対話的日記を書いてみました。
音読授業を創る そのA面とB面と 06・1・2記
☆音読は良いと思う。ただ指導者が朗読の訓練を受けているかいないかで、
効果はずいぶん違うと思う。声の質や演じる部分が入ってくると雰囲気が違ってくる。
詩「雪」の音読授業をデザインする
☆受けてみたいと思う。
●詩「雪」(三好達治)の掲載教科書………………光村5上、東書6上
☆三ツ村図書と30年前にケンカしたことがある。
雪
三好達治
太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。
この詩の解釈
☆鑑賞と解釈とどう違うのだろう。今の音楽では解釈をするのだろうか。
詩の言葉が短くなればなるほど、場の限定がルーズになり、多様な解釈
ができるようになります。以下、この詩「雪」について、わたしのたいへん
手前勝手な解釈を書きましょう。
☆ルーズというのだろうか。読者の参加を求めたり、参加を許したりする。俳句をルーズな詩と呼ぶことになってしまう。
雪が降り出すと、外は寒くて冷たくて、頬や手がかじかんで、外遊びが
できません。子ども達は家の中に引っ込んでしまいます。内遊びか、炬燵に
入ってうとうとまどろむほかありません。
☆この子どもの設定に、ちょっと、驚きます。東京に住んでいた頃、雪が降りだすと嬉しくて外に飛び出して行ったものです。炬燵にまどろむというのもどうかな。
雪降りが、太郎や次郎を眠らせたのでしょうか。必ずそうだと断定はで
きませんが、この詩の連なりから、「ねむらせ」という使役表現から、雪降
りが太郎と次郎を家の中にこもらせて、二人を眠らせたととれなくもありま
せん。あるいは、父母や祖父母が、太郎や次郎を「ねむれ、ねむれ」と歌を
うたって眠らせた、ととれなくもありません。
☆おいおい、雪降りが眠らせたって?子どもの実感から離れているのではないか。眠れ、眠レの歌がどこから聞こえてくるのだろう。
いずれにせよ、太郎が眠っている家の屋根の上に、次郎が眠っている屋
根の上にどっかりと雪が降り積もっていると書いています。
☆言葉の示していることからまず始めるべきだと思います。
場所は、どこでしょうか。豪雪地帯の田舎でしょう。家並みが並んでい
る所ではなさそうです。隣家との距離はかなり離れていそうです。家がぽつ
んぽつんと数軒か十数件ほど離れて建っている村落でしょう。
☆子どもの想像できる雪のどんな風景でも良いと思う。雪の降らない地域の子どもが雪に抱くイメージでも構わないと思う。北国では町の中でも多くの雪が降る。そんな地域の子どもたちの実感でも良いと思う。
この教材は、光村本で五年生教材として与えられています。五年生です
から、雪にどっぷりと囲まれた農家、屋根に雪が降り積もっている雪国の映
像や写真は、これまでに目にしていることでしょう。イメージ化にそう困難
ではなさそうです。
☆雪国として、この詩を読まなければならないのだろうか。東京にいた頃、雰囲気を楽しんでいた。
雪国の時間はゆったりと流れていきます。雪が屋根にどっかと降り積も
ることは毎度のことでめずらしいことではありません。村人達は、ああ、今
日も、よく降り積もったことよ、と感慨にふけることはいつものことです。
☆雪国の時間がゆったり流れると言うのはウソです。あああ、こんなに積もっちゃったよ、雪下ろしが大変だと村の人も町の人も思います。家がつぶれるのではないかと恐れます。私は屋根から何度か落ちています。
子ども達に次の問いかけをしてみましょう。
(1)いま雪がどしどし降っている最中か。いまやっと小降りになっておさ
まりつつあるところか。雪は降ってない、晴れているところか。
☆空が晴れていても雪がどこからかやってくることがあります。雪の降り方で情感が全く違ってきます。
(2)いま、語り手(作者)は、どの位置で太郎や次郎の家や屋根を見て
いるか。
☆そんなことを考えたこともなかった。
(3)太郎や次郎は、乳児か、幼児か、就学前か、小学生か、中学生か。
☆太郎,次郎は子どもと言うものを代表する名称で、年齢を考える必要はないと思う。
(4)雪降りのときの音は、どんな音でしょう。音は全くなし、ですか。
雪降りは、いつから始まったのでしょう。何時間ぐらい降っている
のでしょう。昨日から? 一昨日から? 三日前から? それとも
四日前から?
☆雪国の体験をしたことがない人の設問のようです。日本の太鼓では雪の降る音を表現します。一晩でどっさり降ることも、だんだんに何日かかけて雪が積もってゆくこともあります。
これらのイメージは、読み手各人の勝手です、自由です。これが正し
い、これが間違っているということはありません。この詩のイメージを深め
るためのきっかけになればと思って、こんな発問を考えてみました。
☆勝手と自由とは違います。詩の持っているイマジネーションをどれだけ豊かに楽しむかが詩を読む喜びです。正直、自分がどれだけこの詩を理解しているのか、冬の暮らし方や気象によって左右されると思う。
その他、音声表現では次の発問を考えてみました。
(4)早口で読むか、ゆっくり読むか。若々しい声で読むか、年配者の声で
読むか。
☆黙読というのも大事かなと逆に思ったりしました。自分に一番楽しく感じられるように読むべきではないのでしょうか。
(5)どんな気持ちになって読めばよいか。どんな気持ちに入り込んで読め
ばよいか。
☆まず、その時の気分で読んでから、自分で工夫するしかないのでは、上手な朗読者の幾通りかの読み方を聞かせて、その違いを感じさせてからの話ではないだろうか。
音声表現のしかた
わたしは雪国育ちなので、雪がしんしんと屋根に降り積もる時は、外が
とっても静かな日であることを知っています。
☆北海道で降る雪と本州で降る雪とは雪質がちがいます。
風が強い、吹雪の日は、ピューピューと音を出します。横なぐりの風
で、降った雪は風に吹かれ、遠くへととばされてしまいます。とばされた雪
は、木立や建物で風がよどんでいる場所に吹き溜まりとなって、そこだけ一
箇所が崖の流れをつくってこんもりと積雪しています。
☆変化を見せないと雪の降らない地域の子どもたちには分からないだろうなあ。
この詩には、「屋根に雪ふりつむ」と書いてあります。ただひたすらに
屋根に雪が降り積もるだけです。こんな日は、外はとっても静かで、雪は音
も立てずにしんしんと降るだけ、積もるだけです。いつの間にかのっそりと
降り積もっています。風がなくて、雪がしんしんと降り積もるときは、ほん
とに静かです。静寂につつまれています。
☆詩が太郎と次郎の眠りに限定したことと、詩に書かれていない部分の想像とはどのような関係にあるのだろうか。少し分かってきたことは雪に注目するか、太郎次郎の眠りにも注目するか。『雪』という題ではあるが、これは雪の降り方が主題なのか雪の風景が主題の詩なのだろうか。
ですから、この詩の音声表現は雪がしんしんと降り積もっている時間の
静かさを音声で表現する必要があります。しーーんとした静かさを、読みの
スピードをぐっと落として、声量も落として、頭のてっぺんから声を出すの
ではなく、お尻や足の先から声を出すようにして、静かさの中に雪がただ降
り積もっているのみの思いをたっぷりとふくらむように声にのせて音声表現
していきます。
☆たぶん、実際の声を聴いてみないと分からないことなのではないだろうか。
区切り方は、考えられるのは次のような二つの方法です。
その1
たろうを・ねむらせ・・・たろうの・やねに・・ゆき・ふ・り・つ・む・・
・・
じろうを・ねむらせ・・・じろうの・やねに・・ゆき・ふ・り・つ・む・・
・・
≪二つの「ふりつむ」は、しだいに音声が細くなり消えていくように、一音
一音をポツリポツリ間を開けて、ゆっくりゆっくりと読んでいきます。≫
その2
たろうを・ね・む・ら・せ・・・
たろうの・や・ね・に・・ゆ・き・ふ・り・つ・む・・・・
じろうを・ね・む・ら・せ・・・
じろうの・や・ね・に・・ゆ・き・ふ・り・つ・む・・・・
≪二つの「ねむらせ」と二つの「やねにゆきふりつむ」とは、しだいに音声
が細くなって消えていくように、一音一音をポツリポツリと間を開けて、
ゆっくりゆっくりと読んでいきます。
上述した二つの区切りの方法でなくても、いっこうにかまいません。
上記の方法は、まず考えられる常識的な区切り方でしょう。この二つの
いろいろな変形があります。それらであっても勿論かまいません。
ただし、太郎と次郎とは、今ぐっすりと気持ちよく寝ています。大声で
目を覚まさせてはいけません。雪は静かにしんしんと音もなく屋根に降り積
もっています。音声表現は、これら場面の静寂さ、雪が降り積もり、重なっ
ていく情景の雰囲気を声で作りつつ、声量の大小や読み声の速さ変化や間の
開け方やイントネーションの変化などで表現していくようにします。。
☆男の子の声、女の子の声でずいぶん違うだろうなあ。
参考資料
菅原克己(詩人)は、この詩「雪」は好きでない、と書いています。こ
の詩の解釈の一つの参考意見となると思いますので、次にその文章部分を引
用しましょう。あなたは、菅原意見、伊藤意見、どちらに近いですか。
ぼくがこの詩が好きでない理由は、簡単だ。何かしら、一種のポーズが
あって、それにどうしても入りこめないからである。太郎、次郎というなつ
なしい日本の呼び名があり、「眠る」とか、「雪」というものからくる、静
かな気分みたいなものは感じられるのだが、何か意味ありげな、詩の組み立
て方の上での姿勢というものに素直に入りこめないのである。
☆一種のポーズとは何だろう。「小さな目」という子どもの詩を読んでいて、これが詩なのだろうかと思って友人と口論になったことがある。詩とは何かという根本問題がそこにあった。
「太郎を眠らせ」。この「眠らせ」は、「眠らせて」なのか、「眠らせ
ながら」なのか、「眠らせよ」の意味をふくむのか、そのすべてなのか……。
結局はこの詩人のポーズによる「眠らせ……雪ふりつむ」ということばのあ
やつり方が、気に入るか入らないかになるのである。
☆言葉の持つ意味のふくらみはいくらあっても良いのではないか。自分とは異質な詩を読むことで自分の世界を広げることができると考えるか、自分の世界を壊されると感じるか。その人の器量による。
この詩に関して伊藤信吉(詩人)は、好意をもって次のようにいう。
「風の気配もない夜、灰色の空の下に家々はひっそりと眠っている。音もな
い。人の声もきこえない。雪は降り、人々は眠っている。太郎も次郎も、降
る雪の下にしずかに眠っている。生命というもののない冷たい雪につつまれ
て、人々は眠りの中に、その生命をあたためているのである。そこに人間生
活のいとなみに見入る作者の眼のようなものが感じられる。この詩には民話
風なあたたかさもある。雪は人を幻想にさそい、そこに数々の物語を育てた。
雪の多い地方に、昔から伝わるあわれふかい民話や、雪女の物語など、そん
な幻想に人をさそう。……」『現代詩の鑑賞』
☆雪がこんもり降っている時はそれほど寒くない。風が強い時こそ寒い。こんもり積もったばかりの雪は温かそうにも見える。この人は一生懸命共感しようとしている。これは鑑賞として良い態度だと思う。
二行の詩から、これほど感じられるということはたいへんなことだと思
う。しかし、これほどのびのびと、そのイメージは感じられなかった。逆に、
作者に設定されてある美意識というものに、小さくせばめられてしまうもの
を感じたのである。結果としてその詩の世界を感ずる手前で、とりすました
ことばの操作を感じ、抵抗を持たざるを得なかったのである。
☆詩が分かるとはどういうことか、詩とは何かを考えることも大事なことではないかと思う。
三好達治の第一詩集『測量船』にこの詩はのっているのだが、その詩集
の最初の短歌がある。それは、「春の岬旅のをわりの鴎どり浮きつつ遠くな
りにけるかも」というものであって、まことにのどかな文人墨客ごのみであ
るが、この短歌でもわかるように、三好の作品には詩人の心の深さを直接し
めすよりも、ある修辞上のたくみさで読ませるものがある。それはものの本
質に詩をもってくい入ることよりも、事物の表面でなだらかに遊泳するその
手さばきに重点がおかれているような気がする。この初期の詩篇から、戦争
中の詩、それから戦後の詩にいたるまで彼がしめしてきたのは、その修辞上
の手さばきにあるといったら酷だろうか。
『教育科学国語教育』1963・7月号より引用
☆狩野派や琳派の絵、そして水墨画の絵、浮世絵もある。それぞれのジャンルで、対象がそれに応じて捉えられれば良いのではないか。修辞上の手さばきしか見えなかったと言う人のこれは意見であろう。
http://www.ondoku.sakura.ne.jp/gr5yuki.html
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