mixiユーザー(id:3879221)

2021年06月12日17:37

180 view

(読書)『大学は何処へ』(吉見俊哉著:岩波新書)

新書版300ページほどの本であるが、非常に多様な内容が詰め込まれている。アマゾンの読者レビューを見ても、レビューを書いている人ごとに注目点、着眼点が全くといっていいほど異なっている。であれば、私も独自の注目点、着眼点でレビューしてみたい。

私が注目したいポイントは、日本の大学におけるリベラルアーツ教育の不在である。これがこの本で吉見氏が提起している日本の大学が抱える問題のかなりの部分とつながっているような気がしてならない。リベラルアーツ教育とは、私なりに解釈してみると、物事をその専門分野に沿った視点とは違った視点で眺め直してみる姿勢のことだといってもいいのではないだろうか。そういう視点を涵養するために、大学の2年次いっぱいぐらいまでは、文科系/理科系の専攻分野とは関係なしに、すべての学生が人文科学や自然科学を横断的に学ぶ。これは、いわゆる「教養課程」とは若干意義が異なると思う。日本のこれまでの大学で行われてきた「教養課程」は専門課程への下準備や高校での教育課程の焼き直しのような意味合いしかなかったのではないだろうか。

リベラルアーツ教育とは、物事をその専門分野に沿った視点とは違った視点で眺め直してみる姿勢のことである。例えば自然科学で様々な物理現象の背後にある学理を学んだとすると、こういった自然科学の学理の発見は、人間の世界に対する認識の仕方に何をもたらしたか、というような視点で見直してみようとする、そういうアプローチのことである。いろいろな学問対象にいろいろな視点変換のアプローチはありうるだろう。とにかくそういう物事をその専門分野に沿った視点とは違った視点で眺め直してみる姿勢の涵養こそがリベラルアーツ教育の意義である。

本書の193ページに、図5−4として、「学士課程入学者における25歳以上の学生比率の国際比較(2015年)」というのが載っている。OECDの平均値は16.6%であるのに対して日本の比率は2.5%である。すなわち、日本では、社会人となって勤労経験をある程度積んでから、大学に戻って学び直してみようという動機をもつ人はほとんどいないのである。このことの背後には、日本の社会人は大学の教育力にほとんど期待していない証拠だと思う。なぜ日本の社会人は大学での学びに期待していないのだろう。

私は、このことの背後には、日本人には大学でリベラルアーツを学ぶ体験の蓄積がほとんどないことがあると考えている。本書の24〜25ページあたりには、日本人が大学というものをとらえるとき、もっぱらその大学の入試の難易度はどの程度かなど、「入試」というフィルターを通してしか大学を評価できない実態が詳細に記述されている。このことと、一般の日本の社会人が社会人となって勤労経験をある程度積んでから、大学に戻って学び直してみようという動機を持つ人がほとんどいないこととは通底していると思われる。

なお、本書を読んでもう一つ気になる論点を発見した。それは日本の大学生は海外留学への意欲が低調で、大学での「学びの国際化」が一向にはかどらない点が指摘されている点である(P160〜162)。さらに、表4−1としてTOEFL(iBT)の日本の学生の国際比較が載っているが、日本の学生の平均点は70点で順位は135位、カメルーン、トーゴ、クエートと同順位であることが示されている。なぜこんなに順位が低いのか。その根本理由は、日本の若い人は言葉でコミュニケーションすること、あるいは議論をすることの本当の面白さを知らないのではないだろうか。その理由は、日本の学生の先輩世代にあたる大人たちが、本当に面白い語らい、本当に面白い議論というものの見本を示すことができていないからだと私は考えている。

もう一つ、本書で取り上げられている「大学院重点化政策」について問題点を指摘しておきたい。本書では、大学院重点化政策いついて「基本的には半世紀以上前に阿部たちが予見していたように大学院を研究活動の中心にする政策…」と紹介している(P73)。そのうえで、大学院重点化政策を推進するうえで、大学とは何か、その前段階の中等教育とは何かについて問い直すことが必要なはずだが、そのような問い直しが行われた形跡はない、という厳しい批判がなされている(P73〜74)。

ここで吉見が主張していることはもちろん一理あり、その意味では理解できるものではあるが、私の考えでは、著者の吉見は、物事をあまりにも物事を「表側」しか見ていないような気がしてならない。岩波新書の論者は、正攻法の論者というか、ややシニカルに言えばお育ちの良いお坊ちゃんの論者だという側面も無きにしも非ずだ。私の推察では、そもそも、大学院重点化政策は、大学にとっての少子化対策として考えられたものである。

どういうことかというと、日本はこれからどんどん出生数が減少していく。ということは当然のことながら、学生数も減少していく。ということは、「大学」という産業セクターにとって、顧客が減少していくことに他ならない。そこで大学人が考えた生き残り策は、学生の頭数を増やす代わりに、学生に長期間大学生でいてもらうとしたのである。例えば単純計算すると、学部の4年間しか大学に在籍しない学生が、全員修士課程まで計6年間在籍するようになると、これは学生数が1.5倍増えたのと同じ計算になる。大学人はそこに期待したのである。こういういわば不純な下心から編み出された戦略が「大学院重点化政策」なのだから、「大学とは何か、その前段階の中等教育とは何か」といった真摯な問い直しなど行われるわけがないのである。吉見はここを指摘するべきだった。

【目次】

序章 大学の第2の死とは何か―コロナ・パンデミックのなかで

第1章 大学はもう疲れ果てている―疲弊の根源を遡る

第2章 どれほどボタンの掛け違いを重ねてきたのか―歴史のなかに埋め込まれていた現在

第3章 キャンパスは本当に必要なのか―オンライン化の先へ

第4章 9月入学は危機打開の切り札か―グローバル化の先へ

第5章 日本の大学はなぜこれほど均質なのか―少子高齢化の先へ

第6章 大学という主体は存在するのか―自由な時間という希少資源

終章 ポストコロナ時代の大学とは何か―封鎖と接触の世界史のなかで

あとがき
主な引用・参考文献

【関連項目】

大学教育力ランキング

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2103/30/news116.html

(社会)高学歴ワーキングプア

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=594935753&owner_id=3879221
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年06月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930