2949日目からの続き
ー↓↑ーーー
「たちばな=橘」・・・再検討・・・
↓↑
「Citrus(シトラス)」・・・史、虎州(須・諏・守・主)
は
「レモン(檸檬)」の木に対する古い呼び名
↓↑
「柑橘(カンキツ)・枸橘(クキツ)・香橘(コウキツ)=からたち」
「枳殻(キコク・からたち)」・・・帰国・鬼哭・貴国・紀国
カラタチ果実の生薬のことを
「枳実(キジツ・キジュツ)」・・・忌日・期日・記述・既述・奇術
と呼ぶ・・・
ナゼ・・・・・「からたち」なのか・・・?
ミカン類「唐橘」の訓読み「からたちばな」・・・
↓↑
「から=唐・漢・韓・加羅」+「達・起つ・経つ」
「から=唐・漢・韓・加羅」+「建つ・立つ・発つ」
「から=唐・漢・韓・加羅」+「絶つ・断つ」
・・・「たつ=辰=龍=竜」・・・・「たつ」?
↓↑
「橘=木+矞
木+矛+冏
木+予+丿+冂+㕣
木+予+丿+冂+儿+口
木+マ+了+丿+冂+儿+口
十+八+龴+乛+亅+丿+冂+八+口
十+八+龴+乛+亅+丿+冂+儿+口
みかん
↓↑
斎字句=ときじく=「非時香菓」=みかん
↓↑
譎=言+矞
キツ
ケツ
あやしい
いつわり・いつわる
あざむく
譎詐(ケッサ)・譎略(ケツリャク)
あやしい・めずらしい
普通と異なる・譎怪(ケッカイ)
遠回しに言う
遠回しにいさめる
譎諫(ケッカン)
僪=伝説上の「悪鬼の名」・・・鬼室?
鷸=イツ・かわせみ
しぎ
シギ科の水鳥
カワセミ科の水鳥
驈=股間の白い黒馬
鱊=イツ
いさざ
ばらたなご
魚の名・コイ科の淡水魚
いさざ
素魚(しろうお)の別名
霱=雨+矞
イツ
めでたい前兆の雲
端雲(ズイウン)
鐍=金+矞
ケツ
かけがね・帯留め・錠前の金具
かなめ・物事の要点
繘=糸+矞
釣瓶(つるべ)の縄
その縄を用いて井戸水を汲む
憰=忄+矞
ケツ
いつわる・あざむく・だます
怪しい
潏=氵+矞
イツ
ケツ
シュツ
わく・水が湧き出る・その音
人工的に作られた小さい洲
水の流れが速いさま
水の流れるさま
↓↑
矞・・・裔=衣+冏・・・末裔
イツ
キツ
ケツ
錐で穴をあける
うがつ(穿)
「矞雲(イツウン)」=三色のめでたい雲
驚く・動物が驚くさま
だます・たぶらかす
↓↑ ↓↑
異体字「桔」
声 符「矞=キツ」
矞・劀・䆷・𧽻・鷸・𧑐・鐍・噊
繘・遹・潏・譎・驈・憰・𦇹・䤎
↓↑
「橘 三千代=県 犬養 三千代」・・・懸ける兼用、未知(途・満)豫(世)
665年?
〜
天平五年一月十一日
733年2月4日
↓↑
和銅元年(708年)十一月・・・倭道・和同・話同?
元明天皇(阿閉皇女)から
「橘」宿禰姓を賜った
↓↑
敏達天皇系皇親
「美努王(みぬおう・みのおう)」
に嫁し
「葛城王(橘諸兄)」
「佐為王(橘佐為)」
「牟漏女王」
を生む
天武天皇十三年(684年)
第一子
葛城王(橘諸兄)を出生
・・・葛城皇子=中大兄皇子=天智天皇
軽皇子(文武天皇)は
天武天皇十二年に出生し
元明天皇(阿閉皇女)
と
三千代
とは主従関係で
三千代は
軽(珂瑠)皇子の乳母・・・
↓↑
「美努王」と離別し・・・?
「藤原不比等」の後妻になった・・・?
「光明子(安宿姫)」
「多比能」
を生む
「藤原不比等」は
持統天皇三年(689年)の
直広肆・判事の職
持統天皇十年(696年)
高市皇子の死去に伴い
政権中枢に参画
文武天皇元年(697年)八月
藤原不比等の娘
「宮子」が
「文武天皇」夫人となり
「藤原朝臣姓」が
不比等とその子孫に限定され
「藤原氏=不比等家」が成立
文武天皇即位に伴う
不比等の栄達の背景に
「阿閉皇女(元明天皇)」
の信頼を受けた
「橘三千代」の存在があった・・・
↓↑
『続日本紀』
慶雲四年(708年)七月壬午(十七日)
阿閉皇女は即位し
元明天皇
和銅元年十一月
大嘗祭
・・・・蛞蝓(なめくじ)→大蛇(へび)→蝦蟇蛙(かえる)
「藤原不比等」は
右大臣に任命
『続日本紀』
「葛城王(橘諸兄)」の上奏文に
癸未(二十五日)の御宴で
三千代は
元明から
天武天皇の代から仕えていると称されて
杯に浮かぶ「橘」とともに
「橘宿禰」の姓を賜り
橘氏の祖となった
「県犬養」 一族のなかで
↓↑・・・犬神満たす記=犬上御田鍬?
推古、舒明天皇 時代の外交官
三田耜とも書く・景行天皇庶皇子の子孫
小野妹子遣隋使の後を引き継ぎ
推古 二十二 (614) 年
矢田部造らとともに
遣隋小使として中国に渡る
↓↑
「橘」姓への改姓は
「三千代」のみであるが
改姓後も
「県犬養」一族に属し続けている
藤原宮跡からは
大宝元年の年記を持つ
「道代」木簡
大宝三年の年記を持つ
木簡群に含まれる
「三千代」木簡が出土
橘姓への改姓と同時に
名も
「道代〜三千代」に改名・・・
同年五月
前夫の
「美努王」が死去・・・
↓↑
元明の即位後
宮人筆頭として
藤原不比等とともに
朝廷に影響力
『続日本紀』
三千代
養老元年(717年)
従三位
養老元年以前の職掌・位は不明
霊亀元年(715年)時点で
従四位・尚侍・・・
霊亀二年(716年)
娘の
「安宿」が
皇太子
「首(聖武天皇)」の
妃となり(光明皇后)
「県犬養唐の娘」・・・県の犬養の「唐」?
「広刀自」も
「首(聖武天皇)」の
妃となる
↓↑
養老四年(720年)
夫の
「不比等」
死去
『続日本紀』
養老五年
正三位に叙せられ
宮人最高位に叙せられた
同年
元明天皇の危篤に際し出家
733年(天平五年)一月十一日
薨去
同年十二月二十八日に従一位
760年(天平宝字四年)八月七日
正一位
大夫人の称号を贈られた
↓↑
養老五年(721年)五月
元明太上天皇(阿閉皇女)
の病平癒を祈念して仏門
↓↑
県犬養氏
屯倉を守護する
伴造氏族の一
「壬申の乱」
「県犬養大侶」が
「大海人皇子(天武天皇)」
に近侍
天武天皇十三年(684年)
「宿禰」姓を賜った
↓↑
「非時香果」
「橘の実」が
「時を選ばず(非)に香る果実」・・・
みかん・・・
蜜柑・美柑・味感・未完・未刊・・・?
↓↑ ?〜和銅元年五月三十日(708年6月22日)
『六国史』
「弥努王・美奴王・美弩王・三野王」
など記載
敏達天皇の後裔
四位
栗隈王の子
官位 従四位下・治部卿
↓↑ ↓↑
「栗隈王」
筑紫率(筑紫大宰)
唐と新羅の使者を送迎
672年
壬申の乱で
中立・・・天智天皇、大友王子(弘文天皇)
近江朝の暗殺者に狙われた
675年に兵政官長・贈従二位
663年
「白江村の戦」以後
唐は
新羅支配下にある百済の復興運動を
新羅は
唐支配下にある高句麗の復興運動を
後押しし
各国とも
日本に使者を派遣し
親を通じようとした・・・?
↓↑ ↓↑
天智天皇十年(671年)
六月
新羅が調
七月
唐の使者
「李守真」
と
「百済の使者」が帰国し
十月
「新羅の使者」
「金万物」
が再び調
十二月十七日帰国
十一月
対馬から報告
「唐の使者」の
「郭務悰」
「百済の送使」の
「孫登」
ら二千人の来朝の意
十二月三日
天智天皇死亡
「大友皇子(弘文天皇)」が朝廷
翌672年
3月30日
「郭務悰」帰国
3月28日
「高句麗の使者」
「富加扑」らが調
日付は
「近江宮」からのもので
筑紫の
「栗隈王」とずれがある・・・
使節の往来は
他の時期と比べて多かった・・・
↓↑ ↓↑
「壬申の乱」
6月〜7月
近江朝廷は
筑紫大宰に
兵力を送るよう命じる使者を派遣
「大友皇子(弘文天皇)」は
「栗隈王」が
「大海人皇子(天武天皇)」
配下だったことを危ぶみ
使者に
「もし服従しない様子があったら殺せ」
と命令
↓↑ ↓↑
使者から符(命令書)を受けた
「栗隈王」は
国外への備えを理由に出兵を断った
使者
「佐伯男」は
「栗隈王」を殺そうと剣を握って進もうとしたが
栗隈王の二人の子
「三野王(美努王)」
と
「武家王」
が側にいて剣を佩き
退く気配がなかったため
恐れて断念
天武天皇四年(675年)三月十六日
諸王四位の
「栗隈王」
が兵政官長
「大伴御行」
が大輔に任じられた
↓↑ ↓↑
天武天皇五年(676年)六月
「栗隈王」
四位で病死
『続日本紀』『新撰姓氏録』
に贈従二位
『姓氏録』を基に
「栗隈王」の父を
「難波皇子」とする説・・・
二者の活動年代には
隔たりが大きく(約80年)
父子関係は疑問
『公卿補任』『尊卑分脈』の記載
「難波皇子」
と
「栗隈王」
の間に
「大俣王(おおまたのおおきみ)」
を補うと・・・繋がる?
↓↑ ↓↑
長崎県
「栗隈王」を
日本の水の中に住んでいる動物を
取り纏める人であったとし
彼の子孫の神主が
「河童」に慕われるという昔話がある・・・?
↓↑
by 「wikipedia.栗隈王」
かっぱ=合羽=箕(みの)=竹+其・・・蓑笠
藁(わら)を編んで作られた雨具
雨を防ぐために衣服の上からまとう外衣
ーー↓↑ーー
「橘 広 相」は
(たちばなのひろみ)
「阿衡」という役職を提案、上奏
「藤原基経」は拒否
↓↑
「阿衡」議論・・・阿倍仲麻呂=朝衡・晁衡?
↓↑
宇多天皇は・・・・「宇土半島=熊本」・・・?
「藤原基経」の権勢に恐れ
「橘広相」を流罪
891年
関白
「藤原基経」
死去
後
息子の
「藤原時平」
へ権力交代・・・
↓↑
宇多天皇
「藤原時平(21歳)」が
若輩で
「関白の職」を全うできないとし
「関白」の地位を空席とし
「天皇親政」とし
↓↑
「藤原氏」に対抗する人物とし
「菅原道真(すがわらのみちざね)」
を
「蔵人頭」としてを抜擢
ー↓↑ーー
893年・寛平五年五月十一日
大宰府は
新羅の賊を発見
「新羅の賊
肥後国
飽田郡に於いて人宅を焼亡す
又た
肥前国
松浦郡に於いて逃げ去る」
↓↑
894年・寛平六年(894年)四月
対馬島を襲う
参議の
藤原国経を大宰権帥として派遣
この間
遣唐使が定められ
唐の関与を窺うためであった・・・
↓↑
唐人も交えた
新羅の船
大小100艘に乗った2500人
新羅の賊の大軍が襲来
対馬に侵攻
9月5日の朝
45艘で賊徒来襲
対馬守に配されていた
文屋善友は郡司士卒を率い
弩を構えた数百の軍勢で迎え撃ち
賊を追撃、220人を射殺
賊は計、300名を討ち取り
船11、太刀50、桙1000
弓胡(やなぐい)各110
盾312
の兵器を奪い
ひとりを生け捕った
↓↑
捕虜の証言
民間海賊による略奪ではなく
新羅政府による襲撃略奪
捕虜曰く
「新羅は不作で餓えに苦しみ
倉も尽きて王城も例外ではなく
王、仰せて、穀絹を取らんが為に
帆を飛ばして参り来た」と
大小の船100艘、乗員2500
逃げ帰った将軍は3人
1人の「唐人」が強大
と証言
朝鮮側の資料
『三国史記』
889年の記事
国内の不作
重税
反乱勃発
同年九月十九日
大宰府の飛駅の使が
撃退の成功を伝え
遣唐使も中止
翌年九月
壱岐島の官舎が賊のため全焼
おそらく本年度・・・
寛平七年(895年)
新羅の賊が壱岐を襲撃
官舎が焼かれた
↓↑
894年・甲寅
日本
寛平六年
中国
唐 乾寧元年
南詔 嵯耶六年
八月 菅原道真、遣唐大使
九月 菅原道真、遣唐使が廃止
前年より
「寛平の韓寇」
↓↑
誕生
小野道風(〜967年)
↓↑
997年・長徳三年
高麗人が
対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅
など九州全域を襲い
民家が焼かれ、財産を収奪し
男女300名がさらわれた
奄美島人も賊に参加・・・
11月
政府は南蛮の討伐を
貴駕島に命じ捕縛を求めた
被害
筑前、筑後、薩摩、壱岐、対馬
↓↑
1001年・長保三年(1001年)
高麗人海賊襲来
↓↑
1020年・寛仁四年)十二月
女真による
刀伊の入寇
再び薩摩国が襲撃され人民が拐われた
ーーーーー
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