この本は古典的名著として名前は知っていた。しかしなかなか読む機会がなく、どうしようかと思案していた。そんなとき吉見俊哉氏著の『大学は何処へ』(岩波新書)という本に出合った。これを読むと、大学の学期の構成をどうするかという問題提起の文脈の中で、『かつてヨハン・ホイジンガが見事に看破していたように、「遊び」こそが知的創造の源泉なのである』という主張を発見した。そこで、この『ホモ・ルーデンス』を読んでみようと思ったのである。
本書を読む場合、まずこの本に頻出する「遊び」という言葉が何を指しているのかを正確に把握することが必要になる。この場合の「遊び」は、これに正確に対応する日本語は存在しないと考えたほうが良い。原文はたぶんオランダ語なのだろうが、英語で言えば「Play」がやはり一番近いのだろうか。日本語では、「Play」の訳語として一番近い語は「遊び」なので、「遊び」と訳さざるを得ないのだとは思うが、とにかく、私たちが普段使っている日本語の言語空間における「遊び」ではない。
日本語では、「遊び」というと、娯楽、享楽、気晴らし、レジャー、怠惰、放縦、…、その他いろいろな言葉を連想してしまうが、『ホモ・ルーデンス』の訳文の中に登場する「遊び」は、これらのいずれとも異なる。むしろ、例えば囲碁や将棋、楽器演奏、舞踊、スポーツなど、能動的な意欲を伴って興じているときの遊びの感覚に近い。このような意味における「遊び」と、文化創造活動全般、裁判や戦争に至るまでの様々な人間社会の営みとの関係を詳細に論じている。
本書のおしまいのほうで、「遊び」と「ピュエリリズム」との違いを論じている部分は大変興味深い。ピュエリリズムとは、簡単に飽きるが決して満たされることのない陳腐な気晴らしを求める欲望、大衆的見世物好みを指す(P347)。さらにピュエリリズムは、ユーモアに対する感情の欠如、言葉に激しやすいこと、グループ外の人間に対する排他行動などもピュエリリズムと関連するという(P348)。
本書を読んだ後、これまでいろいろな局面で出会った人たちを振り返ってみると、やはり、人格に「遊び」が無い人というのは、人格に奥行きがなく、その人との付き合いにすぐに飽きてしまうということがあったように思う。
【目次】
第1章 文化現象としての遊びの性格と意味
第2章 言語における遊びの概念の構想とその表現
第3章 文かを創造する機能としての遊びと競り合い
第4章 遊びと裁判
第5章 遊びと戦争
第6章 遊びと知識
第7章 遊びと詩
第8章 形象化の機能
第9章 哲学のもつ遊びの形式
第10章 芸術のもつ遊びの形式
第11章 「遊びの相の下に」立つ文明と時代
第12章 現代文化のもつ遊びの要素
原注
解説
原本あとがき
学術文庫あとがき
【関連項目】
(読書)『大学は何処へ』(吉見俊哉著:岩波新書)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979504622&owner_id=3879221
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