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2020年09月04日23:43

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2949日目からの続き・「たちばな=橘」の再検討・・・

 2949日目からの続き
ー↓↑ーーー
 「たちばな=橘」・・・再検討・・・
 ↓↑
 「Citrus(シトラス)」・・・史、虎州(須・諏・守・主)
 は
 「レモン(檸檬)」の木に対する古い呼び名
 ↓↑
 「柑橘(カンキツ)・枸橘(クキツ)・香橘(コウキツ)=からたち」
 「枳殻(キコク・からたち)」・・・帰国・鬼哭・貴国・紀国
 カラタチ果実の生薬のことを
 「枳実(キジツ・キジュツ)」・・・忌日・期日・記述・既述・奇術
 と呼ぶ・・・
 ナゼ・・・・・「からたち」なのか・・・?
 ミカン類「唐橘」の訓読み「からたちばな」・・・
 ↓↑
 「から=唐・漢・韓・加羅」+「達・起つ・経つ」
 「から=唐・漢・韓・加羅」+「建つ・立つ・発つ」
 「から=唐・漢・韓・加羅」+「絶つ・断つ」
 ・・・「たつ=辰=龍=竜」・・・・「たつ」?
 ↓↑ 
 「橘=木+矞
    木+矛+冏
    木+予+丿+冂+㕣
    木+予+丿+冂+儿+口
    木+マ+了+丿+冂+儿+口
    十+八+龴+乛+亅+丿+冂+八+口
    十+八+龴+乛+亅+丿+冂+儿+口
    みかん
     ↓↑
    斎字句=ときじく=「非時香菓」=みかん
      ↓↑
      譎=言+矞
        キツ
        ケツ
        あやしい
        いつわり・いつわる
        あざむく
        譎詐(ケッサ)・譎略(ケツリャク)
        あやしい・めずらしい
        普通と異なる・譎怪(ケッカイ)
        遠回しに言う
        遠回しにいさめる
        譎諫(ケッカン)
      僪=伝説上の「悪鬼の名」・・・鬼室?
      鷸=イツ・かわせみ
        しぎ
        シギ科の水鳥
        カワセミ科の水鳥
      驈=股間の白い黒馬
      鱊=イツ
        いさざ
        ばらたなご
        魚の名・コイ科の淡水魚
        いさざ
        素魚(しろうお)の別名
      霱=雨+矞
        イツ
        めでたい前兆の雲
        端雲(ズイウン)
      鐍=金+矞
        ケツ
        かけがね・帯留め・錠前の金具
        かなめ・物事の要点
      繘=糸+矞
        釣瓶(つるべ)の縄
        その縄を用いて井戸水を汲む
      憰=忄+矞
        ケツ
        いつわる・あざむく・だます
        怪しい
      潏=氵+矞
        イツ
        ケツ
        シュツ
        わく・水が湧き出る・その音
        人工的に作られた小さい洲
        水の流れが速いさま
        水の流れるさま
    ↓↑
    矞・・・裔=衣+冏・・・末裔
    イツ
    キツ
    ケツ
    錐で穴をあける
    うがつ(穿)
   「矞雲(イツウン)」=三色のめでたい雲
    驚く・動物が驚くさま
    だます・たぶらかす
 ↓↑  ↓↑
    異体字「桔」
    声 符「矞=キツ」
    矞・劀・䆷・𧽻・鷸・𧑐・鐍・噊
    繘・遹・潏・譎・驈・憰・𦇹・䤎
 ↓↑
 「橘 三千代=県 犬養 三千代」・・・懸ける兼用、未知(途・満)豫(世)
 665年?
 〜
 天平五年一月十一日
 733年2月4日
 ↓↑
 和銅元年(708年)十一月・・・倭道・和同・話同?
 元明天皇(阿閉皇女)から
 「橘」宿禰姓を賜った
 ↓↑
 敏達天皇系皇親
 「美努王(みぬおう・みのおう)」
 に嫁し
 「葛城王(橘諸兄)」
 「佐為王(橘佐為)」
 「牟漏女王」
 を生む
 天武天皇十三年(684年)
 第一子
 葛城王(橘諸兄)を出生
  ・・・葛城皇子=中大兄皇子=天智天皇
 軽皇子(文武天皇)は
 天武天皇十二年に出生し
 元明天皇(阿閉皇女)
 と
 三千代
 とは主従関係で
 三千代は
 軽(珂瑠)皇子の乳母・・・
 ↓↑
 「美努王」と離別し・・・?
 「藤原不比等」の後妻になった・・・?
 「光明子(安宿姫)」
 「多比能」
 を生む
 「藤原不比等」は
 持統天皇三年(689年)の
 直広肆・判事の職
 持統天皇十年(696年)
 高市皇子の死去に伴い
 政権中枢に参画
 文武天皇元年(697年)八月
 藤原不比等の娘
 「宮子」が
 「文武天皇」夫人となり
 「藤原朝臣姓」が
 不比等とその子孫に限定され
 「藤原氏=不比等家」が成立
 文武天皇即位に伴う
 不比等の栄達の背景に
 「阿閉皇女(元明天皇)」
 の信頼を受けた
 「橘三千代」の存在があった・・・
 ↓↑
 『続日本紀』
 慶雲四年(708年)七月壬午(十七日)
 阿閉皇女は即位し
 元明天皇
 和銅元年十一月
 大嘗祭
  ・・・・蛞蝓(なめくじ)→大蛇(へび)→蝦蟇蛙(かえる)
 「藤原不比等」は
 右大臣に任命
 『続日本紀』
 「葛城王(橘諸兄)」の上奏文に
 癸未(二十五日)の御宴で
 三千代は
 元明から
 天武天皇の代から仕えていると称されて
 杯に浮かぶ「橘」とともに
 「橘宿禰」の姓を賜り
 橘氏の祖となった
 「県犬養」 一族のなかで
 ↓↑・・・犬神満たす記=犬上御田鍬?
   推古、舒明天皇 時代の外交官
   三田耜とも書く・景行天皇庶皇子の子孫
   小野妹子遣隋使の後を引き継ぎ
   推古 二十二 (614) 年
   矢田部造らとともに
   遣隋小使として中国に渡る
 ↓↑
 「橘」姓への改姓は
 「三千代」のみであるが
 改姓後も
 「県犬養」一族に属し続けている
 藤原宮跡からは
 大宝元年の年記を持つ
 「道代」木簡
 大宝三年の年記を持つ
 木簡群に含まれる
 「三千代」木簡が出土
 橘姓への改姓と同時に
 名も
 「道代〜三千代」に改名・・・
 同年五月
 前夫の
 「美努王」が死去・・・
 ↓↑
 元明の即位後
 宮人筆頭として
 藤原不比等とともに
 朝廷に影響力
 『続日本紀』
 三千代
 養老元年(717年)
 従三位
 養老元年以前の職掌・位は不明
 霊亀元年(715年)時点で
 従四位・尚侍・・・
 霊亀二年(716年)
 娘の
 「安宿」が
 皇太子
 「首(聖武天皇)」の
 妃となり(光明皇后)
 「県犬養唐の娘」・・・県の犬養の「唐」?
 「広刀自」も
 「首(聖武天皇)」の
 妃となる
 ↓↑
 養老四年(720年)
 夫の
 「不比等」
 死去
 『続日本紀』
 養老五年
 正三位に叙せられ
 宮人最高位に叙せられた
 同年
 元明天皇の危篤に際し出家
 733年(天平五年)一月十一日
 薨去
 同年十二月二十八日に従一位
 760年(天平宝字四年)八月七日
 正一位
 大夫人の称号を贈られた
 ↓↑
 養老五年(721年)五月
 元明太上天皇(阿閉皇女)
 の病平癒を祈念して仏門
 ↓↑
 県犬養氏
 屯倉を守護する
 伴造氏族の一
 「壬申の乱」
 「県犬養大侶」が
 「大海人皇子(天武天皇)」
 に近侍
 天武天皇十三年(684年)
 「宿禰」姓を賜った
 ↓↑
 「非時香果」
 「橘の実」が
 「時を選ばず(非)に香る果実」・・・
 みかん・・・
 蜜柑・美柑・味感・未完・未刊・・・?
 ↓↑ ?〜和銅元年五月三十日(708年6月22日)
     『六国史』
     「弥努王・美奴王・美弩王・三野王」
      など記載
      敏達天皇の後裔
      四位
      栗隈王の子
      官位 従四位下・治部卿
 ↓↑    ↓↑
     「栗隈王」
      筑紫率(筑紫大宰)
      唐と新羅の使者を送迎
      672年
      壬申の乱で
      中立・・・天智天皇、大友王子(弘文天皇)
           近江朝の暗殺者に狙われた
      675年に兵政官長・贈従二位
      663年
     「白江村の戦」以後
      唐は
      新羅支配下にある百済の復興運動を
      新羅は
      唐支配下にある高句麗の復興運動を
      後押しし
      各国とも
      日本に使者を派遣し
      親を通じようとした・・・?
 ↓↑    ↓↑
      天智天皇十年(671年)
      六月
      新羅が調
      七月
      唐の使者
     「李守真」
      と
     「百済の使者」が帰国し
      十月
     「新羅の使者」
     「金万物」
      が再び調
      十二月十七日帰国
      十一月
      対馬から報告
     「唐の使者」の
     「郭務悰」
     「百済の送使」の
     「孫登」
      ら二千人の来朝の意
      十二月三日
      天智天皇死亡
     「大友皇子(弘文天皇)」が朝廷
      翌672年
      3月30日
     「郭務悰」帰国
      3月28日
     「高句麗の使者」
     「富加扑」らが調
      日付は
     「近江宮」からのもので
      筑紫の
     「栗隈王」とずれがある・・・
      使節の往来は
      他の時期と比べて多かった・・・
 ↓↑    ↓↑
     「壬申の乱」
      6月〜7月
      近江朝廷は
      筑紫大宰に
      兵力を送るよう命じる使者を派遣
     「大友皇子(弘文天皇)」は
     「栗隈王」が
     「大海人皇子(天武天皇)」
      配下だったことを危ぶみ
      使者に
     「もし服従しない様子があったら殺せ」
      と命令
 ↓↑    ↓↑
      使者から符(命令書)を受けた
     「栗隈王」は
      国外への備えを理由に出兵を断った
      使者
     「佐伯男」は
     「栗隈王」を殺そうと剣を握って進もうとしたが
      栗隈王の二人の子
     「三野王(美努王)」
      と
     「武家王」
      が側にいて剣を佩き
      退く気配がなかったため
      恐れて断念
      天武天皇四年(675年)三月十六日
      諸王四位の
     「栗隈王」
      が兵政官長
     「大伴御行」
      が大輔に任じられた
 ↓↑    ↓↑
      天武天皇五年(676年)六月
     「栗隈王」
      四位で病死
     『続日本紀』『新撰姓氏録』
      に贈従二位
     『姓氏録』を基に
     「栗隈王」の父を
     「難波皇子」とする説・・・
      二者の活動年代には
      隔たりが大きく(約80年)
      父子関係は疑問
     『公卿補任』『尊卑分脈』の記載
     「難波皇子」
      と
     「栗隈王」
      の間に
     「大俣王(おおまたのおおきみ)」
      を補うと・・・繋がる?
 ↓↑    ↓↑
      長崎県
     「栗隈王」を
      日本の水の中に住んでいる動物を
      取り纏める人であったとし
      彼の子孫の神主が
     「河童」に慕われるという昔話がある・・・?
      ↓↑
    by 「wikipedia.栗隈王」
      かっぱ=合羽=箕(みの)=竹+其・・・蓑笠
      藁(わら)を編んで作られた雨具
      雨を防ぐために衣服の上からまとう外衣
ーー↓↑ーー
 「橘    広 相」は
 (たちばなのひろみ)
 「阿衡」という役職を提案、上奏
 「藤原基経」は拒否
 ↓↑
 「阿衡」議論・・・阿倍仲麻呂=朝衡・晁衡?
 ↓↑
 宇多天皇は・・・・「宇土半島=熊本」・・・?
 「藤原基経」の権勢に恐れ
 「橘広相」を流罪
 891年
 関白
 「藤原基経」
 死去
 後
 息子の
 「藤原時平」
 へ権力交代・・・
 ↓↑
 宇多天皇
 「藤原時平(21歳)」が
 若輩で
 「関白の職」を全うできないとし
 「関白」の地位を空席とし
 「天皇親政」とし
 ↓↑
 「藤原氏」に対抗する人物とし
 「菅原道真(すがわらのみちざね)」
 を
 「蔵人頭」としてを抜擢
ー↓↑ーー
 893年・寛平五年五月十一日
    大宰府は
    新羅の賊を発見
   「新羅の賊
    肥後国
    飽田郡に於いて人宅を焼亡す
    又た
    肥前国
    松浦郡に於いて逃げ去る」
 ↓↑
 894年・寛平六年(894年)四月
    対馬島を襲う
    参議の
    藤原国経を大宰権帥として派遣
    この間
    遣唐使が定められ
    唐の関与を窺うためであった・・・
 ↓↑
    唐人も交えた
    新羅の船
    大小100艘に乗った2500人
    新羅の賊の大軍が襲来
    対馬に侵攻
    9月5日の朝
    45艘で賊徒来襲
    対馬守に配されていた
    文屋善友は郡司士卒を率い
    弩を構えた数百の軍勢で迎え撃ち
    賊を追撃、220人を射殺
    賊は計、300名を討ち取り
    船11、太刀50、桙1000
    弓胡(やなぐい)各110
    盾312
    の兵器を奪い
    ひとりを生け捕った
 ↓↑
    捕虜の証言
    民間海賊による略奪ではなく
    新羅政府による襲撃略奪
    捕虜曰く
   「新羅は不作で餓えに苦しみ
    倉も尽きて王城も例外ではなく
    王、仰せて、穀絹を取らんが為に
    帆を飛ばして参り来た」と
    大小の船100艘、乗員2500
    逃げ帰った将軍は3人
    1人の「唐人」が強大
    と証言
    朝鮮側の資料
   『三国史記』
    889年の記事
    国内の不作
    重税
    反乱勃発
    同年九月十九日
    大宰府の飛駅の使が
    撃退の成功を伝え
    遣唐使も中止
    翌年九月
    壱岐島の官舎が賊のため全焼
    おそらく本年度・・・
    寛平七年(895年)
    新羅の賊が壱岐を襲撃
    官舎が焼かれた
 ↓↑
 894年・甲寅
     日本
     寛平六年
     中国
     唐  乾寧元年
     南詔 嵯耶六年
     八月 菅原道真、遣唐大使
     九月 菅原道真、遣唐使が廃止
     前年より
     「寛平の韓寇」
     ↓↑
     誕生
     小野道風(〜967年)
 ↓↑
 997年・長徳三年
     高麗人が
     対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅
     など九州全域を襲い
     民家が焼かれ、財産を収奪し
     男女300名がさらわれた
     奄美島人も賊に参加・・・
     11月
     政府は南蛮の討伐を
     貴駕島に命じ捕縛を求めた
     被害
     筑前、筑後、薩摩、壱岐、対馬
 ↓↑
 1001年・長保三年(1001年)
     高麗人海賊襲来
 ↓↑
 1020年・寛仁四年)十二月
     女真による
     刀伊の入寇
     再び薩摩国が襲撃され人民が拐われた
ーーーーー
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