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2019年04月25日21:14

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もじたま日記・2714日目・南無阿弥陀仏の念仏唱で極楽往生・・・

 2714日目
 錫(すず)の源(みなもと)・・・
 金を易(かえる)水(みず・氵=さんずい)の原(はら)?
   ↓↑
 易=日+勿
  =日+勹+ノノ(〃)
  =日+勹+丿+丿
  =口+一+勹+丿+丿 
   やさしい(易しい)⇔優しい・誮
   あなどる(侮る)⇔穴取る
   かえる(替える・変える・代える・換える)⇔蛙
   かわる(変わる)⇔川流・革留・皮婁
   やすい(易い)⇔安い
    イ・エキ⇔意・訳・譯・釈
   かえる・・・蛙
   かわる
   あらためる・あらたまる
   とりかえる・・・鳥帰る
   変化する
   占い
   やすい・たやすい・やさしい
   〜しやすい・〜しがちである
   たいら。高低やでこぼこがない
   あなどる・軽くみる・見下す・軽蔑
   かえる・かわる・とりかえる
   改易・交易・不易
   うらない
   易学・易占・易断
   儒教の経典・五経の一
   やさしい・やすい・てがる・やすらか
   易易・簡易・容易
   あなどる
   慢易
 ↓↑
 易往易行(イオウイギョウ)=南無阿弥陀仏の念仏唱で極楽往生
      言おう異形
      医王 医業
 易如反掌(イジョハンショウ)=手の平を返すは至極簡単
      異所 反 証
 移風易俗(イフウエキゾク)=習慣や風俗をよりよく変える
      異風 奕 族
 以暴易暴(イボウエキボウ)=暴力によって暴力をおさえる
      異貌 恵奇謀
      威望 役 望
      意望 訳 望
 易簀之際(エキサクのサイ)=人が死ぬ間際の分相応の扱い
     得鬼 作之 差異
 易姓革命(エキセイカクメイ)=王朝交代=姓が変わる
      役 正 確 名
      恵喜声 鶴 鳴
 改弦易轍(カイゲンエキテツ)=法律や制度を変える
      戒 厳 役 綴
      改 元 益 照通
 改絃易轍(カイゲンエキテツ)=
 革命易姓(カクメイエキセイ)=
 冠履倒易(カンリトウエキ)=価値や秩序が乱れている
      管理 等 益  本末転倒
 言易行難(ゲンイコウナン)=言うは易し行うは難し
      原意 硬 軟
 左建外易(サケンガイエキ)=不正に自身の勢力を拡大
      差圏 外 益  地方での反旗を翻す
      作建 臥異訳
 截髪易酒(セッパツエキシュ)=誠意を持って客を接待
      説葉通 訳 主  断髪して酒代にする
 千古不易(センコフエキ)=永遠に変わらないこと
      撰古 付訳  永久不変
 通功易事(ツウコウエキジ)=「通・易」は交換
      通行  訳字  「功・事」は物や品の生産
              分業で生産効率をあげる
 蕩佚簡易(トウイツカンイ)=簡便、簡単、自由、寛大
      統一  漢意
      藤逸  冠位
 万古不易(バンコフエキ)=百世不磨、永久不変
      萬古 付譯
 万世不易(バンセイフエキ)=いつまでも変わらない
      萬 制 付譯
 万代不易(バンダイフエキ)=いつまでも変わらない
      萬 代 付譯
 不易流行(フエキリュウコウ)=一時流行
      付譯 隆興    世々に流行る一時的新しさ
 ↓↑
 以下
 by (https://ja.wikipedia.org/wiki/金錫源)
 ↓↑
 金 錫源(キム・ソグォン)
 1893年9月29日〜1978年8月6日
 大日本帝国陸軍
 及び
 大韓民国陸軍の軍人
 教育家、政治家
 日本名は
 金山錫源(かねやま しゃくげん)
 日本統治下の朝鮮出身の日本陸軍軍人
 王公族軍人を除き
 洪思翊中将(陸軍大学校卒業者)に次ぐ
 高い階級
 現在の韓国では
 親日反民族行為者に認定されている
 ↓↑
 金尚吉の二男として生まれた。
 1909年
 大韓帝国陸軍の
 陸軍武官学校に在学中に同校廃校
 大日本帝国陸軍の陸軍幼年学校に編入
 1915年5月25日
 陸軍士官学校を卒業
 (27期。卒業成績は466人中432位)
 12月25日
 陸軍歩兵少尉に任官
 2年後には歩兵中尉に進級
 ↓↑
 1931年
 満州事変が勃発
 機関銃隊長(大尉)
 700ウォンの賞金を受け
 城南高等学校の設立に使われた
 朝鮮総督府に許可を求めたが
 当時私立学校は独立運動の震源地となっていたので
 設立許可は出されなかった
 日中戦争が勃発し出征命令を受け
 直接
 南次郎総督を訪ねて学校設立を要望
 承諾された
 日中戦争で
 歩兵大隊長(少佐)として
 北支戦線へ従軍
 翌年2月
 山西省東苑で2個中隊をもって
 中央軍第86師を撃退
 功三級
 金鵄勲章を授与
 華北派遣軍司令官名義の感状が部隊に与えられた
 『金部隊長奮戦記』
 『金錫源部隊激戦期』
 『戦塵余談』
 金を称える記事が連日メディアにおいて発表
 崔南善の作詞で
 『金少佐を思う』という歌が作られた
 ↓↑
 後、1年間は黄河流域まで転戦
 中国軍では
 「金錫源部隊と戦うより逃げろ」と言われていた・・・
 1939年3月
 戦地から帰還、全国巡回講演
 1941年
 太平洋戦争が勃発
 1944年
 大佐に昇進
 太平洋戦争終戦時は
 平壌兵事部課長
 ↓↑
 1948年8月
 大韓民国が成立
 大韓民国国軍
 高級将校が不足し
 国防力強化に
 外国軍出身の高級将校に決起が呼びかけられ
 1949年1月
 大佐として入隊
 第1旅団長に任ぜられ
 1949年4月
 准将、第1師団長
 しかし
 南北朝鮮の交易に端を発する
 南北交易事件で
 当時の参謀総長であった
 蔡秉徳少将(日本陸士49期)ら
 軍上層部と対立し
 李承晩大統領に直言する事も憚らなかった
 李承晩大統領の怒りを買い
 蔡ともども予備役に編入された
 ↓↑
 北朝鮮の不穏な情勢を察し
 「目標38度線」を唱え
 大田で義勇軍を組織して訓練を続けた
 1950年6月
 朝鮮戦争が勃発
 軍部の要請で
 7月6日
 首都師団長として現役に復帰
 金 錫源の下に
 「元日本兵である韓国人」が
 全国から集結
 北朝鮮軍は
 金錫源を最も恐れていた
 鎮川で交戦した
 第2師団長の
 崔賢は
 「ああ、いかん。やつとぶつかった」
 と嘆いた・・・
 8月8日
 釜山橋頭堡の戦いの最中に
 第3師団に着任
 第3師団は
 7月17日以来
 盈徳をめぐり
 北朝鮮軍第5師団との戦闘が続いていた
 10日
 敵が興海に侵入し、師団の退路が遮断された
 師団の態勢は
 南北11キロの長蛇の陣になって
 砲兵と艦砲の猛射によって戦線を維持
 第8軍は海上撤退を決心
 戦車揚陸艦を派遣
 8月16日夜から17日朝にかけ
 将兵9000人(負傷者125人)
 警察隊1200人
 地方公務員や労務者、避難民等の1000人余
 及び一切の車両や需品を積み終え
 仔牛までも乗船させて離岸(長沙洞撤収作戦)
 金は一兵も残すことなく
 困難な海上撤退を成功させた
 8月19日
 閔支隊と交代し
 再び
 北朝鮮第5師団と交戦
 9月1日
 病気と疲労のため師団長を解任され
 戦時特命検閲部に就任
 1951年
 陸軍本部付
 1956年
 予備役に編入した後
 城南高等学校の理事長を務め
 国会議員も1期(第5代)務めた
 ↓↑
 2002年
 「民族の精気を立てる国会議員の集い」
 が発表した
 親日派708人名簿と
 2005年
 民族問題研究所で
 親日人名辞書に収録する為に整理した
 親日人名辞書収録予定者1次名簿に
 長男の
 金泳秀と共に選定
 2002年
 親日派708人名簿に掲載
 城南高等学校の敷地内にある
 金 錫源の銅像の
 撤去活動が起こり
 2003年
 撤去された
 ↓↑
 長男の
 金泳秀陸軍大尉(陸士57期)は
 1945年にフィリピン戦線で戦死
 靖国神社に合祀
 ↓↑
 1937年6月
 恵山間三峰で
 金日成の率いる
 朝鮮人民革命軍が
 第74連隊を中心に編成された討伐部隊を
 敗退させ、
 指揮官であった
 金錫源も負傷し敗走した
 と北朝鮮では称揚・・・
 しかし実際の指揮官は
 金仁旭であり
 北朝鮮が
 金錫源に変えた理由は
 「金仁旭」より有名な
 「金錫源」
 を負かしたとする宣伝に利用された・・・
 ↓↑
 以下「産経デジタル・iza(イザ)」から
 by(https://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/)
 ↓↑
 2個中隊で1個師団を撃退
 金錫源(キム・ソグォン)
 韓国軍での最終階級は
 少将
 (1893〜1978年)
 ↓↑
 金錫源
 李氏朝鮮の
 両班(リャンバン)=貴族の家に生まれた
 大日本帝國に“留学”し
 幼年学校に入校
 陸軍士官学校(27期、最終階級は帝國陸軍大佐)
 卒業時の成績は466人中432位
 ↓↑
 支那事変(1937〜41年)
 2個中隊で
 中華民国(中国国民党)軍1個師団を撃退
 功三級金鵄勲章を天皇陛下より賜った
 ↓↑
 大東亜戦争(1941〜45年)
 終結し
 大韓民国が成立(1948年)
 国軍創設
 金錫源
 大佐(後に准将)として迎え入れられた
 ↓↑
 不正を許さず政府・軍上層部と対立したが
 李承晩・大統領(1875〜1965年)
 により予備役に編入されたが
 李承晩・大統領は
 金准将の軍人としての才気を理解しなかった・・・
 ↓↑
 朝鮮国連軍は
 朝鮮半島最南端・釜山に追い詰め
 首都ソウルを見捨て、逃亡した
 日本嫌いの
 李大統領は
 禁じていた
 日本帝國陸軍の教育を受けた
 韓国人に限った部隊編成を裁可
 「金錫源准将」
 も強い意見具申を続け
 日本帝國陸軍出身の
 韓国人将兵のみの
 師団編成を認めさせた
 ↓↑
 「金錫源准将」の指揮する突貫に
 朝鮮人民軍は退却
 後
 「金錫源准将」師団は謎の撤退を実施・・・ 
 これをみた
 朝鮮人民軍は追撃
 重装甲のソ連製戦車で
 金師団に迫ったが
 朝鮮人民軍戦車部隊が
 海岸線に出たところで
 沖合に待機する
 米海軍艦隊の猛烈な艦砲射撃が行われ
 朝鮮人民軍戦車部隊を粉砕
 ↓↑
 「金錫源准将」は事前に
 連絡将校を米海軍艦隊に送り
 自らが囮になるので
 砲撃してほしいと要請
 砲撃地点を明示
 艦砲射撃で
 朝鮮人民軍戦車部隊を壊滅する作戦成功・・・
 ↓↑
 「金錫源」軍歴
 ↓↑
 1909年9月 陸軍幼年学校編入
 1913年5月 陸軍幼年学校卒業
 1915年5月 陸軍士官学校卒業
 1915年
 12月25日 少尉任官、歩兵第61連隊附
 1918年  歩兵第78連隊附
 1919年4月 中尉に昇進
 1925年
 8月7日  任陸軍歩兵大尉
 1927年
 7月26日  歩兵第78連隊中隊長
 1929年
 3月16日  歩兵第78連隊機関銃隊長
 1932年
 5月1日  歩兵第78連隊附
 1934年
 3月1日  任陸軍歩兵少佐
 1936年
 8月1日  歩兵第78連隊大隊長
 1939年3月 中佐に昇進、歩兵第78連隊補充隊附
 1939年
 12月   歩兵第41連隊補充隊附
 1941年3月 独立混成第16旅団司令部附
 1943年8月 平壌兵事部課長
 1944年8月 大佐に昇進
 1945年9月 予備役編入
 1948年  韓国陸軍入隊、任大佐(軍番12444番)
 1949年1月 第1旅団長
 1949年4月 准将に昇進
 1949年5月 師団に昇格し第1師団長
 1949年
 10月   予備役編入
 1950年7月 現役に復帰し首都師団長
 1950年8月 第3師団長
 1950年9月 戦時特命検閲部長
 1951年  陸軍本部附
 1956年6月 少将で予備役編入
      栄典
      功三級金鵄勲章
 by (https://ja.wikipedia.org/wiki/金錫源)
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