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2019年08月21日16:55

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(産業経済)コミュニケーションの枠組みとメンバーシップ幻想

『(人生)欠落している他人とのコミュニケーションスキル重視の視点』という日記を書いていたところ、日本人にとっての「コミュニケーション」という概念の枠組みの狭さと、日本の会社における個々の職場がメンバーシップ幻想によって束ねられているということとの間には、関連があるのではないかと思えてきた。

福田恒存の『日本を思う』(文春文庫)の中の「日本及び日本人」というエッセイの中に、次のような文章がある。

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日本人ははじめから自分の鏡に映らぬ相手を認めようとしないし、相手の鏡に映らぬ自分をもたない。「島国根性」といわれるのは、おそらくそこから生まれるのだとおもいます。日本人のことを、よく秘密ずきだとかいいますが、けっしてそんなことはありません、元来、日本人は開放的で、秘密がない。みんな仲間うちなのです。ですから、表現が下手なのではなく、表現の必要がなかったのです。つまり島国で異民族と接触する機会がほとんどなかったということになります。封建的ということばではかたはつきません。(P63)
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ここで言う「鏡」とは、今風の言葉でいうと、「認識の枠組み」のようなものだろう。

「相手の鏡に映らぬ自分をもたない」の意味は解釈がけっこう難しい。もしここに「他人が自分をどう見ようと、どう思おうと、自分は自分だ。そんなことには関係なく、自分が考える自分というものが断固としてある」という信念を持つタイプの人がいたとすると、この人は、「相手の鏡に映らぬ自分をもたない」とは正反対の生き方をとっている人であるということが言えるだろう。

逆にいうと、日本人は、「相手にわかってもらえ得るキャラクターの持ち主を演じようとする」ということではないだろうか。

「表現が下手なのではなく、表現の必要がなかった」という部分は言いえて妙である。

上記の福田恒存の考察から導き出せる結論のひとつは、日本人にとっての「コミュニケーション」とは、そもそもどういうものをコミュニケーションと概念規定するのか、その概念規定が狭く小さくチマチマとまとまっているということなのではないだろうか。

もしそうだとすると、そこから職場のメンバーシップ幻想の謎が解明されるような気がする。すなわち、日本人にとってコミュニケーションの概念は、狭くちいさくチマチマとまとまっているものだとすると、そういう日本人を束ねる共同幻想も、狭くちいさくチマチマとまとまったものになるのではないだろうか。職場のメンバーシップ幻想は、そういう日本人にとっての、いわば「おあつらえむき」の幻想スタイルであると思われる。


【関連項目】

(人生)欠落している他人とのコミュニケーションスキル重視の視点

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1972691969&owner_id=3879221
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