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2015年06月17日10:51

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最近の読書情況       塩見孝也

●この間、幾つの新刊の本や新聞の連載記事を読んだ。いずれも、この5月の新刊書である。
 連載記事の方は、「チェ・ゲバラとキューバ」をテーマとする朝日新聞の「ゲバラの実像」と題した「一部 革命家の死」「二部 残された家族」という形で連載中である。
1、「私は何故イスラーム教徒になったのか。」 中田孝著(これは、5月でなく、ずっと前か。)
 中田氏は、イスラム教徒・学者で、彼のイスラム学を踏まえれば、現在の「イスラム国」が何故生まれたか、イスラム史・中東史に於いて、この運動が歴史的にいかなる位置を占めているか、について、見識ある、確かな認識を示していると見て取ることが出来る。
2、「革共同政治局(或いは中核派)の敗北」岸宏一・水谷保孝 共著。
  二人は、現在の政治局が本多氏の路線を清算し、「内ゲバ(「粛清」の<党>」を居直り続け、中野・天田両氏らが主導する「経済主義」路線、「千葉動労特化路線」に陥り、「敗北している」「腐敗している」という。
  こういう視点で、彼らが体験した中核派の内情の事実関係が、これでもか、これでもか、という具合に、うんざりさせるほど延々と語られる。
 これらの記述は、<組織の内情>の事実関係への興味などふっ飛ばして、中核派という組織について、強烈な不毛性、生鮮性の無さ、年の功から来る組織運営の巧緻さ、ららが脳裏に焼きつき、組織建設のおどろおどろしさのみを読者に先ず印象ずけて行くことは確かであろう。
 こういった、組織内政治―組織活動の内情を、辟易、うんざりしながら、ナントカ最後まで読みきった奇特な読者ならば、こんな「組織の在り様」「組織内生活の文化・風俗」が、「革命党建設」の≪在り様≫、≪実質内容≫であるとするなら、「まったく、お呼びでない」「糞食らへ」「犬にでも食われろ」、「とっとと何処かへ失せろ」という感懐を覚えるのは、必定であろう。
  「反スタを掲げてスタをやる」「<新左翼>という形を冠した、日本型の旧左翼のスタ党」いうこれまでの世間に通用的な評価を再確認してゆくのではないか?
 こうであるならば、この本の唯一の成果と言うならば、清水氏の側近としてあった二人が、現在の中核派の内情を彼等なりの体験に即し、それなりに率直に暴いていること、この一点だけに尽きるであろう。
 ◆同時に、「革共同がどこに行き着くか」、と一体に、「岸・水谷両君が、どこに行くか」についても、注意を払っておくべき、と思う。
 二人の意図、意識情況が奈辺にあるか、について、決して、それほど、高尚ではない、部分も含んでいるのではなかろうか、と感ずるのは、僕だけではないのではなかろうか。
 言い換えれば、そうでないならば、第11章「“革共同政治局の敗北”から新しい道へ」にほのかにながら、伺える、「本多氏絶対化とは違って、本多おも相対化してゆく」思考、志向、ステイタス・パラダイムの方向が、どう今、実践されているのか、ということになるであろう。
 
 このことを、僕に引き付け、主体的に捉え返して行くならば以下のことであろう。
 僕は、両「革共同」とは、60年第一次ブント、60年安保闘争において、これを総括する立場を根本的に相違してきた。
 僕にあっては、この立場、見地からして、中核派などの内情について、疎(うと)くても、大勢に、影響すること全く無し、と捉えているわけです。であるならば、この<根本的相違>を、現在に即して、もっともっと鮮明にしてゆく、マルキスト、ゲバリスタ、新生ブント創出の緊要の作業を更に推進してゆく肝要さを痛感するばかりである。
 このような、中核、革マル両派はマルクス哲学・世界観とはまったく似て非なる、戦前ヨーロッパ哲学、ベルグソン「生の哲学」、或いはフッサールら「現象学」、あるいは、ハイデッガー「近代の超克―ー存在と時間」哲学などを吸収している西田幾多郎哲学を、――その正体・本質は忠君(戦国大名、封建領主に身を捧げ,忠勤する<愛国>の保守反動の封建<武士道>哲学、死生観=「絶対無の場所的立場」と「その組織建設」にあるのだが――「コミュニストの主体性」獲得の名の下に取り込んでいった、黒田哲学を共通の根元を置いていること。
 そこから両派が脱却できないでいるが故に、あのおどろおどろしい骨肉の争いである、内ゲバの殺し合いを演じて行かざるを得ないこと。このこと、つまり、この共通の根元が、マルクス主義哲学、世界観、歴史観とはまったく無縁であることを思想的、哲学的、理論的に疎明(そめい)仕切る作業が必要なのである。
 かつて、第一次ブントの指導者であって、革共同に転向した現指導部、中核派は、内ゲバの自己批判と同時に黒田に、屈服した歴史を、きっぱりと自己批判し、清算すべきである。
3、「絶対無の哲学(西田哲学の継承と体系化)」、著者・根井康之。
 戦前の体制内哲学の奔流としてあり、他面では、マルクス主義の対抗物としての役割を絶大的に果たしてきた西田幾多郎哲学、いわゆる京都学派の哲学的ガイストが、黒田寛一によって、マルクス主義哲学の世界に密輸入されて行った事。
 このことは、2において触れておいたが、このことは、僕の長年の主張である。それで、西田哲学をもう一度、読み返してみようと思っって、西田哲学の一研究者を任じている、根井の著作を読んで見たわけである。
 知的仲間の人が購入したのを借り受け、読んで見たわけだが、一読して、著者、根井がへっぽこ、スカタンな奴であることが良く分かった。別の形で、西田哲学については、この際、僕流の批判の内容を整理して、開陳すべきと考えています。
4、「社会運動」8月号、最近の柄谷行人の考えをインタビュー記事で探って見たかった。
5、「死者の軍隊ー―連合赤軍の彼方に。(上)(下)」 金井広昭著。 彩流社刊。
6、朝日新聞に連載されている「ゲバラの実像」一部、二部、著者、平山亜里が、キューバ、南米諸国を現地取材しつつ、丁寧に書いている。
 「一部」はチェ・ゲバラについて、「革命家の死」と題して13回にわたって連載されている。「二部」は「残された家族」と題し今も連載中である。
 僕は、「一部」の10回目から、この記事を目に留め、読み始め、切抜きをやってきました。それでも、飽き足らず図書館に駆けつけて、最初からコピーをとることとしました。
 調べてみると、この連載は、5月26日の「チェ・ゲバラとキューバ」という特集記事や翌日のプロローグを皮切りに、5月28日から始まっている。
 この連載は、現代・革命キューバとオバマ・アメリカ帝国主義の国交確立交渉という国際情勢の新事態の中で、「キューバはどこに行く」のテーマについて、朝日新聞社なりの判断を下そうとした経緯から生まれているようだ。
 このテーマに関しては、「キューバは不屈である」「変質しない」という確固たる判断を僕は既に持っており、このことにつきましては、この交渉過程に伴って、もっともらしい「キューバ変容論」が
テレビなどで流されたが、すぐに影をひそめて行きました。その、止めがこの連載であったろう。
 しかし、 僕が関心を持ったのは、革命家・ゲバラの最後をもっともっと知りたかった、という単純なことに尽きます。
 この件についても、僕は大抵の人よりは、相当の蓄積を持っていると自負しているのですが、それでも、 僕は、基本的には「ゲバラ日記」などで、彼の最後については、知るだけでありました。
 ですから、この連載記事を追うことで、チェを、以前より遥かに深く知ることで、「革命家・エルネスト・チェ・ゲバラは永遠なり」の信念を、僕はさらに爆発的に深めて行ったのでした。
 この切抜きやコピーを通じて、ゲバラをより深く知ってゆく作業は、岸・水谷君らの著作が醸しだす、極度の辛気臭さを完全に吹き飛ばして行きました。

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