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2021年04月26日15:16

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(その他)経済学と道徳哲学

最近読んだデヴィッド・グレーバー著『ブルシット・ジョブ』という本の中に、経済学という学問領域自体は、道徳哲学から生まれたということが指摘されている(P255)。私はこの指摘に大変啓発を受けた。

まず最初に連想したことが、日本からは自然科学系ならばけっこうな数のノーベル賞受賞者が出ているのに(受賞者数の国別比較でいえばアメリカ、イギリス、ドイツに続いて4番目)、ノーベル経済学賞の受賞者はいまだに出ていないという事実である。このことと、「経済学は道徳哲学から生まれた」ということが関係があるように思われる。

どういうことかというと、日本人の精神文化には哲学の伝統があまりにもなさすぎるのだ。実際、中島義道という哲学者は、この日本のことを「哲学者のいない国」であるとまで言っている。日本人の精神文化には哲学の伝統が欠けているものとすると、当然のことながら、日本人の精神文化には道徳哲学の伝統も欠けているものと考えられる。そうだとすると、日本人の頭脳から生み出される経済学は、道徳哲学の伝統を踏まえない薄っぺらなものになりがちということになるような気がしてならない。

実際、比較的最近出版された『経済学の堕落を撃つ』(中山智香子著:講談社現代新書)という本を読むと、最近の経済学者は、自分の勉学によって得た「分析ツール」としての経済学によって分析可能な問題を探し求め、解決可能な適当な題材がみつかると、それをこのツールで分析してそれで事足れりというレベルに終始しているという。著者の中山氏のこの指摘は、日本を含めた世界の経済学を対象に論じているが、おそらく日本において特に顕著に見られる傾向なのではないかと推察する。実際、日本人経済学者のお得意分野は、もっぱら経済学上の数量をガチャガチャいじくる計量経済学のような分野である。

私は軽量経済学のことはほとんど知らないため、もっぱら推察で考えるにすぎないのだが、計量経済学では「そもそも人間はなぜ働くか」という出発点で人間を把握しそこなっている可能性がある。例えば計量経済学では、人間はなぜ働くか、どのように働くべきかといった問題における哲学や宗教的信仰としての側面は切り捨てられ、もっぱら例えば生存するためとか、生活費や娯楽遊興費を稼ぐためとかいった、数量的パラメーターを抽出しやすい動機概念の操作世界の中に強制的に落とし込められてしまうような気がする。

なお、グレゴリー・クラーク著『日本人 ユニークさの源泉』(サイマル出版会)の中にも同様な指摘がある(P126〜127)。

【関連項目】

(読書)デヴィッド・グレーバー著『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979062474&owner_id=3879221

(読書)『経済学の堕落を撃つ』(中山智香子著:講談社現代新書)

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977691149&owner_id=3879221
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