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2020年11月13日15:13

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(産業経済)労働法による労働者保護の限界

今朝、昨日の日本経済新聞を読み返していたところ、神戸大学の大内伸哉(おおうちしんや)教授による、最近の最高裁判決(大坂医科薬科大学事件、メトロコマース事件、日本郵便事件)の内容を分析している記事(2020年11月12日)が目に留まったので、じっくり読んでみた。これらの事件に共通するテーマは、企業に勤務する労働者における「同一労働同一賃金」の理念はどう推進していくべきかということである。

この記事を読むと、記事の筆者である大内教授は、「最高裁が既存の格差(正社員と非正社員との待遇格差)を是認したとみるのは適切ではない。均衡待遇の実現は司法ではなく、当事者が交渉で決めていくべきだというのが最高裁のメッセージであり、これは筆者の見解に近い」ということを述べている。

もしこの見解がある程度妥当なものだとすると、「労働法による労働者保護には限界がある」ということだろう。労働者は自分自身の交渉力に磨きをかけて、雇用主との交渉の場に臨まなくてはならないということを意味していると思う。だが、個々の労働者が自身の条件交渉力に磨きをかけるということ自体にもたいへんな限界があると言わざるを得ない。

交渉の土台となる労働法についての予備知識を準備するのも大変だし、就職面接などにおける交渉の場において、自分が就業しようとしているその企業における業務内容、労働環境等については、雇用主側とは大変な情報格差があると言わざるを得ない。もっとも雇用主側にも、「人を雇用する」ということの中に大きなリスクを抱えている。その人(求人広告等に応募してきた人など)がどれくらいの労働パーフォーマンスを上げてくれるか予測が難しいなか、その人の待遇を決めることには当然リスクが伴う。この採用面接のような交渉の場は、「対等でない場」というよりはむしろ「相互に視界が異なる場」に立ってお互いを見ているようなものだ。

つまり、採用面接のような交渉の場は、「同一の土俵に立った対等な交渉の場」とは程遠いのが現状なのではないだろうか。にもかかわらず、「均衡待遇の実現は司法ではなく、当事者が交渉で決めていくべきだ」というのが最高裁のメッセージなのである。労働者というのは本質的に「捨てられた」存在なのではないかという気がする。

【関連項目】

(産業経済)アルバイト職員への賞与

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977205198&owner_id=3879221

(産業経済)事例判断

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977250868&owner_id=3879221
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