mixiユーザー(id:3672419)

2020年09月20日11:32

103 view

映画をみる環境事情。再び

一度め?
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1916692474&owner_id=3672419

高卒後に上京して(正確には東京都内ではなかったけど)一人暮らしを始めて、所謂都会生活で私の映画館通いが始まった、と言える。
勿論、私が生まれ育った地域にも映画館はいくつかあったけれど、それは自由に観に行けるものではなかった。
中学生の時は学校の規則の制約があった。曰く。学校が許可した映画であること。そうでない場合は親と同伴であること。といった具合。高校生の時は、どうだったか?よくは思い出せないのだけれど。高校生時代、私は山に登ってばかりいたのだった。
ともかく。1974年のこと、私は18歳だった。
けっして裕福な家庭ではなかったからバイトしなければいけなかった私が行く映画館といえば、名画座だった。ロードショー映画館なんて考えられなかった。
公開された後の旧作の二本立てで、いつ入ってもよかったし、数百円で観ることができた。
東池袋の文芸座では五本立てのオールナイト上映をやってたりした。
そんな環境事情で、私は、洋画邦画問わず、名画と言われている映画を浴びる様に観た。(と思う。)
東京では、映画館で上映されるだけではなかった。国立フィルムセンターや六本木の俳優座や、いろんな所での上映会があった。上京したての頃、寺山修二の天井桟敷が渋谷の明治通り沿いにまだあって、そこでも映画上映されてた。上映される映画は、芸術映画というかアンダーグラウンド映画というか、よくは解らん様な映画だった。
黒沢明小津安二郎溝口健二今井正木下恵介渋谷実内田吐夢大島渚篠田正浩吉田喜重斎藤耕一山田洋二若松孝二藤田敏八家城巳代治成瀬巳喜男中平康熊井啓新藤兼人
東陽一等々。
勿論、邦画ばかりではなかった。
ゴダールトリュフオ―アランレネEベルイマンブニュエルルイマルロッセリーニパゾリーニアントニオーニAワイダスコシッセハルアシュビーコッポラルーカスキューブリックチャップリン、等々。
小川伸介土本典昭羽仁進亀井文夫原一男、等々、ドキュメンタリー映画作家達の映画上映も盛んにあった。
映画製作会社での修行を経験しなくて、自力で映画を作って上映する、所謂自主製作映画監督達が、何人も登場してきたのも、その頃だったと思う。
大森一樹森田芳光井筒和幸長崎俊一石井そうご高林陽一林海象、など。
CM界で活躍していた大林宣彦の劇場映画『ハウス』公開が1977年、そして、芥川賞受賞作家の監督映画『限りなく透明に近いブルー』と『エーゲ海に捧ぐ』の公開が、両方とも1979年だった。

20歳代、私の青春時代は(主に名画座での)映画と共にあった、と思う。
ちょうど1990年に私は信州佐久市の実家に居を移した。
小諸に二つ、佐久市に三つ(岩村田ロマンス座中込座野沢演芸館)、そして望月町に川西座、これら、佐久地域にあった映画館で、その頃に残っていたのは中込座だけだった、と思う。
それから、1993年3月に佐久インターチェンジが開設、1995年、その近くにアムアムビレッジがオープン、その中にアムシネマがあった。
その二つの映画館で映画を観ていたけれど、それはロードショー映画館と言えて、入れ替え制だし、料金は東京での名画座の様に安価ではなかった。
それで、レンタルビデオ店をよく利用していた。
大型商業施設内かあるいは併設の、複数スクリーンを有するシネマコンプレックス。時代は当にシネコン時代へと向かっていた。
上映時刻をチェックしてその上映開始時刻に間に合う様に出かけて行かなければならない、一作観終わったら出なくてはならない、
などの制約があるし、何よりも、そこで上映されている映画に観たいと思うものがなくてはいけない。ちょっと気軽に映画を観ようという感じにはならない。
私が青春時代に体験しえた映画環境は、地方市町村では望むべくもなかった。
佐久市居住時代の私の映画環境事情は、主にレンタルビデオだった、と言えるだろう。
その後レンタルものはVHSテープからDVDになり、時たまに購入したりもして、要は自宅で見ることが多くなっていった。そんな時代が長く続いたのだ。
そうして、近年。
インターネット時代。新型コロナ禍のご時世の中、私の映画環境事情に変化が訪れている。
つまり。レンタルショップがなくなってしまったのだ。これはイタイ。
とすれば、どうするか?

私は、新たな映画鑑賞状況を考えなければならなくなっているのだった。

・・・やっぱりテレビ見られる様にせないかんか?orネット配信か?
3 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する