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2021年07月06日11:44

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(読書)「『失われた時を求めて』への招待」(吉川一義著:岩波新書)

岩波新書の「『失われた時を求めて』への招待」という本を読んでみた。『失われた時を求めて』は、フランスの作家、マルセル・プルーストの有名な小説である。私自身はこの原作は読んだことはない。読んだことは無くとも、この有名な小説がどんな作品なのか知っておきたいという思いがあった。

この「『失われた時を求めて』への招待」という本を読んでみると、原作の『失われた時を求めて』がどんな作品なのかが良くわかる。だが、私自身は、この本を読んでみて、「では原作の読破に挑戦していよう」という意欲は湧かなかった。原作『失われた時を求めて』は、本当に心から文学というものが好きな、文学愛好家向けの作品なのではないかと思う。

私のように、大学は理科系の出身で、「文学はリベラルアーツ的な思考方法を養成するための一つの素材」という位置づけで文学にアプローチしている人間からすると、「まあ、こんな本は読まなくてもいいかな…」という判断になってしまう。もしこんな本を読むくらいなら、日本人としては、むしろ『源氏物語』の現代語訳を読むほうが時間の使い方として価値があるような気がする。

なお、「『失われた時を求めて』への招待」という本を読んだ感想を1点だけ記しておきたい。私が一つ強く印象付けられた点は、吉本隆明とマルセル・プルーストの違いである。吉本隆明とマルセル・プルーストとを比較することは、比較としてはあまり適切ではないことは十分認識している。国が違うし、時代が違うし、従って文学史上の位置づけも全く違う。だが、「『失われた時を求めて』への招待」という本を読んだとき、私は吉本隆明のことを思い浮かべないではいられなかった。というのは、吉本は、どこかの著作で「文学みたいなわがままなもの…」という発言をしていたような気がしたからだ。吉本は文学のどこを「わがままなもの」と言っていたのか、そのことが気になっていた。プルーストの『失われた時を求めて』は、吉本の言う「文学みたいなわがままなもの…」の一例かもしれないという気がしたのだ。

吉本は、人間の全幻想領域を、対幻想、共同幻想、自己幻想(個人幻想)の3つの領域に分けて把握しようとしていた。そして根底にある問題意識のひとつは、大衆が共同幻想に浸食されきってしまうことへの危惧である。もしその人間が、共同幻想に呑みこまれ、自分を見失い、人間と人間との関係を、例えば「経済価値」のフィルターを通してしか処理できなくなってしまっているとしたら、このステータスをどのようにして打破して「人間」を取り戻すべきか。吉本は「ことば」による抗い(あらがい)が唯一の方法だと考えていたと思う。つまり、吉本は文学が自己幻想の領域の中で自己完結することが、ある意味で許されないような時代を生きてきたのではないだろうか。

一方、マルセル・プルーストは、「文学とは、徹底的に個人の人生にこだわる営みである」という認識では、吉本のみならず、その他多くの文学者と認識を共有していると考えられる。だが、自分にとっての共同幻想的領域は何なのかという問題意識はほとんど感じられないように思う。例えば、「『失われた時を求めて』への招待」という本には、「ドレフェス事件」や「第1次世界大戦」の事象がストーリーに絡んでくることが解説されているが、そのあたりを読むと、プルースト自身の「自分にとってドレフェス事件とは何か」、「自分にとって第1次世界大戦とは何か」というような問題意識について、この『失われた時を求めて』という作品を通じての掘り下げはほとんどなされていないような印象を受ける。やはり、マルセル・プルーストが生きた国、生きた時代が、そのことを可能にしたのだろう。

【目次】

はしがき
『失われた時を求めて』の構成
『失われた時を求めて』の主な登場人物と架空地名

第1章 プルーストの生涯と作品

第2章 作中の「私」とプルースト

第3章 精神を描くプルースト

第4章 スワンと「私」の恋愛心理

第5章 無数の自我、記憶、時間

第6章 「私」が遍歴する社交界

第7章 「私」とドレフェス事件および第1次世界大戦

第8章 「私」とユダヤ・同性愛

第9章 サドマゾヒズムから文学創造へ

第10章 「私」の文学創造への道

あとがき
【地図】プルーストと『失われた時を求めて』のパリ
『失われた時を求めて』年表/プルースト略年譜
主要文献案内
図版出典一覧
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