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2018年02月09日11:39

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(読書)『文系の壁』(養老孟子:PHP新書)

東大医学部名誉教授で著述家の養老孟子が、理科系の識者4人を相手に対談で構成した本だ。テーマは、文系の人の思考にはどんな壁があるかというもの。読んでみると面白い発見はたしかにある。4本の対談の個別評価に入る前に、まず「論理的思考」、「理論的思考」、「科学的思考」の3つの言葉の定義を確認しておきたい。

(1)論理的思考とは、ひらたくいえば一つのセンテンスで記述される論理を積み上げていく思考方のことといっていい。論理的思考力について、理系の人と文系の人とで格別優劣があるとは思えない。むしろ、文系の人でも法律系の人なら、理系の人より達者に論理を組み立てる可能性がある。このため、論理思考においてなにか「文系の壁」が存在するとは思えない。

(2)理論的思考とは、体系化した理論に基づいて思考することである。たとえばアインシュタインの相対性理論に基づいてその場における時間の流れ方を考察するなどは理論的思考であるといえよう。この場合は、理系の人のほうが文系の人よりもアドバンテージがあるかに見えるが、実際のところ、それほどでもないような気がする。例えば近代以降の経済学などは非常に理論的だ。このため、文系の人でも、経済学を専攻したような人なら理系の人に負けないくらい理論的思考をすると思える。このため、理論的思考力の中に文系の壁をみいだすことは困難だろう。

(3)最後に科学的思考だ。もし理系の人の思考方が文系の人の思考方に対して何かアドバンテージを持つとしたら、理系の人のほうが科学的思考をしうるということだろう。逆に言えば、文系の人が科学的思考が苦手だとしたら、そこに「文系の壁」があるかもしれない。科学的思考とは、物事の背後にある因果関係は何かを重視する思考方である。そして科学的思考方でもう一つ重視する点があるとしたら、「その因果関係命題が成立するための前提条件は何か?」ということを常に問い続ける点にある。

以上のことを予備知識として踏まえて、この本における4本の対談を評価してみたい。

(1)森博嗣との対談
まず、人間は「言葉で考える」のだろうか。この点で、最初の対談者の森博嗣氏は次のように語っている。

「大学時代、文系の先輩に、『人間は言葉で考えている。言葉がなかったら考えられないはずだ』と言われて、びっくりしました。僕は言葉で考えていませんから、「それは違います」と反論したのですが、まったく議論はかみ合いませんでした。僕の場合は、思考の大部分は映像です。数字を扱う場合でも、座標や形で考えます」(P19)

言葉で考えたがるのは文系の人の癖なのかもしれない。「文系の方がデジタル」という節でも、森博嗣氏は次のように語っている。

「文系の人は、自分のわからないことを言葉で解決しようとします。たとえば、独楽(こま)は回っているから倒れない。自転車は走っているから倒れない、ということを「理屈」だと思い込んで納得し、それで解決済みにしてしまう。回っている物がなぜ倒れないのか、走っているとなぜ倒れないのかは考えようとしません」(P30)

「物事を突き詰めていった先にある、数学的な原則や物理法則のようなものに立脚して、論理を構築しようとする。その努力をしたがるのが理系です」(P31)

また、「前提の吟味をしない日本の文系」という節(P34)にも興味深い発言が見える。

「僕からしてみれば、社会や人間など、あやふやでとらえようがないものを、文系の人はどうして理屈で解釈してわかったような気になるのか不思議でなりません。心理学の本を読んでも、よくこんなに割り切れるものだと感心します。文系は理系のことを理屈っぽいと思っているのでしょうが、文系の方のほうがはるかに『理屈っぽい』ですよね」(P34〜35)

この森博嗣氏の発言に対し、養老孟子の応答がまた興味深い。

「特に日本の文系に言えることですが、彼らは前提の吟味をしませんね。何か具体的な問題について議論するときでも、僕が前提を確認しようとすると嫌がられてしまう」(P35)

としている。この『文系の壁』という本は、最初の対談者であるこの森博嗣氏との対談が、「文系の壁」を論じるという点においてもっとも成功している。最後にもう1か所、「言い訳」や「弁解」というものについてどうとらえるべきかという切り口からみた理系文系の違いについての示唆的な発言を紹介しておきたい。

「日本には、言い訳をするのは見苦しいことだという文化があって、とりあえず謝るだけになってしまう。それでは、うちに籠っていくばかりです。
 言い訳がきちんとできないと、何を反省すれば良いのかもわかりません。だけど、そう思う人は日本では少数派のようです。
 どういうつもりだったのか、本人がきちんと言い訳しないと、次の手が打てません」(P56)

文系の人は、例えば「言い訳したり、弁解したりすることはみっともないことだ」のようなビヘイビアの文化にとらわれているように思う。逆に言えば、文系の人は、ある結果の背後にはどんな原因があったのか、物事と物事との間を結ぶ因果関係をしっかり把握し分析しようとする姿勢が欠如しているということを示唆しているのではないだろうか。

(2)藤井直敬との対談
私の感想を率直に申し上げると、この対談の中には、「文系の人の思考方にはどんな壁があるか」という問題を解きほぐすヒントになるものは、ほとんど発見できなかった。

(3)鈴木健との対談
細胞の話、身体の話、仏教哲学の話など、ある程度興味深い話題は出てくるが、ここでも「文系の人の思考方にはどんな壁があるか」という問題を解きほぐすヒントになるものは、ほとんど発見できなかった。

(4)須田桃子との対談
養老の須田桃子氏との対談には、例のSTAP細胞論文騒動の話題が出てくる。私はこの事件に関してはいまだにきちんと解明されていないモヤモヤしたところを感じていたが、その理由につながることが両者の対談の中で述べられている。

まず、対談のホスト役である養老孟子は、山中伸弥氏のiPS細胞の作成は、ある意味工学的な発想から行われた「育種」であるという。この切り口から、「人間はいまだに細胞そのものを人工的に作成うことに成功しているわけではない」という問題提起を行っている。

この問題提起の延長から、生命科学者はいかにして細胞そのものが初期化されるのか、その初期化のメカニズムを解明したいという渇望のようなものをいだいていたという分析が述べられる。そこへ、あたかも「渡りに船」のように登場したのが、小保方晴子さんの「STAP細胞論文」だったのだ。小保方さんの上司である笹井氏が「これはすごい業績」と騙されたのは人情からいうと必然に近かったようだ。この問題意識の文脈から須田は次のように言っている。

「ES細胞を、誰がなぜ、どのように混ぜたのかはわからないままなんです。1年以上にわたって、様々な試料で混入が起きたわけですから、偶然混ざる可能性なんて、合理的に考えればありえない。誰かがやったとしか思えないんですけれど、不正かどうかの認定すらされていない。『真相解明』なんて全然できていないんです。でも、野依理事長は、事件の全貌はもう判明したっていうふうにおっしゃっていたんです」(P197)

須田氏のこのような視点は、最初の対談者である森博嗣氏の「言い訳がきちんとされないと次の手が打てない」という考え方と通じるものがあるといえよう。そしてこういう視点は、すぐれて理系人間的発想だと思う。逆に言えば、文系人間の壁もこういう点にあると言えよう。

では、ノーベル化学賞を受賞した野依氏は、なぜ「事件の全貌はもう判明した」などと言っているのだろう。野依氏はノーベル化学賞受賞者なのだから、バリバリの理系人間なのではないだろうか。これは私の推察だが、理研という組織の管理者のトップである「理事長」の職責に就いていると、文系的発想で物事を処理していかざるを得ないのだと思う。

ところで、この第4章には、「文系の壁」ではなく、逆に「理系の壁」を感じさせる部分が含まれていて興味深い。P200以降にある『科学は欧米型、生き方は日本型で』で、養老の口から「仕事でやっている論理と、日本社会に適応していく論理は別だ」(p201)ということが述べられている。現実の日本社会は多分そういうところがあるのだと思う。しかし養老は、日本の社会がそういうダブルスタンダード構造を持っているということそのものへの問題意識はほとんど持っていないように読めるのである。ここにきちんとした問題意識を持てるとしたら、それは文系的センスに属すると思う。
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