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2020年01月22日21:34

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百人百様の発達障害。我は異質な発達障害なり。

発達障害の子どもが授業で困難を覚えたとき、スマホやタブレットの活用による支援を学校に相談するには?
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=140&from=diary&id=5944180


「私は数字に滅法強いのです。他の人が分かることが分からない反面、他の人には分からないことが分かるのです。」

昨年、仲良くなったブロガーのA氏は、ブログの中で自身が発達障害であることを披瀝して憚らないが、その彼がはっきりとそう言った。

彼との会話を通して「我もそうであったか」と膝を打った小生も、この言葉には、ある種本質的な真理を感じるのだ。

で、よくよく思うのは、小生のように、還暦に近づき仕事もリタイアする歳になるまで、自身が発達障害であることに気づかずに奔放に生きたほうが幸せなのか、それとも、物心ついた時期に自分が発達障害であることを知り、その認識のもとに社会で生きていかねばならないと自覚したほうが幸せなのか、ということである。

発達障害の者が、周りとの違いをモノともせず、堂々生きて生ければ、知らないでいたほうが当人にとって幸せなような気がする。
が、そういう発達障害者は稀なのかもしれない。
つまり。
人にできることが自分にできない、そんなことにくよくよ悩むこともなく、異様な言動に眉を顰められようと、知ったことではないと本心で思える発達障害者、もちろん、自分の異質さによって人に迷惑がかかるのだと言われようと、とんだ言いがかりだと一蹴する自信と迫力を持つ発達障害者だ。

そうやって考えてみると、我は稀有な発達障害児であったに違いない。
人が容易にできることができない。
それは確かに言えた。
そう、靴のヒモを結ぶようなことからして、自分だけが出来ないものはヤマとある。

が、「そんなものは出来ないのが大物の証なのだ」と、強がりでもなく本気で思ってきたし、代わりに人にできない能力が自分にはあると見下ろし視線で睥睨した。
なるほど、これが稀有な発達障害児たるところか。

というわけで、親や学校が発達障害児の扱いに腐心し、あれこれ特別な指導方法に頭を悩ませる必要があるのかと思ってしまうんだが、それは、発達障害でも異質な発達障害の小生だからそう思うのだろうな。

「異質な発達障害」
我ながら面白い分類だ。


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