ・アッピールは日本の若き(ブント系)コミュニストへ強烈な影響を与えました。このことを、 僕の1960年代、中期からの活動を振り返って、辿って見ます。
 ◆ 先ず第一に、ゲバラの「二つ、三つのベトナムを!」の、通称「ゲバラ・アッピール」は、日本と世界の新左翼運動に稲妻を伴った雷鳴が轟く如く、確実に届き、戦後世代の若きコミュニスト達を奮起させたこと。
 僕らの戦後、新左翼世代は、フィデルやゲバラ達について、「同時代を、確実に共に生きている」革命家達の存在を実感させてくれた。「毛沢東のような親父世代ではなく、より近しい兄貴分である世代の革命家達が、国境を越えて存在している」と。
 これらの事柄が、確認されるべきであろう。
 ◆“64年は、復活した日本帝国主義が、戦後初めて、朝鮮半島・アジアに向けて、侵出・侵略を開始すべく、「韓国」朴政権と手を結び、日韓政治条約を結んだ年である。  
 24歳の僕は関西ブント・学対部として、東京に出て、関西ブントの往年の願いであったブント再建と全学連の再建に取り組んでゆく。
 <関西ブント>からは、佐藤、浦野、渥美氏、<ブント統一派>の東京からは松本礼二、千葉正健、黒岩、仏(さらぎ)徳二各氏らの<ブント統一派>の両派でもって、<統一ブント>が、64年、夏に結成されていった。塩見や八木は、この準備と結成式のために東京に常駐し、塩見は、以降、東京人となる。これを受けて、学生の方では、関西から塩見・八木、東京からは中井、高橋、斉藤らが<統一ブント>学対を構成し、日韓闘争を果敢に闘った。
 僕は、この日韓闘争の総括論文として、<関西ブント>提起の≪第3期論≫の線で、「プレ・ファシズム」論という論文を書き、反帝国主義・国際主義・世界革命を強調する。
 又、「プレ・ファシズム」時代を闘い抜ける、「反帝国主義・世界革命」を掲げる全学連再建の必要性を説いた。しかし、世界革命の路線、綱領を書き上げるには、僕のインスピレーションを掻き立てる何がしかの先達達との出会い、示唆を必要とする、もういくばくかの歳月が必要であった。
 この「統一ブント」を主軸にして、マル戦、ML、社青同解放派、第4インターらは、65年末、暮れ、全学連の再建を目指して、その橋頭堡として都学連を再建した。都学連委員長は解放派の山本浩司氏であった。
 そして、その翌年、66年秋、この<統一ブント>と<マル戦ブント>が合流し、「(第二次)ブント」が遂に再建され(ブント第6回大会)、これを機軸・一体にして、全学連(三派)が再建される。 この時に、初めて中核派が、この再建運動に加わってくる。
 そして、三派全学連は日米両帝国主義の共同侵略・反革命であるベトナム侵略戦争を真っ向から闘い、これを阻止する闘争方向を確立してゆきます。そして、67年、ゲバ棒とヘルメットで武装された二つの羽田闘争、10・8、11・12の実力闘争が貫徹されてゆく。 
 これから、70年中期位まで、――実質は、「同志殺し」と銃撃戦としてあった、連合赤軍事件まで――、60年安保闘争を第1次とすれば、第2次安保闘争(というより≪大会戦≫と言った方が良い)が展開されてゆくこととなる。
● 国際的に見れば、“59年、キュ―バ革命の成立、アメリカに於ける、武装闘争も内包した反ベトナム侵略の反戦闘争、黒人解放闘争、フランスのカルチェ・ラタンら学生運動・ドイツのバーダーマインホフ・グループ、いわゆる「ドイツ赤軍」を始めとする新左翼運動(※)、チェコに於けるドプチェックらの反ソ連闘争ら旧スタ―リン主義とは性質の違う、世代的にも、戦後世代が担う新左翼運動が、澎湃として爆発していっています。
 
 ※「新左翼運動」という用語を使いましたが。この語義は、決して第4インターらトロッキスト運動だけを意味せず、反スターリン主義の旗と同時に旧来のトロッキズム運動おも止揚してゆく、戦後世代の感性、認識に基づいて、これを、超克してゆくような内実を持った、創造的で、弾力性、多様性を持つ、広義の意味での、その意味で“新”の語義での<新左翼>運動と理解してください。
 
 スターリン主義陣営でも、「中ソ論争」が顕在化してゆく中で、≪第三世界≫を、中心地域にして、闘いをめぐってヘゲモニー争いを伴いつつも、「反帝国主義・反植民地主義・反封建主義」の全世界的な怒涛のような進撃が爆発してゆきます。この進撃は、国際帝国主義の犠牲的な基底部、アジア、アフリカ、南米、中南米の植民地、半植民地を、65年のベトナム戦争の勝利を前後として、一掃し、植民地体制を消滅させてしまう。
 この中心にキュ―バ革命の実績の下で、世界革命を呼びかける、フィデル・カストロとチェ・ゲバラらの世界革命運動潮流があり、他方のもう一つの機軸に、64年、毛沢東が発動した、文化大革命があったといえます。中国「プロレタリア文化大革命」は、それから、10年近く、維持・継続されてゆく。
 毛沢東はこの革命を発動しつつ、スターリン主義ながら、中国独自の思想的質を持って、ベトナムとそれを支援する全世界の反ベトナム侵略・反反革命戦争運動を支持・支援します。又、ソ連に対して、その修正主義を<社会帝国主義>と規定し、<打倒>を呼びかけてゆきます。或いは、中国・中国共産党内部のソ連スターリン主義・修正主義に汚染されていた劉小奇・小平路線を批判し、<継続革命>を主張する。
 この革命思想・路線の言い分は、「国際共産主義運動における総路線をめぐる論戦」と題して、一冊の本として編まれ、全世界に頒布されてゆく。
 毛沢東は、スターリン主義肯定・「一国社会主義」論の枠内にありつつも、中国革命の実体験に基づいて、ロシア・マルクス主義とは違う植民地・半植民地での「新民主主義革命」・「継続革命」を主張していた。
 しかし、彼の革命論は、本質的に、「一国社会主義」論であり、世界革命論・世界革命戦略を持っていず、「過渡期社会」論は目茶目茶で(※)、「過渡期世界」論は未確立であり、スターリンを「7分(6分?)はマルクス主義、後の3分(4分?)は形而上学」と論断していた。
 結局、こういう内容で、スターリンを支持するわけだから、非マルクス主義であり、それ故に、晩年の晩年、小平の唯生産力主義、文化大革命の清算、「晩年の毛沢東老耄化」の決議(79年、中国党3中総)を許してしまうこととなる。
※註 本来、数カ国の先進資本主義国で、ブルジョア独裁権力が打倒されていない以上、どこまで行っても、<社会主義>は成立せず、生産手段を全面的に<国有化>しても、<過渡期社会>は<過渡期社会>であり、プロ独権力が、ブル独権力に変質したり、自由主義資本主義に逆転したりもする。であれば、この社会=官僚制国家独占資本主義社会では、<階級>が残り、<階級闘争>が継続しているのは当たり前のことである。
 しかし、<世界革命>を放棄し、「一国社会主義到達可能論者」は、そうは考えず、差し当たって、<生産手段の国有化>をもって、「社会主義に到達した」と考えるが故に、<階級>が消滅し、「全人民国家」なったなどという。
 毛沢東も、この見地で<社会主義下、階級闘争存続論>なる珍妙な説を唱えたのである。
 それまで、ソ連スターリン主義が「生産手段を全面的に国有化したから、この社会は、<社会主義>だ」という、スターリンの「一国社会主義論」を、<社会主義>概念の前提にしているからである。 そんな国では、もはや「階級」も「階級闘争も存在しない」と、「実際にある階級闘争を存在しない」ということを、前提にしていたからである。ところが、<社会主義>は、<世界社会主義>としてのみ成立し、又このような社会において、初めて、<社会>は<共同体>となり、<過渡期社会>を脱し、「階級」も「階級闘争」も存在し得ない。
 「生産手段を全面的に国有化」しようと、その社会はその社会は、未だ、<過渡期社会>であり、官僚独裁の国家独占資本主義社会であり、ソ連の終焉のように、自由主義の資本主義に、、逆転するような事態は生まれるのである。
 「<社会主義>下階級闘争存続」論が何ゆえ「珍妙か」と言うならば、<官僚制国家独占資本主義>の社会は、もともと「過渡期社会」で、あり、ここでは、普段に階級が存続したり、階級闘争が復活したりするのは、ごくごく当たり前のことなのであるからだ。珍妙な説が、さも、新しい発見をしたかのごとく、主張されたりもするのである。「ソ連スターリニストは、ソ連社会主義では、もはや、階級、階級闘争は存在し得ない、といい中国スターリン主義者は、社会主義になっても階級は存続する」という論争をしたわけである。それが、珍奇、珍妙極まりないと言うのである。
●このような60年代、チェ・ゲバラは上述の二つのメッセージを、多分アフリカの地から、66年頃、発する。
 僕は、ゲバラ・カストロ路線に連帯するものとして彼らを「世界革命の第三の道(<派>、ないしは<潮流>」と命名した論文を書いた。※註1
 それを更に、唯物史観に照らして、総合的に論じた、通称「過渡期世界(論)」、「3ブロック同時革命」路線(綱領)と、後に言われるようになって行く論文をブント第7大会綱領草案として書き上げて行きます。※註2
 ※註1これは、1967年 関西ブント機関誌「烽火」に掲載された。
 ※註2これは、1968年 ブント中大支部「解放」と「烽火」に掲載される。
●「過渡期世界」認識は、どういった理論的・思想的な思考経路、脈絡で、呼び覚まされ、確立されていったか!
 マルクスの「移行期社会」「過渡期社会」の唯物史観のテーゼは、当時の世界・日本の「物状騒然」たる、<大流動期>時代に際して、「過渡期世界」という、言葉が見出されてゆくことで、世界を一元的に捉える世界史認識(の方法)として、パラダイム・チェインジされ、その生命(ガイスト)、魂を復活してゆきます。
 
 マルクスは晩年、ドイツ社会民主党の「ゴータ綱領」を批判的に検討し、「資本主義から社会主義への移行期には、必ず、この移行期の性質を有す社会を経過しなければならない」とした。そして、この社会を<過渡期社会>と命名し、この社会の基本原則、アウトライン、構図、ルールを示します。この、思想的、理論的作業は 彼が確立した経済学、資本主義批判、「資本論」に著わされる「資本主義の経済的運動法則」に照らしてのことである。
 そして、マルクスは、(この)<過渡期社会>は「プロレタリアが、ブルジョアジーを独裁してゆく社会である」と論断しました。この、「過渡期社会」論は、その後、おおむね、世界のマルクス主義コミュニストの原則的認識、通念となっていった。
 僕は、前述した、世界と日本の現状、時代性を僕なりに、このマルクスの「過渡期社会」論や彼の唯物史観に照らして、どう総合的に、シンボライズして概括し、表現したら良いのか、といった理論的・思想的課題に、遭遇し、苦慮していました。 
 既に、ロシアにおいて、社会主義革命は成立し、同時にスターリニズムもまた生まれている時代状況、或いは、植民地体制が最後的に消滅してゆく、こういった世界的規模の「物状騒然」たる「大流動期」の時代を「唯物史観に照らした場合、どう捉え返して行けば良いのか」と自問自答していったのである。
 マルクス「過渡期社会」論は、一見、一国資本主義の破産・解体の事態から生まれているようだが、一国を超えた、普遍的な命題として抽象化されて、提出されている。
 ちょうど、彼の資本主義批判が、先ず第一に抽象化され、原理化されて分析、解明されてるように。それ故に、一方で、一国的規模の実態的な資本主義分析、批判であるように見え、他面では、世界手規模の資本主義、世界資本主義の分析、批判でもあるような面貌も有す。或いは、資本主義の各発展段階の段階分析のベースに座るような面貌も有す。
 このような対象の批判(の方法)は、これに、照応する主体的な面からの≪社会主義≫、その前の≪プロレタリア独裁≫社会の原理的措定、その発展段階措定においても、一国的側面も持てば、世界的規模での≪移行期≫の側面も有すものとなる。
 いったん産まれ出でた<過渡期社会>は<プロレタリア独裁>を貫徹してゆかなければならず、実際は<世界的規模>での<国際帝国主義(世界資本主義)>と<国際(世界)プロレタリアート>の<反革命と革命の死闘>の只中にあること、として想定して捉え返して行かなければならないこと。
 「移行期」、「過渡期」は、世界的規模で、密接不可分、有機的に連鎖し合う資本主義と社会主義が死闘し合っている単一の世界階級闘争の場として存在し、それ以外に存在し得ようもない社会である。それゆえに、マルクス「過渡期社会」論は、「世界手規模で、≪資本主義から社会主義へ移行してゆく≪過渡期世界≫」として、パラダイムチェインジするし、実際、そうなっているのである。
 プロレタリア革命は、「一国革命の総和」からなるものではなく、即<一国>にとどまらず、<世界プロレタリア独裁>としてある社会なこと。「一国革命」と「そのプロ独」は、即<世界革命(の根拠地)」、<世界プロ独社会>に置き変わってゆくこと。
 このようにマルクス「移行期」論、「過渡期」論は、世界史における、世界大の世界に移し変えられて捉えられてこそ、すなわち<過渡期世界>にパラダイム転換されてこそ、世界は<一元化され>、<世界史的尺度>を与えられて行くこととなる。
 僕は、こう考え、この世界史の新たな段階とその世界を、≪過渡期世界≫と命名したのである。
● このゲバラ・カストロのメッセージは、この二人が<一国社会主義>論の頸木(くびき)から解放された、世界革命論者であるが故に、僕に、このような<過渡期世界>認識を示唆していったのだ。
 そして、この<過渡期世界論>に沿って、”68年8月3日、ブントを基軸にして、日本の「世界革命の第3の道、諸派」は、キューバ共産党の背後での協賛を得る中で、ブラック・パンサー党ら「世界革命の第3の道」諸派と日本で革命的政治集会を勝ち取ってゆく。
 
 このような世界史認識と行動は、”65年、ゲバラのフィデル・カストロ宛の「別れの手紙」、その思想的、理論的ガイストによって、呼び覚まされていった、と言って良いのである。

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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年06月26日 06:39
    非常に重要な回想です。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年06月26日 11:39
    なるほど。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年06月29日 18:02
    > mixiユーザー 
    さすが、燻製クラウンさん。僕の、この回想の意義をしっかりとお掴みになっています。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年06月29日 18:04
    > mixiユーザー 
     貴方の質問を、今回は、大幅に広げて、答えようとしたものです。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年06月29日 18:20
    > mixiユーザー 
    はい、シッカリ拝読しました。
    ありがとうございます。

    同時代に観察されていた方の靭さを感じました。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年07月17日 12:28
    ちょうど今、塩見さんの赤軍派始末記を読んでいて、まさに赤軍派はゲバラの系譜にあるのだとわかりました
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2015年07月19日 02:52
    > mixiユーザー へ
    コメント、ありがとう。久しぶりですね。
    系譜といわれると、若干、御幣がありますが、現実の国際共産主義運動の状態を鑑みれば、こう言っても構わないと思います。
     キュ―バ革命(カストローゲバラ路線)との連帯を、推し進めて行こうと思っております。

mixiユーザー

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