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2018年05月07日15:06

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(読書)『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社(その2)

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)という本が話題になっているので、読んでみた。非常に面白い本なので、多くの人に推薦できる。本書は大きくわけて2つの部分に分けてとらえることができる。第1部は、そもそもAIとは何か、それはどんな技術でできているか、そこからどんな可能性と限界があるのか、そういうことを理性的に認識することができる。第2部では、そのAIが産業界に浸透していくと、人間の職業にはどんな影響が生じるか、AIでは代替できない人間の能力とは何か、いまの中学高校生には、そういうAIに代替できない能力の素地となるものは育っているのか、そういうことを掘り下げている。本書では、第1章と第2章が第1部に相当し、第3章と第4章が第2部に相当する。

まず、本書の第1部では、「真の意味でのAI」というものの定義を著者なりに明快に述べている。「真の意味でのAI」とは、「人間の一般的な知能と同等レベルの知能」という意味である。そしてよく聞く「シンギュラリティ」という言葉の定義も、「真の意味でのAI」が自分自身よりも能力の高いAIを作り出すようになる地点」としている。そして著者の結論は、「真の意味でのAI」はいまだ存在せず、「シンギュラリティが到来する可能性は少なくとも現時点では、あり得ない」と断言している。

著者がそう断言する根拠は、以下の通りである。AIが人間と同等の知能を得るためには、私たちの脳が認識していることのすべてを計算可能な数式に置き換えることができなければならない。ところが数学で数式に置き換えることができるのは、「論理的に言えること」、「統計的に言えること」、「確率的に言えること」の3つだけだというのだ。この3項目だけでは、私たちの脳が認識していることのすべてを計算可能な数式に置き換えることはできない。このため、私たちは「真の意味でのAI」を作ることはできず、シンギュラリティが到来する可能性もあり得ないのである。

なお、AIを技術的に構成しようとするプロセスにおいて、物事を言語化し、数値化し、測定し、数理モデル化しようとする過程が必ず存在する。このプロセスには「物事を無理にかたづける」ということが不可避的に含まれてしまう。著者は片づける腕力を持つのと同時に、そこで豊かさが失われることの痛みを知っている人だけが、一流の科学者や、技術者たりうるのではないかと言っている。この見解には注目すべきであると思う。

本書の第2部では、そのAIが産業界に浸透していくと、人間の職業にはどんな影響が生じるか、AIでは代替できない人間の能力とは何か、いまの中学高校生には、そういうAIに代替できない能力の素地となるものは育っているのか、そういうことを掘り下げている。そして、AIに代替できない能力の素地として「読解力」を挙げている。

いまの中学高校生の読解力のレベルはかなり危機的なレベルにあるようだが、では子どもの読解力を向上させる効果的な処方箋はあるのかというと、どうもないらしいのだ。本書のP222以降を読むと、読書習慣、学習習慣、得意科目などの項目と読解力との間には目立つ相関はなにも発見できなかったとしている。読解力養成のための「決め手」となるような教育方法、トレーニング方法は存在しないようだ。

では、子どもの読解力養成にかんしては無為無策にならざるをえないのだろうか。私は、次のように考える。まず、読解力はコミュニケーション力の一環である。コミュニケーション力が育たないまま、読解力だけが育つということはあり得ないと考える。その人のコミュニケーション力が育つことに伴って、読解力も育っていく。そういう関係にあると思う。

では、その人のコミュニケーション力はどのようにして育つのだろうか。私の考えでは、コミュニケーションが上手な人が沢山いる環境の中に身を置くことによってコミュニケーションの小さな成功体験を積み上げることができ、そのことがコミュニケーション力を向上させるような気がする。両親や兄弟、とりわけ両親のコミュニケーション力が成熟しているときは、コミュニケーション力のある子どもが育つのではないだろうか。

会社の部署でも同じようなことが言えるような気がする。その部署にコミュニケーションが上手な人が沢山いるときは、そういう部署に身を置くことによって、コミュニケーション力が向上していくことだろう。

もうひとつ、本書を読んで私は学校における国語(特に現代国語)における授業のありかたについても考えることがあった。国語の担当教諭は、国語以外の教科・科目(たとえば数学や物理、歴史・地理など)で、生徒に国語力がどのように要請されているのかということをもっと現実に即して認識するべきである。私の中学高校時代の国語の先生は、文学作品の読解にばかり偏り過ぎているように感じた。おそらく国語の先生は、学生時代は文学部に在籍し、日本の古典文学や近代文学の勉強にいそしんできたことだろう。このため、中学や高校の授業も、その延長のように考えているきらいはないだろうか。だが国語の授業は文学の授業ではない。「生徒のためになる国語の授業」というものをしっかり考察するべきだ。

最後に、本書で著者は「アクティブラーニングは絵に描いた餅だ」という興味深い主張をしているので紹介しておきたい。アクティブラーニングとは学習者の能動的な学習への参加を取り入れた授業・学習法の総称である。だが、著者は、教科書に書いてあることが理解できない学生が、どのようにすれば自ら調べることができるのだろうか、と問題提起している。まったくその通りだと思う。

【関連項目】

(読書)『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1966141927&owner_id=3879221
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