「勇者たちへの伝言」で阪急ブレーブスと移民と帰国運動を取り上げ、
日本戦後史の中に隠された小さな勇者たちの物語を描いた増山実の新作である。
舞台は現代の大阪、主人公は桂甘夏、駆け出しの女性上方落語家だ。
入門したての甘夏は、オリオン座という星座を知らなかった。
「落語にオリオン座、出てきますか」と口答えした甘夏は、師匠の桂夏之助に怒られる。
「落語のことだけ知ってたらええんと違う。
常識を知らん奴が人を笑わすことなんか、できん」
「見えへんもんを見えるようにする。それが落語家の仕事やで」
この物語には、このような一人前の落語家になるための大切な言葉にあふれている。
女の甘夏は、男が男を演じ、女を演じることについての芸の蓄積はある落語の世界で、
女がそのまま女を演じ、女が男を演じる芸を自分で作り上げねばならない。
3ヶ月違いの兄弟子・若松は、もともと大阪育ちでないことから、
正しいアクセントの大阪言葉・船場言葉にならない時があるのを気にしている。
一番弟子の小夏は、トチリも言い間違いも噛むこともない端正な話しぶりだが、
そのため、かえってお客の心をつかむことが出来ず、笑いが少ない。
そんな、まだまだ勉強をしなければならない若手落語家三人を残して、
師匠の夏之助が失跡する。
待っても、捜しても師匠は見つからない。
せめてもと、三人は毎月テーマを決め、師匠クラスをゲストに呼んで勉強会を始める。
演目は、次の通り。
・つる(甘夏)、蔵丁稚(若夏)、茶漬幽霊(小夏)、立ち切れ線香(桂龍杏)
・東の旅発端〜煮売屋(小夏)、七度狐(若夏)、宿替え(甘夏)、天神山(桂竹之丞)
・算段の平兵衛(若夏)、次の御用日(小夏)、一文笛(甘夏)、らくだ(三峡亭遊楽)
・牛ほめ(甘夏)、高津の富(若夏)、はてなの茶碗(小夏)、天狗さし(桂昇之助)
・皿屋敷(若夏)、まんじゅうこわい(小夏)、仔猫(甘夏)、一眼国(立山燕四郎)
夏之助が13年前に行ったという行乞落語会の足跡をたどった西の旅の演目が、次の通り。
・煮売屋(甘夏)、七度狐(若夏)、深山隠れ(竹之丞)
・延陽伯(甘夏)、湯屋番(若夏)、不動坊(竹之丞)
失踪から一年たった節目の勉強会で、
甘夏、若夏、小夏の三人は、それぞれの課題を自分なりの方法で解決することができた、
とまでは言えなかったとしても、
少なくとも、解決するきっかけくらいはつかめたようだ。
冒頭、「師匠が失跡した。」から始まったので、
失跡がテーマの物語かと思ったが、そうではなかった。
むしろ、残された三人の弟子たちの成長の物語だった。
師匠がいないなりに奮闘する三人の成長ぶりはいとおしくもあり、けなげであり、
一時は「滅んだ」とまで言われた上方落語界が持っている潜在的危機感が、
三人を陰日向にやさしく育くんでくれた。
上で挙げた以外にも、いろんな古典落語が紹介され、キーワードになっている。
私事ながら若い頃10年ほど近くの地域寄席に通っていたこともあって、
ここで紹介された話は、あらすじくらいなら紹介できるものがほとんどで、
「そうそう、こういう話やった」「この話をこう使うかあ」
「これくらいの若手に、この大ネタはしんどいんとちゃうかなあ」
などと懐かしがりながら読むことができた。
増山実の作品だけあって、ひっそりと暮らす弱者に対する優しい目線も、
理不尽な社会に対し静かに抗議するようなところもある。
甲高い声の上方演芸協会会長・桂龍杏のモデルは、当代の桂文枝だろう。
演芸教室をやっていた小鳩家染吾のモデルは、三代目林家染三のようだ。
それにしても、甘夏柑が水俣の名物だったとは知らなんだ。
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