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2019年05月16日02:59

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何をしたいのか(頭整理用)

ちょっと一筆書きで頭の整理。
(誰かが読んでおもしろいものではないのでどうぞスルーしてください)



最近、何をしたいのかなと、たまに思うことがあるのだけど、ありきたりな答えがサクサクと出てくる。

部活の新入生の勧誘が四月にあり、男子12人、女子12人を目標とする。
大学が運動系ではないので、新入生はお決まりの言葉をいう。

「大学では緩くやりたいんです」

そして、体験稽古にくると、大半の入部動機はこうなる
「先輩みたいに、先輩たちみたいになりたくて部活に入りました」
そして入部者は男子12人、女子12人。


体験中にホワイトボードに書いたり伝えたりすることはいろいろあるけれど、伝えたい大半はこれ。


何を所有したいのか、何をしたいのかで考えるのではなく、どう在りたいかでかんがえよう。
今みんながどのサークル、どの部活にしたいかは何をしたいかで考えている。
だから、どう在りたいかという高校時代や中学時代にあったこう在りたい!という一番の動機を忘れて考えてしまっている。
楽して生きたい人間になりたくて国立大に入ろうと毎日つらい勉強をしてきたのかと。

まさに、これ以上なくありきたりなことだが、生きることとはこれしかないのだと思っている。

どう在りたいから、何をしたいか、何を所有したいかを決めたほうがすごくシンプルに生きられる。



しかし、今の時代は、いや、もしかしたら今の時代に限らず人の文化に「富」や「財産」が生まれてからこう在りたいというところから生まれた何をしたい、何を所有したいも、気づいたらそれが目的にすげ変わってしまうところがあるのだと思う。

それは情報化社会になればなるほどなおさらだと思う。

SNSで「旅行に行ってるよ!」
何をしているかを見せたい
SNSで「これを買ったよ!」
何を所有しているかを見せたい
たしかに動いていく自分の周りではあり、ある意味の支持者も増えていく。
不特定多数の人からの支持が増えることで、自分にリアルの知り合いが増え、やりたいことを発信していればそれに伴う人も増える。

それが何かしらのリーダーであればリーダーどうしが知り合っていくわけで動かせる世界も増える。
専門家であるならば、お互いの専門性を活かせる。

動かせる世界も増えていく。


先日、ある理事会があり、人を増やすにはまず入口から、という意見とその入り口から入った中を先にしっかりしていないと良くないという意見と分かれる。
分かれるというか、入口増やしには皆賛成なわけだが、中がしっかりしていない状態で人を入れるとかえってよくないことがおこるのでは、という心配があるわけだ。

ありがたいことに、うちの部活や団体の意見を聞いてはという話題も出してもらえる。
恐縮な話しではあるが、データでみればうちは右肩あがりなわけで確かに参考にするのはいいのではと客観的にも思う。
あくまで、参考程度に。
同じ人がやるわけではないからだ。

うちがうまくいったのも偶然的要素もたくさんある。

それでもなお参考になると言えるのは、今もっている在り方、やり方、持ち方で行動できれば、時代が違っても、場所が違っても、対象の世代が変わっても、別に難しくなく同じような結果は出せるということだ。
ただ、今の自分程度の結果だが。

年収÷一年間の総働き時間で自分の時給が計算できる。
年収が高くても自分の働いた時間が長ければ時給は実はあがっていない。

僕のやり方は道場生や生徒との関り合いが多いので、割りは合わないかもしれない。

どこかしら負担の歪もでる。

それでも、関わったぶんだけ生まれるものもある。

こないだ卒業した部員の75%以上が道場に所属してくれた。
相変わらずほとんど何もしていないHPなどの状態なのに、道場生も増える。
口コミだ。
船橋という土地柄、すさまじい数の習い事があるが、見に来てくれれば90%以上の人が入館してくれる。
幼稚園生の時入館してくれた子はもうすぐ高校受験だ。
全国大会で優勝してくれた子もそうでない子も。

中学2年から始めてくれた子は13年ほどを経て一昨年世界大会で優勝した。

今ビジネスの世界はわりがいいかどうかをすごく大事にする。

正しいと思う。

なのに、合理主義なはずの自分がなぜ、そうしないのか、たぶん、ほしいものがわりのいい話しではなく、人と関わっていくことなのだと思う。
素晴らしい人物と出会えるとものすごく勉強になって本当にありがたく、刺激を受け、世界も広がり、やれることも増える。
それが合理的だ。
いい話しもありがたいことにやってくる。

しかし、やっていること、選んでいることは、むしろ手のかかる学生や道場生と共にあることだ。
もちろん、もともと優秀な子もいる。
今年も極真団体全国に連覇した子や個人で全国いった子、陸上800Mで全国行った子、有名体操部出身者など勉強メイン工学部メインの国立大なのにびっくりのラインナップだ。

優秀な子達を育てるのももちろん面白い。

しかしなんでだろう、やはり、「え!?この子が!?」って子を育てるほうも面白いのだ。

だけど、別に今優秀でない子を育てるのが生きがいというわけでもない。


何をしたいのか。


価値観は過去からしか生まれないので過去から紐解こうとするのであれば、
ひたすら本を読んだり、初めて運動(空手)と出会った幼稚園時代
なんでもさぼりたかった自分に疑問いっぱいで劣等感たっぷりの小学生時代
運動は平等で、だから勉強も平等で、能力とはやったぶんだけあがり、やらなかったぶんだけあがらなず、成長とは平等だと知った中学時代。
同様に、母の死で運命とはまったく平等ではないと知った中学時代。
自分が初めてまともなリーダーとしての経験を積めた高校時代。
また、キックボクシングのプロライセンスを取得するなど、周りと比較して他の人がもってない箔を持つ経験をした高校時代。
箔を持った状態で生きるとそのプライドからそれに相応しくいようという状態を知った大学時代。
また、高校時代の経験からもう少し他人と共にあろうとし寮生活するなどした大学時代。
全国優勝など個人としてのタイトルを初めて取った大学時代。
また、他の人に教えるとか、励ますとか、影響を与えるという貢献やわがままを存分に経験した大学時代。
そういうマイノリティの立場も知った大学時代。
大学生をしながら契約社員をしたり保険証からも外れたり社会人と同額の収入を得ながら学生をして「仕事」を覚えた大学時代。
多大な恩を知り、人生に一番影響を与えてくれた師に出会えた筑波時代。
また、何をしたいのか迷いだらけになった筑波時代。
生き方を決められた千葉時代。
医療従事者としての生き方に入った整形外科時代。
道場を出して「礼の前に仁がある」ことを知った道場時代のはじまり。
経営のシビアさを知った整骨院時代。
一つのことに対し多角的なアプローチがあることを再認識したトレーナー時代。
人は正論ではなく感情で動き、その感情に訴えかけるためには正論のその逆を同時に学ばなければならないと知ったマネージャー時代。
大学に部活を作り、お金をもらってやることと、お金をもらわないでやることの価値とは、何かを再認識したうえで、自分がお金ではなく、人という報酬がほしいのだいうことに気が付いた監督時代のはじまり。
そして、個人で経営をはじめ、それをより一層感じたが、そのうえで、人と一緒に仕事をすればお金を稼ぐモチベーションが下がらず、人と一緒に仕事をしないとお金を稼ぐモチベーションがだださがるので、お金を稼ぐ自分ルールをもっていないといけないと実感した日月時代。
道場出したてしばらく依頼、妙に取材や企業の社長による見学などが増えた昨年や今年。
不思議なのは、世界大会優勝年よりも取材が多いということだ。

さて、自分は何をしたいのだろう。

ほしいのは、やはり「人」なのだろう。
不特定多数の他人からの支持ではないのはよくわかった。
高校くらいの時は自分の理解者がほしくて、不特定多数の支持者がいれば自分の何かしらが自分の身近な人に伝わるのではと思っていた。

しかし、全国、世界大会で優勝したときの、武道関係者以外の自分への評価のほうが武道関係者よりも高い反応を示していたリ、しかし、それは偶像や思い込みの評価だったりして、自分の身近な道場の仲間のほうがやはり自分の過程をよく見ていて、よく自分を理解してくれた上で高い評価をしていたり、またどんなに身近でも全然伝わらなかったりする場合もあったり、評価の不思議やそれに対する自分の感情の変化の不思議を考えていると、「他の人と共に成長していく体験」が一番自分の脳の報酬系に刺激をいれているように思う。

だから、ボランティア的な行動をとってしまうだが、最近はその自分の体験を真似られて追う人が出たとき、追体験する人にとって、脳としての基本的欲求がうまっても社会生活的にはあまり合理的ではなくなってしまう。
今後、どう世界が動いていくかはわからないが、まだしばらくは資本主義経済だろうから非合理的生き方になる。

だから、自分もお手本としてみなされるのであれば、資本主義経済においてのお手本的行動をしたほうがいいということになる。

そう、ここだ、何がものすごくめんどくさくて「あー、めんどうだ、、、」と思っていたのはここなのだ。
マネージャーとして仕事をしていた時には全然感じないこのめんどくささ。

マネージャーとしてはその時の役割として求められていたからやり甲斐をもってやれていたのだろう。

この義務感というか、責任感のようなもので稼ぐシステムもっとこうかというのがむしろがっつりモチベーションを落としているのだ。

もちろん稼いだお金でもっともっと貢献的なことをすればいいという認識を自分に落とし込めればいいわけだが、とりあえず現在はここがおもいっきりめんどくさいのだ。

正論ではなく、感情的に。


最近はこういうお金もらうことにたいするメンタルブロックを外す、みたいな考え方やそれを得意とするコーチもいるくらいだ。

そういう世の中なのだろう。

ありがたいことに、身の回りの人はそんな僕の気持ちを知ってか知らずか、生徒側から月謝をあげてくれたり、支払いを多くしてくれたりする。

不思議なものだ。


そうだ、どう在りたいか、はっきりしてきた。


最初からわかっていたことかもしれないが、「必要とされる人で在りたい」
誰かにとって「必要な人でありたい」のだ。

医療の仕事でも。
武道の指導でも。
運動のレッスンでも。
大学の生徒とのやりとりでも。
道場の子どもや父母さんとも。
友人でも。
家族でも。

自分がその人に貢献できて、その対価で生きられればそれ以上の幸せはない。

昨年、カリフォルニアの人からシリコンバレーで学校を作ってほしいと頼まれた。
その年、協会の指導局長になったのもあり、また自分の道場、大学のほうも総数100人くらいのでっかい赤ちゃんのような状態なので、うまく乗り気になれなかった。

たぶん、自分が今現在わかりやすく必要とされる場があったからだ。
今もちょこちょこくる海外からの「教えに来て」というオファー。
なんだろう、言葉や気持ちがもっと伝え合えるようになったらワクワクするのだろうか。

それだけでない気がする。

コツコツと積み上げてきた今の生徒達との時間がかけがえのないもので、その過程を共に体験したくて、今海外に行くのが連続ドラマを見逃すような気がしているのだろう。

今の自分の気持ちの置き場はようは船橋、千葉県であるわけだが、ビジネスのように、副の場を海外に持つことが適度に「任せながら発展している楽しさ」を得ることになるのだろうか。
ようは、今主としている場を副とするのがきっといやなのだろう。

ん、いや、どうかな。

ちょっとわからない。


アスベルガーっぽいとこがある自分が海外にいったら、今目の前にあることに完全集中して、その間に今の主とする場が壊れてしまうのではと恐れているのかもしれない。

幸い、今はうまく日月も道場の子どもの部も大人の部も大学も大学のOBOG会もグループレッスンもうまく循環している。
だからすべてが主として円環している。

自分の影響の輪をどう広げ、関心の輪をどう広げていくのか。

体験し学ばなくてはならないことは尽きない。

さて、少し頭もすっきりさせたところで、仕事に戻ろう。
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