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2020年04月09日16:52

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新型コロナウイルス禍、映画好きにもつらい時期が来た。

「Fukushima 50 フクシマフィフティ」に思うこと。Vol.5

 前回で述べたキネマ旬報の白井佳夫編集長から、私のオフィスに直々かかってきた「夢」のような話の紹介から始めたい。東宝青春映画(昭和47年作品)「白鳥の歌なんか聞こえない」の試写を、当時の投稿欄常連だった寺脇研さんや私など、何人かに観てもらい、監督や関係者と座談会を実施、誌上採録したいとのことなのである。

 これには舞い上がった。投稿常連から一歩出た映画プロパーの世界に、接近の実感がジワジワとこみあがってきた。私は、若干の無理をしても、万難を配して参加することを表明した。一応、映画に関してそれなりに打ち込んでいることは、会社の周囲も周知の事実で、技術屋の職場だからリスペクトされることはないが、理解はされていた。多少の無理は効くと思った。

 しかし、間の悪いことはあるものだ。技術屋として私が敬愛する上司(直属ではないが)の奥様が急逝し、お通夜の夜になってしまったのである。当然、手伝いの手としても、行かなければ私の気持として納まらない。丁重に不参加の連絡を白井編集長に告げなければならなかった。かくして、この時の寺脇研さんとの出会いは水泡に帰した。寺脇さんとお会いするのは、これから四半世紀後の湯布院映画祭ということになる。

 思えば、この時のやりとりから、私は映画界との距離を感じた始めたようだ。白井さんは残念がって、その気持から出たものと思うが、「すまじき物は宮仕えですなあ」と漏らした。そうではない。人間の自然な気持として、これは葬儀を優先するのが当然であろう。その言葉の裏には、会社人間のイメージに対する一方的決め付けを感じ、私は言葉に出さなかったがカチンと来た。

 座談会は予定どおり実施されたが、私がいないせいもありあまり面白くならなかったようで(冗談です)、結局、誌上掲載されることはなかった。

 隙間風は吹き出すと加速するものだ。編集後記で白井さんが「長い夏休みに読者評にチャレンジしたらどうか」との意味のことを記したので、私は読者通信ハガキで「唖然とした。投稿者は大学生と決めているのですか」とのことを記した。直接の返信は無かったが、その後の編集後記で、「そういう意見もあったが、投稿者の主流は大学生なのも厳然たる事実です(当時は映画は若者の物であった)」と記された。だよな、叩き上げの技術屋なんて、場違いだよな。と凹んだものである。

 そして、そんな気持を助長させる事態が、次々と発生する。その後も投稿掲載は順調だったが、前にあった「夢」のような話は来ることもなく、そのうちに「映画友の会」の大学生の友人から、卒業生の先輩から「お前、映画が好きならば、何か書いてもらうか」なんて話があったことも耳にした。

 決定的だったのは、キネマ旬報が新編集部員を募集した時、「映画友の会」の別の大学生の友人が、応募し採用されたことである。要件は「4年制大学卒または見込み」なので、私は当然お呼びでない。そういうことなのか。この世界は文系インテリ社会なのだ。彼より、私が上だと思い上がってはいない。でも、リングに上がって勝負して敗れたなら仕方がないが、リングにすら上げてもらえなかったのである。

 その頃、電力系統指令マンとして保護装置関係者として第一歩を踏み出していたのは、前回述べた。大きな開発の仕事のはしくれに関わることになったのだ。

 私の支店の供給区域に、東京の水道のほとんどを司る金町浄水という重要なお客さまがいた。電力供給には万全を期しているが、送電線雷撃事故を中心に、無事故というわけにはいかない。ただ予備線供給をしているから、停電は切替時間の1分間だけである。

 でも、この1分でも、大問題になる。水というものは、一瞬でも止まると、濁り水を発生させてしまうのだ。これが回復するには、かなりの時間がかかる。そして、マスコミ報道では、濁り水の発生は、「停電のため」と報じられるのだ。これを何とか回避するための保護装置開発に関わったのである。

 電機メーカーを中心に、電力会社の変電マン・送電マン・指令マンの周知を集めるだけでなく、装置を浄水場構内にも設置しなければならず、東京都の主任技術者も交えて、開発をすることになった。お客さまの構内に電力会社の設備を設置するというのも、あまり例の無いケースであり、技術的にも初の試みの部分もあって、その一員に携わっただけで、やりがいもある種の面白さも感じられた。(メシの種だから、無理にそう思おうとしたキライもないではない)

 装置完成後、送電線に最初の事故が発生した。装置は見事に動作し、水供給に何の支障も発生しなかった。事故を待っているつもりは無いが、この瞬間の「ヤッター!」という心の中での快哉は、否定できない。事故を待っているみたいで恐縮だが、保護装置屋の心境ってそんなものである。

 繰り返すが「Fukushima 50 フクシマフィフティ」の冒頭、保護装置が正動作しての安堵、直後の「想定外」の現象による原子炉暴走に至る恐怖は、他人事とは思えなかった。

 この送電線事故の時の、支店指令所と本店主管課の反応にも、興味深い思い出がある。私のいた支店指令所は、専門化が徹底しているわけではない。総力を挙げて事故に対処しなければならない。ところが組織が上部に行けば行くほど、専門分野に分化していく。

 事故原因は、強風による飛来物の接触だが、それは飛び去ることなく残りの送電線に引っ掛かり、いつ次の事故に拡大するか判らない緊迫した状況が確認された。とりあえず送電マンが感電しない距離で長物でそれを抑え、指令所は安全に取り除くための送電線停止指令を発することになる。

 そんな中で本店の主管課担当者から担当の私のところに、「正動作、おめでとうございます!」と電話が入ってきた。やや、ムカッときた私は、事故復旧状況を説明し、「あのね、保護装置は正動作したけど、指令所としては事故はまだ終わってないの」「あ、スミマセン」なんてやりとりをした。別に、主管課を責める気はない。仕事の専門化というのはそういうもので、だからこそ組織は初めて機能を発揮するものなのである。

「Fukushima 50 フクシマフィフティ」の現場と支店との齟齬・乖離、私には解かる解かるという心境である。このことは後でも触れるが、原作があるから致し方ないが、映画はチト本店を悪役にし過ぎている。

 こうして回想していくと、つくづく私は叩き上げ技術屋の電力マンとしては、そんなに真面目じゃなかったことに思いあたる。OB会などで、かつての仲間と話をすると、その時の電気的数値というのを、皆さま実によく覚えていらっしゃる。私はと言えば、仕事は終わってしまえばその時限り、数値関係はキッパリ忘れ去り、その時に関係者がどう動いたかという人間的なものだけは、やたらと覚えている。多分、技術的興味よりも、映画のように人間的興味で仕事を面白いと
思おうとしていたのであろう。

 ここからは、前回日記で触れた「三島由紀夫vs東大全共闘」や「怒りをうたえ」にからめて、私が技術屋としてメシを喰おうと傾いた心境に行きたかったが、長くなり過ぎたし疲れた。続きは「Vo.6」としたい。何か「Fukushima 50 フクシマフィフティ」で、永遠に「遊べ」そうである。


4月2日(木)  UPLINK吉祥寺
「パラダイス・ロスト」(福間 健二)
夫が心臓発作で急死する。親類づきあいは皆無、仕事の話も妻にあまりしていなかった。妻は死をきっかけに、夫の親類や友人・知人との交流が深まり、そこを通じ改めて夫の実像を知ることになる。でも、記憶の中に生きる限り、その人は生きているというのは、一面の真実で私は共感するが、記憶を有する人がいなくなるのが、魂の消失であるというのは、私はちがうと思っている。あくまでも他人の記憶の集積は実像ではなく、死者とは何の関係も無いと思っているからだ。(まあまあ)

 古希も何年か越えてくると、やはり「死」を意識する。でも、死んでみたら、あれこんなものなのと(そう感じる自意識が存在したとして)思うのではないか。瀬々敬久「トーキョー×エロティカ 痺れる快楽」の中で、「生まれる前と死んだ後の、どっちの時間が長いと思う?」との意味の台詞があるが、私はそこに深く共鳴した。

 悠久の自然という物は過去から未来へと永遠に続く(宇宙ビッグバン論では、始りと終りもあるらしいが)。とするならば人の一生の百年程度は、ほんの一瞬に過ぎない。大自然と切り離された形で、自我として存在できるのは、宇宙の状態の中で、むしろかなり特異な時期であり、大自然に溶け込んでいる状態が自然なのではないか。

 人は死ぬと無機物化し、固体・液体・気体に分解し、大自然と一体化する。そして、それが存在としての常態なのだ。「生まれるとは」からちょっと寄り道に入り、「死」とは常態にもどるだけではないのか。では「常態」とはどんな状態か?それは、生を一回しか経験できないのだから、生身の私は知るよしもない。

 でも「魂」の存在は?となるのだが、死体が気体化したその中にあり、輪廻転生で新たな有機物生命と合体するのかなと、期待したりもする。でも、それは人目線の勝手な理屈のような気がしないでもない。

 死者は生者の記憶の中に生き続けるのだが、歴史的人物でない限り、記憶している人々が消滅すれば、すべて消えていく。だが、それも生者側の論理でしかなく、死者そのものとは何の関係もないと、私は感じているのだ。


 新型コロナでついに緊急事態宣言が発令。4月の「映画友の会」も、実行委員が中止を決断した。コメントを抜粋する。

「この様な事態になったことは、実に不本意では御座いますし、もし、淀川先生の御耳に入ったらと仮定すれば、烈火のごとく叱られると存じます。何故なら、淀川先生は常に『Show must go on』を本分とされていたからです。また、ジョン・フォードや黒澤明、そしてチャップリンの御話をして下さる中で、決して、悪に妥協してはいけないと教えて下さっていたからです。しかし、今回は有史以来の出来事ということで、淀川先生に叱られ慣れた我々実行委員が、代表して叱られることに致しました」

 私は、さすがにこの事態で淀川長治さんがお叱りになることもなかろうと思う。ただ、私は別の面で感じることがあった。東京「映画友の会」は、発足以来71年5ヶ月、1度もずっと途絶えることなく(多分)、第3土曜日に欠かさず、開催され続けてきた。

 最大の危機は雑誌「映画の友」休刊であった。その時、「皆さまにその気持がある限り、第三土曜日に必ず時間を空けて私は来ます」と、当時の淀川長治編集長はおっしゃってくれた。そして、この時程、映画ファンの結束が見られたことはない。ある人が「会場の当てがある」(それまでは映画の友社の全て丸抱えだった)と申し出れば、ある人は会場費の集金や支払いの下働きを申し出て(私もその一人だった)、アレヨアレヨとひと月も欠かさず継続が維持される体制が確立されていったのである。

 その後、淀川さんは雑誌編集長以上のビッグネームになっていくのだが、高齢で引退されるまで欠かさず来られたのには、頭が下がるしかない。

 淀川さんは、いかなる事情があっても、毎月第三土曜日開催を巖として曲げなかった。「第三土曜日開催を耳にして来られた人が来て、もし開催されていなかったら、がっかりしますよね。そういう思いは、絶対にさせてはいけません」と、何度かおっしゃっていた。今回の中止をもし天国で耳にしたら、そこに胸を痛められたかもしれない。


 あれやこれや、4月に入って観たのはたった1本。私の今年のスクリーン初鑑賞作品は63本と、伸び悩んでいる。緊急事態宣言による外出自粛、そもそも外出しようにも映画館自体がほとんど閉館中だ。今月はもう一本も観られないのだろうか。映画好きにはつらい時期が続く。

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