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2018年04月26日15:02

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(人生)等覚一転名字妙覚

今週の月曜日(4月23日)、NHKの『100分de名著』という番組の『法華経シリーズ』第4回の放映を見ていたところ、「等覚一転名字妙覚」という言葉が出てきた。これはどういう意味だろうか。番組の中でなされた解説によると、以下のような意味である。

まず「等覚一転名字妙覚」は2字の漢字熟語4つから成っているが、これのうち、もっとも重要なものが「妙覚」である。「妙覚」とは悟りの究極の理想の境地を言う。「名字」とは、この「妙覚」の境地を目指して修行の出発点についている状態を言う。「等覚」とは、「妙覚」をめざした修行がかなりいい線まで来て「妙覚」にほぼ匹敵する状態をいう。そして「名字」のステイタスから「等覚」の境地までは、悟りの境地の高みをめざして、右肩上がりのスロープ(勾配)を登る過程があったと考えられる。

では、目標とする「妙覚」の境地は、このスロープの延長上にあるのだろうか。実は「妙覚」の境地は、このスロープの延長上にはないのである。真の「妙覚」は「名字」と同じレベルにあったのだ。「等覚」の境地に達した人がこの真理に気付いて「妙覚」の境地に達することを「等覚一転名字妙覚」と言うのである。

番組では、この「等覚一転名字妙覚」の体験は、長谷川等伯という近世の画家が「松林図屏風」を描き上げるときの過程に即して解説されていた。この「等覚一転名字妙覚」の原理は、演奏家が真に感動的な演奏を目指して精進するときの過程にも起こり得るような気がする。

例えばあるヴァイオリニストが、理想のヴァイオリニスト像としてオイストラフやハイフェッツを思い描いていたとする。精進がいい線まで進んでくれば、「いったいどうすれば、あと一歩、オイストラフの境地に達することができるだろう…」そう思い悩んでいることも考えられよう。だが、おそらく、このヴァイオリニストが理想とする境地は、これまで自分が歩んできた精進の延長上にはないのである。「他のだれでもない、つまりオイストラフやハイフェッツではない、自分らしい音楽」をつくることに目覚めた時、「等覚一転名字妙覚」の体験が得られるのではないだろうか。

【関連項目】

東京国立博物館HP内 松林図屏風

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10471

『100分de名著』番組HP

http://www.nhk.or.jp/meicho/
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