NHKのテレビ番組『100分de名著』で、オルテガの『大衆の反逆』が始まった。テキストを読んでみると、本当に面白い。私は以前に吉本隆明の大衆論とオルテガの大衆論とはなぜこうも違うのかということがとても気になっていた。しかし、この『100分de名著 大衆の反逆』のテキストを読んでみると、私なりにその違いが明瞭に理解できるような気がする。
まず最初に気が付く点は、吉本隆明の大衆論は、「大衆」というものを「知識人」との対比で、「大衆vs知識人」という二元論に沿って理論的にとらえようとしているように思える。このため、当然のことながら、吉本の「大衆論」は観念的である。吉本が唱えている「大衆」というものを具体的に思い浮かべることは難しい。例えば身近にいる人の中から、「○○さんは吉本がいうところの典型的な大衆だ」のように思える人を探すことが難しい。
ところが、オルテガの大衆論は、スタート地点から吉本の大衆論とは異なっている。オルテガの場合は、「ここでいう『大衆』とは、これこれこういう性格をもった人々のことを指す」という具合に、最初に自分の論じる対象の「大衆」を定義している。その上で、こういう類型的性格をもった人々としての「大衆」はなぜ発生したのかといった分析を詳細に行っているのである。
このため、例えば身近にいる人の中から、「○○さんはオルテガがいうところの典型的な大衆だ」のように思える人を探すことが極めて容易である。実際、私は大学を出ていろいろな職場を経験してきたが、職場生活で接してきた上司や同僚や先輩は、ほぼ全員が、オルテガがいうところの「大衆」の性格を持っているように思えるのである。
吉本隆明の大衆論とオルテガの大衆論のどちらが好きかといえば、圧倒的にオルテガの大衆論のほうが好きであり、また役に立つように思う。なぜなのだろうか。それを説明する一つのキーとして、逆に、吉本隆明とオルテガは、それぞれ「大衆ではない集合(大衆という集合の否定の集合)」をどうとらえているかで比較してみることで分かるような気がする。
吉本は、「大衆でない集合」として「知識人」を想定している。そして吉本にとっての知識人の定義は、「よけいなことを考える存在」だというのである。この場合の「よけいなこと」とは「日常生活に直接関係していないようなこと」というような意味である。学問や芸術のような上部構造的な幻想をあれこれ考える人間を全部ひっくるめて「知識人」と言っているのである。このため、吉本によれば、普通の大学生なども「知識人」の部類に入ることになろう。
一方、オルテガやオルテガ思想の流れを受け継ぐ西部邁のような思想家にとって、「知識人」という言葉の概念はかなり厳密で狭いものだ。その代り、吉本のいう「知識人」の集合から、オルテガや西部のいう「知識人」の集合を差し引いた残りの集合として「専門人」という概念を導入している。そしてオルテガの思想によれば、この「専門人」こそ大衆の原型なのである。
【放送スケジュール】
第1回 大衆の時代 2月4日/2月6日放送
第2回 リベラルであること 2月11日/2月13日放送
第3回 死者の民主主義 2月18日/2月20日放送
第4回 「保守」とは何か 2月25日/2月27日放送
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