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2015年05月31日13:36

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選挙闘争のあらましを具体的に報告する。 ――塩見孝也

1、 選挙準備・選挙闘争の基本方針は、ほぼ完璧とは言えないまでも、革命的議会主原則に則ったもので、まったく正しかった。このことは、前回日記で、総括の基本方針で語った通りである。このことを、12月20日の最初の集まりを起点として、具体的に、闘いの過程を追って説明しておくこととする。
具体的に報告するとなると、この選挙闘争を、先頭で、僕と共に闘い、運動を牽引してきた、事務局メンバーのことについても、批判も含めて触れてゆかなければならない。であれば、まずこの報告の前に、事務局メンバー無しには、この選挙運動は、貫徹し切れなかったわけで、この運動の同志達に、良く頑張ってくださった、とねぎらい、お礼の言葉を表明しておくのが僕の思いであることを表明しておくべきと思う。
 事務局の仲間達よありがとう。ご苦労さんでした。

 僕が、公的に選挙出馬を発表したのは、12月6日の鹿砦社主催の忘年会の席上である。
 だから、我々は、約五ヶ月間、この闘いに没頭していった、と言えます。その前、約、9ヶ月のクレア駐車場における反合理化闘争の闘いがあったわけだが。
 運動に真剣に関わった人々は、この具体的報告に照らして、我々がどう進んで行ったかを捉え返していって欲しい。
 本年二月14日集会を皮切りに発表されて行った<三つのマニフェスト>はみんな、事務局全体が承認するところであり、「共産党」の「自共対決時代」などのエセ文句など、足元にも寄せ付けない革命的マルクス主義に立脚する超原則的な主張であった。
 いまや、伝説化している1960年代のブント系指導者にして、≪元赤軍派議長≫という経歴の人物が、何故に、破天荒ながら、選挙に立候補するかを説明したりするものであった。
 この三つのマニフェスト、態度表明を「銀河の会(事務局)」は三つとも支持、承認したのであった。
 このマニフェスト3本は以下のような文脈で、作成されて行った。、
★第1番目のは2月14日の集会で発表された最初のマニフェストであり、塩見自らが書いたものであった。このNo1文章を土台にして、No2、No3は積み上げられてゆく形で、次々に表明されて行った。
 この点で、三つのマニフェストは塩見以外の事務局メンバーの誰にとっても、不可視の裡にあったものの、直感的、賛同せざるを得ないものであった。なぜなら、塩見の革命的マルクス主義世界観や綱領的見地に忠実に立脚する(既に、この綱領的観点は公表されています。)モノであったからである。
★ No1マニフェストでは、出馬の動機を鮮明にしていること。シルバー問題に警鐘を鳴らし、革命的労働運動の創出の必要性、中央と清瀬の執権勢力の大変革を訴えるものであった。それは、決して、「市民派」に呼びかけるものではなかった。労働者階級に、呼びける・ステイタス・パラダイムによって書かれていた。
 この集会で決議された、宣言・抗議文は、清瀬市長・市議会、清瀬都市開発、そして、清瀬市シルバーセンターに直ちに送られた。
 これらの、マニフェストは「攻勢的」に書かれている。
 70年闘争に於ける総括が、常に「連合赤軍事件」と、重ねられて、、味噌と糞を一緒くたにして、論じようとするマスコミの仕掛によって、塩見像が、いつもくすんだ形で論じられざるを得ない面を持っていたのに対し、ある種の自己批判・自己否定の「40年間近くの禊(みそぎ)」期間を経て、赤軍派の闘いの歴史的意義を自己否定し、相対化して捉えてはいるものの、今度は、その輝く面を復権してゆく基調で展開して、書かれている。「プチブルジョア革命主義をプロレタリア革命主義に」止揚した見地で展開されていた。
 70年闘争に於ける前段階蜂起闘争が、日本の階級闘争、特に戦後階級闘争において、超破格的な革命的位置を占めていること。「元赤軍派議長」という通称は、まったく、名誉ある面を有した通称であることを、積極的に主張するものであった。選挙候補者を広報した「朝日新聞」などでも、自分の経歴・職業として、「元赤軍派議長」として、報道した。これに、僕は満足している。
 この、視座から、シルバー問題を、清瀬自公政権、渋谷金太郎政権と時の政府権力、安倍政権と真っ向から闘う「社会政治闘争」の観点で、鮮明に訴えてゆくものであった。この観点は「革命バカ一代、駐車場日記」の<終章>、<社会政治闘争>論」で既に鮮明にしているものであった。
★ No2マニフェストは、それが、どのような歴史的経緯から誕生しているかを、上記の如く、<攻勢的>に説明している。
 すなわち、プロフィールについて、上述の如く、ブント「第7回大会路線」と赤軍派の≪過渡期世界論、世界(同時)革命≫路線を、<プチブル革命主義をプロレタリア革命主義へ>で、止揚して継承していること鮮明にして書かれている。 いわゆる、「元赤軍派議長」「非転向獄中20年」を、積極的宣伝文句として、意識的に使っていること。
 つまり、塩見が獄中20年の中で、又出獄後20数年の中で、マルクス主義の基本原則を求めて、自己否定・反省し続けて、真のマルクス主義思想に到達して行っていること。別に、当時でもマルクス主義者を自認していたが、それは、浅く、当時の時代性としての、プチブル革命性に烙印されていましたので、過去の、この浅いマルクス主義思想理解を超えて、マルクス(エンゲルス)思想を我が物にしていること。真の唯物弁証法、唯物史観、資本主義批判の経済学、資本主義社会の「経済的運動法則」、「プロレタリア解放の経済学説」の見地、すなわち、「資本論」を我が物とする地平で、書かれていること。
 この、理論・思想学習と平行・一体のものとして生産・労働を身をもってを獲得してきた、体験認識から書かれていること。この二つの長年の営為をもって到達した地平から、現実の政治・経済世界、「新自由主義」の≪グローバリズム金融資本主義≫としての現代資本主義批判・認識が、超概括的に、短縮されて展開されている。 このような、視座から、スターリン主義の<連合赤軍「新」党>とは、決して混同されてはならないことも、説明されている。
 
 連合赤軍「新党」は、永田や川島が毛沢東思想を掲げながら、この思想の根元にあったスターリン思想を復権・肯定していること。スターリンはマルクス「世界同時革命」の思想への途轍もない背教、清算である「一国社会社会主義建設可能論(実質は一国資本主義可能論)」を主張している。ここから、スターリンの≪神格化≫、≪個人崇拝≫、革命家の不当極まる殺害、≪粛清≫を推奨している。全世界の労働者を、このインチキ・ペテンの<ソ連邦>奉仕を強要していたことを是としている。
 この「復権」作業は、50年代末において、確立したブントら新左翼<反スターリン主義運動>を根底から履がえし、逆戻りさせる、誠に時代錯誤の極と言える、この超反動志向を綱領的立脚点にしていた。
 森や花園、(松平)は「同志殺し」を行った、永田・川島の「同志殺し」を肯定し、花園は、「ブント運動を≪現実性≫がない」と赤軍派を批判して、清算・脱党し、反米愛国路線を掲げ、川島たちと合流して行ったのである。
 これが、「同志殺しと銃撃戦」としてあった連合赤軍事件、野合私党、「連合赤軍≪新党≫」の
全体像・本質であること。
 この点で、赤軍派政治局員、花園の責任は非常に重い、と言わなければならない。花園は、「関西系赤軍派が、早稲田系赤軍派を排除したなる」言い訳をしているようだが、これは、まったく、後で、とってつけた言い訳で、己の軍事至上主義思想や自分がスターリン主義に回帰し、破産し、赤軍派内部で孤立して行ったしまった、という真の理由を隠蔽するものに過ぎない。
★03のマニフェストの基調も又、塩見独自のイディオロギー、塩見世界観、綱領的見地の立場、観点、方法を清瀬地域政治の変革の分野、選挙闘争に運用されたものとして書かれたものであるが、上述の形で、ブント直系で、スターリン主義など無縁な塩見の、経歴・プロフィールを紹介して居る。それ故に、ブント系知識人・文化人や真の民族派パトリオット或いは革命的実践家達の推薦を幅広く受けています。
★言い換えれば、この三つのマニフェストは世界・日本のプロレタリアートを中心とする<世界民衆共同体(社会主義)創出>を目指す<プロレタリア独裁>を世界的規模で実行して行かんとする大志によって貫かれ、構成されたものであり、日本・世界の≪革命的第3極潮流≫≪世界(同時)革命≫潮流輩出・創出の要求、という、塩見がこの半世紀近く、一貫して掲げてきた、主張を前面に押し出して行くものであった。。
2、 我々は、「議会主義平和革命」を徹底的に批判・否定し、もっとも原則的な、マルクス
が「ゴータ綱領批判」で、展開した、「過渡期社会(過渡期世界)」の基本原則・基本路線」に則って、プロレタリア独裁政治・革命的議会主義の見地をこの選挙で宣伝・煽動して行ったと言える。 それは前述の資本主義の原理的・原則的批判と資本主義の第3段階、現代資本主義としての「新自由主義」・「グローバリズム金融独占資本主義」の批判を基本ベースに、労働者階級の立場に立って、資本主義賃金奴隷制の暴露・批判、安倍・渋谷の全国・地域政権の反動性の徹底した批判・暴露の宣伝・煽動を基本方針とするするものであった。
 我々は、この見地を選挙準備期・選挙中、徹底的に実行した、と言い切れる。
 この点で、我々は、選挙で当選はしなかったが、319名の確固たる支持者を獲得し、この選挙に革命的議会主義を固持、貫徹して行った訳である。
 この点で、選挙闘争はこれまでの日本の選挙・議会闘争の歴史において、独自の歴史的地歩を強烈なインパクションを残しつつ、敢行されて行ったと言い切れます。
 つまり、従来の「受け皿」論の根本的弱点、限界を、「受け皿は革命的左翼自身が、立候補することによって、自分自身が<受け皿>となるべき」と言う見地で、指摘し、実行して見せた、という「ことである。
3、 我々は、清瀬市議選を遂行して行く点では、組織方針は塩見のイディオロギーの下に
完全に統率はされてはいたものの、組織過程としては、<寄せ集め「軍団」>であり、事務局の仲間達は部分的な改良主義や体制内市民主義、虚無主義、アナーキズムなどを引きづっていた。そこから、「当選しなきゃー何にもならない」、「のぼりや腕章」を「赤ではなく黄色にせよ」、とかいった、飛びっきりの大衆迎合の極、ブルジョア議会政治、当選自身を自己目的化するする主張も一時飛び出してきた。
 当選だけを目標にしたら、こういう主張も飛び出してくるのは、当然である。言い換えれば、選挙当選のために、「塩見は転向せよ」という試みであった。これこそ、ブルジョア議会主義であり、それ以外に命名仕様もないものであった。
 このような、とんでもないギグシャクを伴うものであったことは、僕は最初から予測しいたが、こんな矛盾が出てきた際は、そのつど毎に、解決してゆく事務局の「塩見を指導者、統領とする」黙契に従って、事務局は塩見のヘゲモニーで的確に処理していった。
 僕は、12月20日以来の集まりを皮切りに、塩見の指揮、統率を認めないのであるなら「銀河の会」「事務局」から去るべきことを、事務局会議やその他の集まりの度ごとに、その冒頭において、態度度表明してきた。
 確認したことを、公然と打ち捨てる分子にには、断固たる「絶縁宣言」をやり、又実践をやらず、後戻り志向しか出来ない「おしゃべり談義の≪総括に耽ろう≫」とする輩には、会議出席を促さない措置もとっていった。
 このようにして、塩見の「革命的議会主義」を公然と否定する純然たる社民分子が、先ず姿を消していった。
 この次の段階で、建前上は「塩見支持」「塩見統率」を表明しつつも、実質は塩見が「議会主義に転落する」ことを願ったり、途中で「塩見が、自分から投げだして行くよう」仕向けて行くような、「塩見の腰砕け」を狙うような、半信・半疑の非協力の陰ぴな、サボタージュの風潮も暫く続いたのである。
 しかし、2月21日の第1回選管説明会では幾人もの仲間が協力してくれることともなり、これが、第二回の3月21日の立候補者審査会に続いてゆくに及んで、その前に供託金も納められるに及んで、もはや、「銀河の会(事務局)」は、具体的にひとり一人が、傍観したり、サボタージュしてして、塩見の足を引っ張るような態度を止めざるを得なくなってゆく。そして、選挙の具体的実務を率先して担わざるを得なくなって行きます。
 こうして、2・26「見沢知廉を偲ぶ会」をやったり、「銀河の会」ののぼり購入したり、2・28「清瀬<週間金曜日>」読書会主催の「「幸徳秋水事件」講演会への参加、、3・8「袴田巌さん無罪放免」集会への参加、或いは、清瀬シルバーセンターの展示会へのビラ入れなどが、行われていった。
 選挙準備の節目、節目毎に、誰も、建前を否定することは出来ないが故に、一時的ではあるにせよ、協力してくれる人々が「一肌脱ごう」と飛び出して来たりもしたのである。
 かくして、3月末には、選挙事務所が設営され、選挙公示の直前の4月初旬の追い込みに入ってゆく過程で、地区分担をしつつのチラシの全地区へのポスティング活動――それは、主として団地・アパートをターゲットとしていたが――が軌道に乗り始め、地区毎の特徴も分析し、その対応も議論・実行されて行った。朝日新聞への折込みも成された。
 神戸の支持者は、4枚位の「非転向獄中20年」などのぼりとのぼり立てを送ってきて、我々を鼓舞激励してくださった。
 「会」の組織方針の対象は以下であった。
a、 クレア・シルバー会員のオルグや全般のシルバー世代のオルグ。
b、 清瀬シルバーセンターや都市開発の批判、これを大本営として仕切る渋谷金太郎・自民党市政を大体的に、歯に衣(きぬ)着せず批判すること。
c、 清瀬革新派知識人・文化人のオルグ。
d、清瀬市の僻地、最底辺部である「食料難民」らを輩出する、野塩・下里地域への工作を重点化する。
e, a,b,c,dを実行しつつ、戦略的本音では、この集約として青年達を結集してゆく。
 などであった。

 塩見は、このことに加え、下清戸、旭丘団地や駅前元町の塩見の居住・生活圏で日常不断に接触する人々(セブンイレブンやファミリーマート、牛丼屋、病院、理髪屋や銭湯、ドラッグ、レストラン、マクドナルド)と対話を続け、応援者になってもらう工作を行った。これは、極めて効果的な力となっていった。
 同時に、この過程で、塩見は、あまりにも<会>に組織者がいないこと。組織者が塩見一人であることを痛感せざるを得なかった。又、適宜、宣伝・煽動の武器として使われるチラシを作る印刷体制がないこと、も痛感せざるを得ませんでした。
 それでも、ポスティングが工作活動、選挙運動の基本ベースであることは、みんなに自覚され、S君のようなポスティングのプロも出てきた。
 又、事務所を泊り込んで管理する助っ人の仕事請負人も飛び入りでやって来たりもした。
 5年ほど前、清瀬欅ホール工事で重大災害に出遭い、二人の仲間は死亡し、自分自身も重篤状態に陥った、元とび職、職長の親方もやってきた。彼は、労働災害に遭い、災害補償から見放され、孤独に苦闘した居たのである。この親方は即座に「会」の仲間に加わったりした。クレア駐車場の仲間が訪ねて来たり、不在で会えなかったが、事務所に社会事業大学の学生が訪ねてくるような事態も生まれた。s君は、フェース・ブックやブロッグ、ミクシーでの塩見代理人として、インターネットで大活躍していった。
 選挙管理委員会との折衝、実務的な処理を几帳面に果たすSA君のような、いまだブント・赤軍派・「過渡期世界論ー世界同時革命」の世界とは直接に交わらず、脇に居続け、アナーキズムを自称したりはしていたが、実質は市民主義の枠内にとどまっている限界を有しているものの、よき意味で、クールな実務を着実こなす有能な事務方も登場して行った。
 この、ダイナミックな運動の進展の中で、裏腹なかたちとして、活動家事務局の苦闘や労働生活状態など知らず、土日だけやって来て、あれこれ頓珍漢な「指示」を出したりする官僚も姿を現して行くこととなった。アル中故に、自己コントロールが効かず、思ったことをグチッポク何の脈絡もなく言い、,酔っ払って、人々を人々に文句をつけ、その度毎にに、みんなと衝突し、みんなの顰蹙を買うような、我が「会」にあるまじき小官僚も馬脚を現わして行くこととなった。
 この、ある人物の官僚主義が度し難いものであることは、25日にマサカリさんの公然たる批判で、明瞭に暴露された。
 
 19日の公示までに宣伝カーは整い、選挙期間中のローテーションも某氏を軸に組まれていった。朝7時から、8時過ぎまでの、清瀬労働者の都心へ出勤する、この1万から2万人の人々に対して、各政党・無所属の人々の駅前回廊での街宣活動は、一段と激しさをまして行った。
 それに、塩見らは、食い下がって、自民党、共産党と対決しつつ、ユニークで、ダイナミックな宣伝・煽動戦を展開して行った。
 終盤戦の追い込み過程では、世界・日本の<プロレタリア独裁政治>を、その<寄せ集め性>を残し続けてはいたものの、「獄中非転向20年」ののぼりがたなびいいて行った。チェ・ゲバラの写真やキューバ革命、フィデル・カストロの賛美の文章や某女性の描いた「貴方は革命家ではない」と日和見主義を糾弾する漫画のポスター・イラスト・写真が事務所の壁を飾り、選挙街宣でも、このような主張が風靡して行った。パレスチナ旗も事務所の壁に張り出されていった。
 山本さんの漫画も氏の了承の下、利用させてもらうこととなりました。
 
 選挙戦終了時の25日には、雨宮さん、鈴木さん、平野さん、ロックシンガーの峻ちゃんらも来てくれ、回廊や駅前ロータリーを占拠したし、夜は、駅前広場をデモして回ることともなった。
 僕の友人にして政治的支持者、IGさんも、埼玉からやって来くれ、理路整然たる演説をやったり、ロフト・イベントでは、いつも連帯してくれている仲間達もやってきました。
 我々の選挙参謀である、西東京市議、森氏は惜しみなく、経験を活かした、有効なアドバイスををしてくださった。
 選挙期間中一週間、<革命的第3極>の思想性、感性は如何なく、清瀬中に発露・顕在化していった、と言える。
 選挙期間中の一週間、ドンドンその塩見思想の政治の姿が顕わになり、塩見達が何者であるかを有権者にインスピレ―ションせしめて行ったのである。
 これまで、示したように改良主義や体制内市民主義が、部分的に頭をもたげたりもしたが、僕の私生活関係でも、指導者を肉体的・政治的に危機に追い込むようなテロまがいの行為も産まれたりもしたが、何事も、<指導者>・<統領>の塩見の卓抜なるイディオロギ―と自制的な指導ヘゲモニーの下で、一応の収まりを得た。
 選挙期間中の一週間、ドンドンその塩見思想の政治の姿は、顕わになり、塩見達が何者であるかを有権者にインスピレ―ションせしめて行ったのである。

<指導者>・<統領>の塩見の卓抜なるるイディオロギ―と指導ヘゲモニーの下、問題がおきるたび毎に、冷静にそれは克服されて行った、という事である。






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