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2021年04月04日11:22

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(人生)統合と折衷

NHKのテレビ番組、『100分de名著』の4月のテーマは渋沢栄一の『論語と算盤』である。この本自体は実は読んだことがないが、この番組のテキストはさっそく買ってきて読んでみた。いくつか興味深い論点を発見したので、その中の一つのポイントについて掘り下げて考察してみたい。

テキストのP109に、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』についての言及がある。この部分では、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においては、キリスト教の教義、特にプロテスタンティズムの教義が道徳の手本として採用されていることを考えると、日本において求められる「道徳と経済」における道徳の基盤には、仏教や神道がふさわしいのではないかという問題提起がなされている。

この問題提起に対して、渋沢は、『論語』が宗教的ではないからこそ、道徳の基盤としては『論語』がふさわしいと考えていたことが書かれている。その意味では、この渋沢の著作『論語と算盤』は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の日本人向けバージョンであるという見方もできそうだ。このことを明確に打ち出すのなら、本のタイトルも『論語と算盤』ではなく、『論語の倫理と算盤の精神』としてもいいかもしれない。

だが、『論語の倫理と算盤の精神』というタイトルにしてしまうと、なんとなく違和感を感じるのは私だけではないだろう。この違和感の原因は、単に、このタイトル付けがパクリかパロディの雰囲気を連想させるからだけではないと考えるのである。私の考えでは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と、『論語の倫理と算盤の精神』とでは、「本を書く」という行為の根底にあるエートスに根本的な違いがあるような気がしている。どういうことかというと、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著作を書いた時、その根底には、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神とを統合したいというエートスがあったような気がしてならない。

一方、渋沢は、『論語と算盤』を書いた時、論語の倫理と算盤の精神とを統合しようとしていたのではないと推察するのである。彼はむしろ論語の倫理と算盤の精神とを折衷しようとしていたのだ。つまり、マックス・ウェーバーのエートスは「統合」であり、渋沢のエートスは「折衷」だったのである。この意味で、渋沢の『論語と算盤』のタイトルを『論語の倫理と算盤の精神』としてしまうのは不適切になるような気がする。やはり、渋沢の『論語と算盤』のタイトルは『論語と算盤』で適切だったのだ。

なお、なぜ日本人は「異質な2者を統合しよう」というエートスが働きにくいのかというと、やはりそこは宗教的バックグラウンドの差だと考えられる。「異質な2者を統合しよう」というエートスが働きやすいバックグラウンドはやはり一神教だろう。日本は太古の昔から多神教の土壌である。だから、日本人が異質な2者に向き合う時は、「統合」ではなく「折衷」になるのだ。

【関連項目】

(読書)『100分de名著』の4月放送分

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978854565&owner_id=3879221
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